第1部.発症と出会い 1-12.始まった徘徊
白内障の手術後、健次は順調に回復している様子ではあったが、チヨのことが心配な淳一は会社の休みの日には都合を付けて父母の家に足を運んだ。ゴールデンウイーク直前の土曜日、淳一が庭でチヨと掃除をしていると、家の前を中学校時代からの友達である高橋が通りかかった。
「やあ、高橋君、こんにちは。久し振りだねー」
淳一に続き、チヨがにこやかな顔で言った。
「お元気そうね。昔とちっとも変わっていないわ」
「いやいや、もう結構いい歳ですから昔みたいな訳にはいきませんよ」
高橋は嬉しそうに応えた。
「そんなことはないわよ。若々しいわ」
淳一はチヨがあまりにも積極的に話をするので驚いたが、高橋との会話の主導権を取り戻して話を続けた。
「また、昔の仲間で集って飲もうよ」
「そうだね、それもいいね。みんなと会ったら話してみるよ」
「もし、はっきりと決まったら、電話してくれる?」
「ああ、いいよ。それじゃ、今日はこれで。小母さんもお元気で。さようなら」
そう言って高橋は去っていった。淳一は直ちにチヨに確認してみたくなった。
「母さん。今の人、誰だった?」
「誰だっけ?」
高橋のことなど全く興味がないと言わんばかりの顔でそう言ったきり、家の中に入ってしまった。
数ヵ月後、高橋の計らいで中学校の時の仲間たちと飲む機会が得られた。このメンバー全員が揃ったのは本当に久しぶりで、前回いつ集まったかきちんと覚えている人はいなかった。始めのうちは皆がそれぞれ勝手に喋っていたが、幹事役を務めてくれた高橋が皆に提案した。
「皆さん、現在どんなことをしているのかを一人ずつ話してもらいたいと思います。最初は、今回の切っ掛けを作ってくれた聖滝君からお願いします」
淳一は笑いながら高橋の要請に応え、現在の職業、家族構成などを話した。その後、順次3人が話をし、最後に高橋が現状報告して一段落付いた。皆、他の人の現状を知ることができ、会うことのなかった長い時間の障壁が取り除かれたような気がした。昔の友人たちのちょっとした表情や眉毛の動きなどを思い出したりして、会の始まり時点よりは親しげに話を弾ませた。
しばらく皆と昔話をしていた淳一は高橋に訊いてみたくなった。
「高橋君。この間会った時、うちの母、変だったでしょう?」
「えっ、そんなことないよ。だって、俺のこと覚えていて、ちゃんと話をしてくれたじゃないか」
「実はどうも痴呆症のようなんだよ。高橋君のことも本当は全く覚えていなかったんだ」
「ええー、うそ! 信じられない」
淳一がいくら説明しても高橋はどうしても信じられないと言った。健次が時々こぼしていた『チヨは他人との話は本当にうまく辻褄を合わせるように喋るので、誰もチヨのことを痴呆症だと思わないんだ。だから、チヨに俺への伝言を頼むんだ。でも俺には伝わったことは一度もないんだよ』という愚痴を淳一は思い出した。
淳一が数週間後の日曜日にも父母の家を訪ねてみると、チヨは一人で留守番していた。しばらく世間話をしていると、突然チヨが、
「この頃時々何だったか思い出せないことがあるんだよ。この頭が変だからなのよ」
と言いながら自分の頭を拳で軽く小突いた。自分でも痴呆症をある程度自覚しているように思われ、無性に母がかわいそうに思えた。チヨの様子を見ながら涙目になった淳一は小さく呟いた。
「母は本当に良い人で、他人から後ろ指を指されることを嫌い、人に尽くすことばかり考えて生きてきたのに、何でこんな目に遭うのだろうか」
この年の8月には71歳の誕生日を迎えることになっていたチヨに、痴呆症患者の介護者にとって最も対処するのが厳しい徘徊が始まってしまった。
健次はチヨの対応に疲れ果て、穏やかな精神状態ではなくなっていた。頻繁に淳一に電話を掛けてきてはチヨに関する愚痴をこぼすようになった。
研究所では中間管理職となり、それなりに責任のある立場にあった淳一だったが、妻の由美子と交代で土日にはほぼ毎週朝早くから実家に出向き、炊事洗濯などの雑務を引き受けることにした。チヨが発病した後、少しずつ家事を行ない始めた健次は、この頃には殆どの家事を自分一人で行なえるまでになっていた。現役時代には家事一切に手を出さなかった人間としては大変な変わりようであった。しかし、淳一たちが来ている間は全ての家事を任せて、健次は束の間の自分だけの自由な時間を取り戻し、チヨのことなど眼中にないような顔で嬉しそうに過ごした。
いつものように淳一が実家に行くと、健次は『待っていました』とばかりに、散髪に行くと言って外出した。それまで落ち着いていたチヨは急にそわそわし始め、外に出たがった。
「母さん、どこに行きたいの?」
「お父さんを探しに行くんだよ」
「父さんはさっき床屋さんに行くって言っていたじゃないか。終わるまでまだ時間が掛かるから、家でおとなしく待っていようよ」
「ああ、そうだっけ。でも、他の女の人の所に行っているかも知れないから、見に行ってくるよ」
「大丈夫だよ。父さんは真面目だからそんなことはしないよ。安心して待っていようよ」
いくら淳一が説得しても、チヨの目つきはきつくなる一方で、今にも外に飛び出すような勢いがあった。仕方なく健次が帰宅するまで淳一は母に付き添って家の周りを当てもなく歩き続けた。
それからしばらくして実家を訪ねると、勝手口のドアはロックされ、チヨの履物全てが玄関ではなく勝手口に置いてあった。淳一が不審に思って健次に訊ねた。
「どうしたの?」
「チヨが俺の知らないうちに玄関から外に出て行ってしまうので、出て行けないようにしているんだよ」
そう答えると健次は居間に戻って新聞を読み始めた。淳一はチヨの行動をそっと観察することにした。チヨは玄関に行って履物を探したが見つからなかった。それで諦めるかと思ったら、何の躊躇いもなく台所に歩いていき、自分のサンダルを見つけるとそれを履いて勝手口から外に出ようとした。しかし、二重ロックを掛けられたドアを開けることはチヨにはもうできなかった。するとチヨは片手でサンダルを掴み、無表情で玄関に回ってそれを履いて外に出ていってしまった。玄関の開く音に気付いた健次が居間から慌てて出てきた。
「おい、チヨ、どこへ行くんだよ。まったくもう!」
「父さん、いいよ。僕が一緒に付いて行くから」
「そうかい、頼むよ」
健次の顔には『チヨの世話はもう沢山だ』と書いてあるように淳一には思えた。
淳一が玄関を出るとチヨは近くには見当たらず、慌てて小走りに移動しながら探してみたが直ぐには姿が見えなかった。徘徊している時、チヨはとんでもなく速く歩いた。上体をやや前屈みにし、小走りで信じられないような速度で動いた。淳一は必死になって探し、ようやく家の裏手の道を東に向かって歩いているチヨを見つけた。必死に走って追い付き、乱れた呼吸のままチヨに訊いた。
「母さん、どこに行くの?」
「家に帰るんだよ」
「あれっ、今家から出てきたばかりじゃないか。それじゃ、こっちだよ、家は」
そう言って、チヨの腕を取って家の方向に歩き出そうとすると、チヨは嫌がって家とは反対の方向に歩いていこうとした。
「母さんの言っている家とは、今の父さんと暮らしている家ではないんじゃないかな。母さんの頭の中に残っている昔自分が生まれ育った家のことを言っているような気がする」
そう独り言を言った後、チヨが疲れ果てて健次と一緒に住んでいる今の家に帰ることを了承するまで淳一はチヨの徘徊に付き合った。




