第1部.発症と出会い 1-13.捜索願
1995年7月下旬、とうとう大騒ぎになってしまった。
その日の朝、健次はチヨを連れてT老人病院に行った。診断結果はいつもと同じで、経過観察を続けると言われ、これまでと同じ薬を処方してもらって11時前には家に戻った。健次も数年前から血圧が少し高くなっていたので、家の近くにあるN医院から降圧剤を処方してもらい服用していた。この日は薬が切れたので医院に一人で行くことにした。玄関で靴を履いた後、チヨに大きな声で悟らせるように言った。
「おい、チヨ。これから薬を貰いに直ぐ近くのN医院に行ってくるよ。昼飯はもう買ってきてあって、俺が帰ったらすぐ支度するから安心して待っていてくれよ」
チヨが笑顔で頷いたので健次は少し安心して家を後にした。
N医院の待合室には思っていたよりも患者が沢山いて待ち時間が長くなった。昼少し前、突然チヨがN医院の待合室に入ってきた。
「なんだ、ここまで来たのか。俺より前の人がまだ4人もいるからちょっと遅くなるけど、お昼は俺が作るから家に帰って待っていてくれ」
「うん、分かった」
そう言うとチヨはすんなりと待合室を出ていった。
ようやく健次の番になり、少し前に受診した定期健康診断の結果を先生から説明してもらい、いつもの薬を受け取って家に帰れたのは午後1時頃になった。
玄関の鍵は施錠されていたので健次はほっとして中に入り、大声で呼んでみたがチヨの姿は見えなかった。台所に行ってみるとドアが開けっ放しになっていた。そのうち戻ってくるだろうと思い、昼食の準備をして待っていたが、2時になっても帰ってこないので健次は急に心配になった。
財布は置いてあることからお金を持たずに家を出たようであった。服装はN医院に来た時のままであろうから、黄色い半袖シャツと紺のズボンに白い帽子を被っているはずであった。この日は30度を越える暑さで、お金や日傘も持たずに徘徊し空腹になって日射病で行き倒れにでもなっているのではないかとすごく心配になり、由美子と英子に電話を掛けて訊いてみた。二人ともチヨの姿は見ていないとの返事であった。由美子は慌てて車ですっ飛んで来た。
由美子が健次の家に着いて間もなく英子も駆けつけてきて、三人で手分けしてチヨが徘徊しそうな所を必死に探したが見つからなかった。健次が懇意にしている近くの友人の主だった人にも電話を掛けてみたが、この日はチヨの消息は全く掴めなかった。
午後3時になっても見つからなかったため、心配で堪らなくなった健次は警察署に電話で捜索願を出した。受け付けた警察官はパトカーと管内だけでなく近隣の警察署にも手配すると言ってくれた。
午後4時が過ぎた。状況は全く変わっていなかった。警察に問い合わせてみたが、何も連絡は入っていないとのことだった。
三人はじっとしているわけにもいかず、周辺を探し回った。へとへとになって午後5時半過ぎに健次の家に戻り、腰が抜けたようになって呆然としていると、電話が鳴った。
「こちらは先ほど捜索願を受け付けました警察署の者ですが、チヨさんが無事保護されたとの連絡が入りました」
「ああ、良かった。本当に有難うございました。それで、チヨは今どこにいるのでしょうか?」
「お宅から10キロ程離れた場所にある神社の神主さんの所で保護されているとの連絡が入りました。お迎えに行っていただきたいのですが」
「はい、直ぐに迎えに行きます。本当にお世話になりました。有難うございました」
神主の住所を聞くと直ぐに健次は着替えを持って由美子が運転する車でその神社に向かった。
神主の家に着き、声を掛けると奥さんと思われる人が出てきて応接間に通してくれた。中には神主が椅子に座っていて、その反対側に憔悴しきった表情のチヨが座り、汚れて元の色が判別しにくくなった服装のままジュースを飲んでいた。
健次は静かに応接間に入り、神主に頭を深々と下げてから言葉を発した。
「本当に有難うございました。どうにか無事だったようで安心致しました。ご面倒をお掛けして申し訳ありませんでした」
「いえいえ、ご無事で何よりでした」
うなだれていたチヨであったが、健次の声を聞いて安心したような表情を見せた。健次も笑顔をチヨに返した。
健次は持ってきたチヨの着替えを神主に見せ、影の部屋を少しの間使わせてくれるよう頼んだ。神主の奥さんが濡らしたタオルを持ってきてくれたので、由美子がそれで簡単にチヨの顔や手足を拭いてから着替えさせた。応接間に戻り再び神主にお礼を言ってから質問した。
「チヨはどんなふうにこちらに来たのでしょうか?」
「いやね、うちの女房が近くの農協で行われていた防犯の集いから帰ってきたんですよ。あれは午後5時少し前だったかなあ。そしたら、奥さんが隣の家とその先の家の庭を出たり入ったりしていたんで、それから後も気にして見ていたんだそうです。しばらくしたら我が家の庭先に入って来られたんで、私に教えてくれました」
健次は何度も頷きながら神主の目を見て聞いていた。
「それでね、私が行ってみると、どこかで転んだようで泥だらけになっていました。私が『どこから来たの?』って訊いたんですよ。そしたら、奥さんが『山から降りて来ました』って言われたんです。『家はどこ?』と訊くと、『あの山の向こうの聖滝健次の家です』って答えられたんです。去年亡くなった私の母も同じような状況だったものですからね、これは老人性の例の病気だと直感しました。それで警察の方に連絡を入れたという訳です」
「そうだったんですか。お宅のような親切な方のところに入り込ませていただき本当に助かりました。有難うございました。本日はとりあえずこれで失礼致しますが、後日改めましてお礼に伺います」
「いえいえ、お礼なんて必要ありません。とにかくご無事で本当に良かったですね」
何度も頭を下げた後、健次はチヨの手を引いて車に乗せ、由美子の運転で神主の家を後にした。
「チヨ、どこか痛いところはないか?」
チヨと一緒に後部座席に乗った健次が訊いた。
「手が痛い」
「どっちの手だ?」
「こっち」
チヨが左手を健次の方に出したので、眺めてみたが特に傷などは見つからなかった。健次は自分の家に着くと、チヨを風呂に入れて力を入れずに洗ってあげながら傷口があるかどうか調べてみたが、ひどい傷は見当たらなかった。チヨは朝食以降ずっと何も食べていないはずだったので、由美子がおにぎりを作ってあげるとぺろりと平らげた。寝床に連れて行くと、よほど疲れていたのか直ぐに寝息を立てて眠ってしまった。
翌朝、目が覚めたチヨを念のためチェックした健次は、左手が腫れぼったくなっていたので、湿布薬を貼って冷やしてあげた。それでも心配になり、N医院に連れて行きレントゲン検査をしてもらったが、骨折などの異常は見つからなかった。
ずっとチヨのことを心配していた淳一は、研究所が夏季休暇に入ったので、失踪事件のあった3日後に父母の家に行ってみた。淳一の姿をみた健次は直ぐに声を掛けた。
「ああ、淳一。ちょうど良かった。チヨを保護してくれた神主さんの所にお礼に行きたいんだけど、車で一緒に行ってくれないか?」
「もちろんいいよ。今直ぐに行く?」
「できればその方が良さそうだな。今ならチヨが落ち着いているから」
淳一は家には入らず、そのまま健次とチヨを乗せて保護してくれた神主の家まで走った。健次は予め用意しておいた菓子の詰め合わせを差し出し再度感謝の言葉を口にした。淳一も一緒に家の中に入り、長男であることを名乗って頭を下げた。ところがチヨは3日前にあれ程世話になったことなどすっかり忘れた様子で、ニコニコと笑顔を振りまいた。横目でその様子を見た健次は神主には気付かれないように渋い顔をした。
神主の家から帰ると、チヨは落ち着きがなくなってきて、外に出て行きたがったが、健次は失踪されるのを怖がってチヨを外に出さないようにした。
「父さん、僕が一緒に付いていくから大丈夫だよ」
そう言って、淳一はチヨと一緒に散歩に出た。
「母さん、どっちに行くの?」
「家に帰る」
「家ってどっち?」
「あっち」
チヨは山道の方向に歩き出した。淳一は寄り添うようにチヨの隣を歩き、上り坂にさしかかった。この道は始めのうちはかなり幅が広いが、勾配がきつくなるにつれて道幅が狭くなる。それまで元気に歩いてきたチヨは狭い道に入った途端立ちすくんだ。
「どうしたの、母さん?」
チヨの顔には少し恐怖の色が見て取れた。
「恐いの? 大丈夫だよ。僕が一緒にいるんだから」
そう言ってチヨの手を取り、歩き出そうとした。道路の谷側にいたチヨは数歩足を動かしたが再び立ち止まった。
「あっ、崖が恐いんだね。僕がそっち側を歩くよ」
淳一がチヨと立ち位置を交換し、自分が山側になるとチヨは安心したように歩き始めた。
「数日前の長時間の失踪時、山道を歩いていて足を踏み外し、崖から滑り落ちたに違いない。その時の恐怖がしっかりとチヨの頭に残ってしまったのだろう」
淳一はそう考えた。




