蓮
「…リーリ、」
花実ちゃんの声に目を覚ました。
そこは、寝室じゃなかった。
一面水浸しで、水面みたいになっていた。
水面みたいに、水が張られた奥の方がどうなってるかも、見通しがつかないくらい。
深く、濃い青色に染まっている。
花実ちゃんは、そこに横たわっていた。
手が体の上に組まれていた。
いつもよりも細かった。
いつもの肌が青っぽくて、白いシャツみたいだった。
髪はいつもと変わらなかったけど、目は茶色というより黒で、色味がなかった。
唇から歯がうっすらのぞく。
唇はよく見ると少し青っぽい。
歯は象牙みたいに白いはずなのに、色が塗られたみたいな白さだった。
目が動く。
僕の方に、波が動くみたいに、目の奥のゆれが向かう。
「…私、死ぬの。」
「どうして?」
「…わからないけど、死ぬの。」
リーリ、と声がどこかから聞こえてきた気がした。
花実ちゃんは、泣いてるわけでもなく、顔を歪めることもなく。
波一つ立たない水面みたいに静かな顔をしている。
花実ちゃんが、そっとこちらに手をのばす。
思わず、それを取る。
「私が死ぬの、手伝ってくれる?」
「それ、どうやって?」
「…この水の奥に、沈めてくれれば良いの」
はじめて、花実ちゃんの声がかすれた気がした。
どうして僕がそんなことをしなくちゃならないんだろう、
とどこかで思ってはいた。
だけど、なんとなく、そうした方が良い気がした。
花実ちゃんの体に手を添える。
ぐっ、と力を入れる。
沈めようとしても、なかなか沈まなかった。
でも、だんだんと沈んできているのはわかる。
花実ちゃんが、沈みゆく体を見た。
突然、水に泡が立つ。
花実ちゃんが、大粒の水を、目からこぼしていて、それが水面に浮かんできた。
僕は何となく、ふいてあげたくなった。
でも、沈ませるのが先だとなぜか思った。
花実ちゃんの目から、水滴がぴちゃ、とこちらに飛んできた。
塩っぽい味がした。
花実ちゃんは顔色ひとつ変えずに、やがて、水滴も流さなくなった。
それで、いつの間にか僕が押さなくても、水の底へと沈んでいった。
終わった。
僕はただ、そう思った。
なんで、やってしまったのか、後になっても考えなかった。
ただなんとなく、最後、沈む前に花実ちゃんが微笑みかけたような気がした。
でも、それは気のせいかもしれなかった。
空をふと見上げた。
そのどうしようもなく広い空を。
黄色っぽくて、砂を一面にかけたように汚い色をしていた。
雲が時折通って、茶色に染まる。
それは泥がかかったみたいに、苦々しいものを残していた。
長い静けさだった。
水面の色は暗い青色のまま変わらない。
僕は何となく、体操座りをした。
なぜだろう、僕はふと考えていた。
僕は、花実ちゃんを殺してしまったのかな。
それは重たい事実のはずだった。
でも、なんとなく、苦いような色の雲以外何もない空っぽの空に似つかわしい、
軽々しい、中身がない空気をまとう言葉だった。
ただ、ずっとその言葉を呟いていた。
殺してしまったのかな。
ぽこ、と水面から音がした。
水面を見ると、蓮の花が浮かんできた。
花だけが、ふわ、とまるで煙が立ってくるみたいに。
どこからともなく浮かんできていた。
それはまるで、バラの色だった。
いや、バラよりも綺麗だ。
赤くて、白みがさした花びらの先が映えている、美しい花。
光がさして、透き通った花びらが、ゆっくり開く。
開いた様子は、赤ちゃんが手を広げた時みたい。
みずみずしくて、華やかだった。
それは、花実ちゃんだった。
花実ちゃんが、僕の元に帰ってきたのだ。
それは僕がその花を手で包んだ時。
花の水気が手を濡らした。
水を含んだ花びらがふっくらしていて。
まるで人形に包まれたみたいに柔らかい。
だからすぐにわかった。
なんとなく。
でも、やっぱり確実に、花実ちゃんだった。
ふと空を見上げると、黄色だったはずの空は、橙色に変わっていた。
まるで日がさすような、そんな温かな、全てを包み込むような、優しい色。
「リーリ」
どこかから、そう声が聞こえる。
ふと周りの水面を見渡すと、辺り一面に、白バラのつぼみが浮かんできていた。
どれもこれも咲きそうだったけど、まるで白い綿布のように柔らかく、白い柔らかい花びらが見えるところに、水滴がぽつりとついて、きら、と光っているのが見える。
そうか、外は朝なんだ。
そう思って、僕はだんだん眠くなってきて…いつのまにか、寝てしまった。
朝になっていた。
僕はがばっ!、と起き上がった。花実ちゃんの横で寝てしまっていた。
花実ちゃんを、殺した…?
いや、あれは…
花実ちゃんが、死ぬ?
それは恐ろしい響きだった。
僕が、いや、だれか、花実ちゃんを、殺してしまうのではないか。
それはただの予感だったけど、どこか確信に近かった。
だから、恐ろしかった。
なんだかぷるるっ、と体が震えてきた。
花実ちゃんを、守らなきゃ!
僕はそう思った。
花実ちゃんはこの夏はごろごろ過ごすことが多いらしい。
たぶん、外は問題ないと思う。
でも、花実ちゃんが夢の中で殺される、とか、家の中で、とか、色々あり得た。
僕は、ただひたすらぶるるる、と震えた。
花実ちゃんが、ふ、と目を開けた。
「花実ちゃん!」
「なにそんなに慌てて。」
「すごいうなってたから、心配したんだよ!」
なんとなく、昨日の夢は伝えないでおいた。
花実ちゃんはわかってるのかな。
いや、わかってないのかな。
花実ちゃんは、じっと僕を見つめる。
疑ってるみたいで、ちょっと可愛い。
なんだか顔が熱くなる感じがして、思わず下を向いた。
「…触った?」
「え?」
「寝てる間、触った?」
「…少し。」
「…やだ、触んないでよ!」
怒ったように唇を尖らせる。
困ったような眉が、光に照らされて柔らかい色をしていた。
それから花実ちゃんはあわてるみたいに、部屋から出てって、バンッ!、って扉を閉めた。
それからどたどた、下へと降りてしまった。
僕はぽかん、としたように、それを見てたけど、すぐに下へと続いて行った。
階段の手すりの隙間から、下を見た。
朝の光が、窓から長く伸びていた。
白い床の上に、四角く切り取られた光が落ちていた。
夏の朝の光だった。
透き通っていて、水の中に朝日を溶かしたみたいだった。
窓の向こうの空は青かった。
昨日夢の中で見た、濁った黄色じゃない。
ちゃんとした空だった。
なのに。
なぜか少しだけ、怖かった。
玄関の方から風が入ってくる。
その風が僕の腕を通っていった。
でも、不思議だった。
風が通ったはずなのに。
僕の体は、少しも揺れなかった。
ただ、胸の奥だけが、ふわふわした。
……変なの。
僕は、自分の腕を見た。
丸くて、少し短い腕。
昔から見慣れているはずなのに。
なんだか今だけ、自分のものじゃない気がした。
焼きたてのパンの匂いは、階段のところまで来ていた。
甘くて、少し焦げた匂い。
バターの匂いも混ざっている。
朝だった。
ちゃんと朝なのに。
窓の外ではセミが鳴いてるのに。
なんでだろう。
僕だけ、まだ夢の中にいるみたいだった。
花実ちゃんの「私、死ぬの」。
その声だけが、水の底に沈まないで、ずっと耳の奥でゆらゆらしていた。
「おはよー、花実、父さんは最近寝れなくてさー、暑いからね…」
「…おはよ、お父さん私もあんまり寝れてないよ。」
「母さんは寝れたけどね?」
「いいな、父さんにもそのどこでも寝れる能力、分けて欲しいよ〜」
「…いただきます…」
花実ちゃんはぼそっとした声だった。なんか、僕に見せる顔よりも、元気がなかった。
「今日もごろごろするの、」
「いいでしょ」
「そうなんだ」
「あと花実、前から気になってたけど、2枚のパンは食べ過ぎじゃない?」
「いいでしょ」
「まぁ明日キャンプ行くか〜、リーリもね」
「それはよかった」
僕は階段の途中から、ずっと見ていた。
いつもの場所。
そこが僕の場所だった。
なんでかは知らない。
でも昔から、そうだった。
花実ちゃんはパンをちぎった。
指先だけが動いていた。
窓の光が横から当たっていて、茶色っぽい髪が透けていた。
綺麗だった。
だけど。
花が枯れる前みたいだった。
まだ綺麗なのに。
少しだけ、色が消えかけてるみたいな。
そんな感じがした。
僕が食べ物の時は忘れられてしまうのは…
僕は、少し拳に力を入れて握っていた。
花実ちゃん…
ふと思う。
花実ちゃん…家族とは仲悪くもないみたいだし…
直感で、花実ちゃんは夢の中で殺されてしまうのではと思った。




