霞の中の龍野城 17
「どうして」
ここは、滋賀県だ。琴姫の大切な私物が、こんな所にあるなんて。
「兄上様」
冷たくなった広貞に、覆い被さる様に泣き叫ぶ琴姫。父を亡くした時は、悲しさと毒を使用した者への怒り、生前の思い出が心を支配していた。それでも、前を向いて来れたのは、兄の存在が大きい。
広貞がいたから、琴姫は頑張れた。
兄を亡くした時、琴姫は初めて世の中の終わりを感じていた。
終わりだ、終わりだ。
兄上様でさえ、若いと家臣達から不満の声が上がっていた。
播磨は、その統治を巡って小競り合いが絶えない。
天下布武を掲げた織田信長が、播磨ごと手中に収めようとしている。
嫌だ、無理だ、逃げ出したい。
もう、消えたい。
辛いのも、悲しいのも、いらない。
この時、琴姫は逃げ出したいと本気で思っていた。
だが、
「琴姫様」
背後から清忠に、ふわりと抱きしめられた。
その温かさに身を委ねると、
「広貞様」
歯を喰いしばって、嗚咽を堪える清忠の熱が伝わってきた。
ああ、まだだ。私はまだ、諦める訳にはいかない。
「頭を上げよ。辛い時ほど前を向け」
兄上様の言葉が甦る。
「はい」
どんなに辛くても、やらなければならない。
琴姫は顔を上げ、清忠に婚姻取り止めの命を下した。
久しぶりに、琴姫の感情に触れた。
「美琴、大丈夫?」
急に動かなくなった娘に、お母さんは不安気に顔を覗いてきた。
「私ね、もしかしたら琴姫の生まれ変わりかもって思ってたの」
不思議な体験から、どうしても考えてしまうのだ。
「でも、違うって気がついた。琴姫の感情は流れてくるけど」
美琴は、一呼吸して自分に言い聞かせるように続けた。
「私は琴姫の顔を見てるの。普通、自分の顔は見れないでしょう」
鏡でもない限り、不可能なのだ。
「琴姫様、綺麗で芯の強い方だったね。ばぁばも、美琴と琴姫は別の人だと思うよ」
突然、おばあちゃんが美琴を肯定した。
「琴姫様では無いけど、ばぁばにも別の人の記憶があってね」
「ええ、それは誰なの?」
「言えない。秘密とかじゃなくてね、話そうとすると言葉にならないんだよ」
「私は話せたよ」
「琴姫様だからかね。ばぁばの記憶の人は語らせてくれないんだよ。でもね、この人は琴姫様が大好きなんだ。焦がれるように好きで、尊敬している。いつか、この琴を返そうと守ってるんだよ」
おばあちゃんは悲しそうに目を閉じた。
「今も、語ってきてる。美琴に届けて欲しいみたいだよ」
おばあちゃんは、蔵の奥から折りたたまれた和紙を持ってきた。
ゆっくり広げると、中から切れた琴糸が出てきた。
「行ってくれるかい?」
どこにと、尋ねなくても分かる。龍野城に琴糸を届けて欲しいのだろう。
「うん、行ってくる」
美琴は、和紙ごと受け取った。
「待って、美琴1人に行かせられないわ。お母さんも行く。痛い!」
話の途中で、お母さんはバランスを崩して倒れ込んだ。
「駄目だよ、美琴しか望まれてないんだ。大丈夫だよ、悪い事にはならないから」
「でも、なんだか変な事ばかりで。娘を1人で行かせられないわ」
お母さんはが心配してくれている。でも、不思議と美琴も、危ない事は起こらない気がするのだ。
「お母さん、一人で行ってくるよ。悪い事にはならないと思うから」
「でも」
「スマホも持っていくし、直ぐに連絡するから」
「そうね」
お母さんは、渋々頷いた。
「まず、姫路城に行って欲しいみたいだよ」
「誰かが言ってるの?」
「なんとなく、伝わってくるんだよ。姫路城の事は知ってるかな?」
「世界遺産で、別名白鷺城って言われてる城ってくらいかな。あとは、龍野城の事を調べてて」
急に喉に違和感を感じた。
「あれ?話せないみたい」
「龍野城と姫路城に関する話だね。琴姫様が言って欲しくないんだろうね」
「そうかもしれない。じゃあ、先に姫路城に寄ってから龍野城に行ってくる。琴糸も持って行くね」
美琴はスマホを取り出して、旅の予定を立て始めた。