霞の中の龍野城15
第二章 美琴
美琴が大学4年生になろうとしていた春。
琴姫の記憶を拒否してからは、何も蘇っていない。
一方で、幼少期の記憶が鮮明になっていた。
美琴が不思議な体験をし始めたのは、小学六年生のころ。掃除の時間にスミレの花を雑草として抜かれそうになった時だった。
確かに、琴姫の記憶に菫の花を植え替えるものがあった。
でも、それだけなのだ。美琴の不思議な体験のきっかけになる出来事とは思えない。
美琴は転生を信じてはいない。自分の人生は一度きりだと思っている。
「でも、琴姫。あなたは存在したんじゃないの?」
美琴が問いかけると、声が聞こえてくるのだ。
「兄上様、琴もやりたいです」
道場の中は、男達の熱気で溢れていた。
木刀の打ち合う音と、「ヤー」「タアー」と気合いの籠った声が響いている。
「危ないから向こうに行っていなさい」
撃ち合いの中に入ってくる琴姫を、広貞は慌てて止めた。
「兄上様と一緒がいいです」
「駄目だ。下がりなさい」
「嫌です。兄上様と一緒がいいです」
この時、琴姫は八歳。母を亡くした直後だった。
「打ち方やめ。広貞殿、琴姫様と外へ。清忠、お前もだ」
号令をかけたのは、清忠の父で指南役の忠信だった。
広貞は、木刀を置き一礼して琴の手を引き道場を出た。無言で歩く姿に、兄を怒らせたと悲しくなった。
広貞は角を曲がると立ち止まり、大きく息を吐いた。
「琴、駄目だよ。道場で訓練中は木刀が飛んで来ることもあるんだ。怪我をするぞ」
訓練を邪魔された事より、琴の身を案じる兄。
「兄上様も怪我をするのでは?琴は、嫌なのです」
想像するだけで、涙が流れた。
「母上が亡くなられて、悲しいな」
広貞に指摘されると、琴は声を出して泣き出した。
どれくらい泣いたのか。広貞は、琴が泣き止むのを静かに待っていてくれた。
「こちらをどうぞ」
清忠は、水と手拭きを渡してくれた。
落ち着きを取り戻すと、琴は己のした事が恥ずかしくなってきた。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる琴に、広貞は言ったのだ。
「仕方がないだろう。琴も、悲しい気持ちを何かにぶつけないと」
「兄上様も悲しいのですか?」
「当然だろう。私は剣を振る事で気を晴らしている」
「琴もやります」
「えっ、いや。琴が剣を学ぶのは、うーん」
言い淀む広貞に声をかけたのは、清忠だ。
「道場での訓練は無理と思いますが、外で木刀を振るだけなら大丈夫ではないでしょうか」
「そうだな、やってみるか」
それから、二人で剣の持ち方、振り方を教えてくれた。
「あぶないから、道場には入るんじゃないぞ」
「はい。兄上様」
不安から、広貞の姿が見えなくなると泣き始める琴に廊下での素振りを提案してくれた。
「兄上様、手が痛いです」
「兄上様、喉が乾きました」
絶えず話しかける琴姫に、広貞は
「少し休みなさい」
「水を貰ってきなさい」
その都度、応えてくれたのだ。
「本当に、優しいお兄ちゃんだったよね」
兄のいない美琴には、羨ましく感じる。
広貞と清忠は、主従関係が無ければ、良き友となっただろう。
琴姫が剣の持ち方で困っていたら、清忠が持ち方の手本を見せ、広貞が直してくれた。
手豆が潰れ、痛みを我慢していた琴に先に気がついたのが清忠だ。
「どうしました」
「なんでもないよ」
手が痛いと言えば、兄と引き離されると思っていた琴は、本音を漏らさない。
「私が木刀を降り始めた時は、指の下の手のひらに水膨れが出来て傷んだものです」
「懐かしいな。水膨れや血豆が破れたら痛かったな。隠れて水に浸したりして。あっ、琴。もしかして」
広貞の視線が手元に行く。
「痛いのか」
この事を理由に、兄の傍に居ることを拒まれると考えた琴は、手を見せようとしない。
「間違いないでしょう。手桶に水を汲んできました」
「琴、手を見せなさい」
言われても、手を開くのが怖い。
「しっかり手当をしないと、明日から訓練に参加出来なくなりますよ」
「そうなの」
「はい。剣術の訓練の始まりは、手豆との戦いです。勝つ為に手当をしないと」
そう言われて、琴がそっと手を開くと。
「痛そうだな」
「血が出てますね」
琴を不安にさせる言葉を言いつつ、素早く手当をしてくれたのだ。
「この2人に囲まれて手当を受けてるのを見たら、姫だなって思うよね」
美琴が呟くと、今度は父の声が聞こえてきた。
「はははっ、琴は美しく育つぞ。母に似て美人になる事、間違いなしだ」
少し酒が入り、上機嫌の父上が琴を褒めそやした。
「まあ、琴は私より美しくなりますよ」
ふふっ、と笑うのは琴の母だ。
美琴から見ても、かなりの美人だ。この時、琴姫は八歳くらいだろう。
「母上様、琴は同じがいいです」
「まあ、欲の無いこと。母より上に行きたいと思いませんか?」
「はい、琴は母上様と一緒が良いのです」
「なんと、心根まで綺麗ではないか。これからは、琴ではない。琴姫と呼ぼう」
低音の豪快な笑い声が、耳に心地良い。
この頃から、城主である父が『琴姫』と呼ぶ回数が増えていき、次第に定着していくのだ。
「琴姫、貴方は実在したの?何か、伝えたい事があるの?」
美琴はしばらく考えて、自室を出た。
「お母さん、ちょっと旅行に行ってくる」
「ええ、どこに行くの」
「兵庫県、たつの市」
美琴が答えると、
「どこよ、それは!」
母の焦りを含んだ大声が、家中に響き渡った。