後輩
***
久々のアルバイトに、若干憂鬱になる。いざ仕事が始まるとそうでもなくなるんだけど、始まるまでの時間が僕は嫌いだった。近づくにつれてジワジワと精神が削られていく感じで、つい仮病を使いたくなってしまうのだ。
昨日は知らないうちに寝落ちしてしまった。一度夜中に目が覚めたんだけど、そこから起き上がることが面倒臭くてまたすぐに目を閉じてしまった。
相手が慣れ親しんだ遥陽とはいえ、彼女との初めてのデートだったんだ。何かと疲れが溜まっていたんだろう。
今の僕は昨日の汗と汚れが全身にこびり付いたままだ。朝食の前に身体を清めるべく、着替えを手に持って洗面所へと向かった。
「――あっ……」
「……っ 」
と、そこへスポーツウェアを纏ってリビングから出てきた美帆と鉢合わせてしまった。
「……おはよう……今から部活?」
「……うん」
つばのついた白い帽子を深く被った美帆は、こくんと小さく頷くと、そのまま縮こまりながら僕の横を通り抜けていく。まるで昨日を再現しているみたいに。
結局僕は、昨日あれから美帆と話をする機会は作れなかった。僕の方がすぐに寝てしまったというのが主な原因なんだけど……。
美帆は明らかに僕のことを避けている。遥陽と付き合ったことを黙っていた事に怒っているのかな……。
他に心当たりもないし、考えられるのはそれぐらいだった。けどそうだとして、何であんな暗い態度をとっているのだろう。
よく三人で遊んだりすることが多かったから、除け者にされたみたいで嫌だったのかな……。
僕の知らないところで、何か美帆の逆鱗に触れてしまったという可能性も無きにしもあらずだけど、こういう場合の美帆はすぐに僕に指摘して、お詫びにスイーツ買ってきてなどと対価を払わせてくるから、多分違うと思いたい。
とは言え、美帆はもう行ってしまった。
僕は一度部屋に戻ってスマホを取り、『ごめん、美帆とは話せなかったから遥陽さん頼みます……』と今から部活で会うであろう遥陽に後を託した。
遥陽からの返信はすぐに返ってきたけど、本文はなく溜め息を吐いた棒人間のスタンプが一つのみ。
かなり呆れられてしまっている……。
でも遥陽なら、美帆も僕と違って素直になってくれると思うしここは女の子同士に任せておこう。
僕も今日は午前からのシフトだから、急いでシャワーを浴びて支度を済ませ、バイト先のショッピングモールへ向けて自転車に跨った。
***
「せーんぱいっ! おはようございまーす!」
「――えっ? ちょっ……」
バイト用の制服に着替えた僕がキッチンに向かおうとすると、突然カウンターの陰から手が伸びてきて襟首を引っ張られた。
「……何するの達海さん。心臓止まるかと思ったんだけど」
危うく足を滑らせて、床に後頭部をぶつけるところだった。
「心配しなくても大丈夫っスよ。ちゃんとあたしが胸で受け止めるっスから」
僕と同じく黒いTシャツと赤いバンダナに身を包んだ達海さんは、自分の胸に手をあてがって何度も叩いていた。下着の上に一枚しか着ていないだけあって、かなり二つの膨らみの主張が激しい。
いつもこんな格好で接客しているのか……。ここ健全なレストランなのに……って僕はさっきから何を考えているんだ。
背丈に目を瞑れば、グラビアアイドルも顔負けの完璧なプロポーションの持ち主で、小悪魔的な内面を併せ持つ僕の後輩と顔を合わせるのは、随分と久しぶりな感じがした。
だけど実際には一週間も経っていない。あれから僕や僕の周りにいろいろありすぎて、あのカラオケでの出来事が遠い昔のように思えてしまう。
今思い返しても、あの時は本当に弄ばれてしまった。後輩である達海さんに散々からかわれた挙句、そういう誘いに耐性のなかった僕はあと少しのところで堕とされるところだったのだ。
我ながらチョロいし恥ずかしいし、今となっては完全な黒歴史。
「達海さんこそ、心配してくれなくてももう僕には受け止めてくれる人がいるから」
「えっ、なんスかその自信に満ち溢れたオーラは」
だからそんな誤ち未遂もあってからか、達海さん相手には何だか見栄を張ってしまいたくなる。こんなきな臭いことを口走るつもりじゃなかったんだ。
できれば聞かなかったことにしてほしかったけど――
「先輩もしかして彼女でもできたんスか?」
ずいっと達海さんが一歩前へ寄ってきた。顔もそうだし、何よりも破壊力抜群のそれが僕の薄い胸板にさえ届きうる距離まで詰めてくる彼女に、またしても手足が硬直してしまう。
けどここで照れたような反応をすれば、相手の思うつぼだ。僕はできる限り達海さんを上から見下ろすようにし、こちらも負けじと一ミリぐらい達海さんに顔を寄せた。
「で、できたけどそれがどうかした……?」
ゆ、言ってやったぞ! 偉いぞ僕。
その証拠に、両目の目玉が飛びきれんばかりに見開いた達海さんが、僕から距離を取った。
「ほ、ほんとっスか? 例の片想いのあの人を寝とったんスか? 童貞の先輩が?」
「寝とってないし、相手は九条さんじゃない。あと本当にお願いだからそういうのはあまり人前で言わないでください」
一言余計すぎる。他のバイトの人たちの視線が一斉にこちらに向いたじゃないか。けど何よりも一番悔しいのが、それを否定できない僕自身……。
「ふーん、そうなんスね。この前まであんなに諦めきれていない感じだったのに、こりゃまた早い心変わりっスね」
「本当の恋を知ったと言ってほしいね」
「……なんかリア充になったからか、むちゃくちゃムカつくんスけど一発殴っていいっスか?」
「駄目に決まってるでしょ」
達海さん相手だとやっぱり調子が狂ってしまう。相手をしていても埒が明かないから、さっさと厨房にこもろう。
その後も僕に相手は誰とか、写真はないのかとか詰め寄られたが、適当に会話を切り上げてキッチンに続く暖簾に手をかけたら――
「ちょいまち先輩」
後ろから袖を引っ張られ……何回これ繰り返すんだ……。ことある事にやられていたら、そろそろ制服不自然に見た目に伸びるんだけど。
今度は何かと、僕が問いかけようとしたところ、達海さんは店のレジの方から一人の男の子の腕を引っ張って僕の前に立たせた。
「この子、ついこの間入った新人なんスけどあたしと同じ高校に通うクラスメイトっス。キッチンに入る予定っスから面倒みてあげて下さいっスね」
何だそんなことか。またふざけたことを言ったりしたりかと思いきや、普通にまじめな話だった。てかそう言うのは最初にして。
「福村貴大です。よろしくお願いします」
「僕は長浜凜玖こちらこそよろしく」
達海さんと同年代とは思えないほど、恭しく丁寧なお辞儀をした福村くん。背は僕と同じぐらいだけど、短髪で切り揃えられて髪に、愛嬌満点の丸みのある顔つきは、清らかな感じがする。
「何でも今片想いの子がいるらしいっスから、そっちのアドバイスとかもよかったらしてあげてくださいっス」
「お、おい達海……!」
すぐに福村君が抗議の悲鳴をあげた。うん……何かこの子僕と気が合うかも……。あとで【対達海さん同盟】の締結を呼びかけよう。
「ちゃんとその子の写真もあるッスよ! えぇっと……」
「おまっ、それは……!」
自身のスマホを操作する達海さんに覆いかぶさって何とか阻止しようとする福村君。もしかして僕も、周りからはこんな風に見られたりしているのかな……。
「いや別にいいよ達海さん。福村君、準備があるからそろそろいこっか」
「は、はい!」
誰のせいとは言わないけど、自分の恋をイジられる辛さは、僕も人並み以上には理解している。
正直この福村君が想いを寄せている子というのがどんな子なのか、気にならないこともなかったけど、本人が嫌がっているようならまあ仕方ない。
僕と福村君がキッチンの中に姿を消した際に、達海さんが『あとで福村に乱暴されたってひーちゃんにいいつけてやる!』とか何とか叫んでいた。
ひーちゃんと言うのが、福村君の好きな子のニックネームか何かなのかな。
そういえば九条さんも、名前が雛美だからか、前に友達にそんな呼び方されてたな……。
なんてことを思い出しつつ、僕はもう一人のキッチンの先輩と一緒に、福村君に簡単な業務から教え始めた。
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