Day3:高台のカフェテラス
彼女が悲しみを一人抱えこんでしまった時、必ず訪れる場所がある。
それが、高台のうらびれた通りにある古い喫茶店のテラスだ。
店はログハウス風の一軒家造りで、通りに面してウッドデッキのオープンテラスが広がっている。
長く続く坂の八合目ほどにある、その店のテラスからは駅へと下る街並を一望できる。
だが、それは見ていて、決して楽しくなるような風景ではない。
停滞する日本経済の影響だろう。
通りの両側に目立つのは、ペンキがはがれ落ち錆びついたシャッターがいつも閉ざされたままの店舗と廃ビルの行列だ。
人通りもきわめて少なく、ましてや坂の上ともなると、人とすれ違うのもまれだ。
ひっそりと静まりかえった、この通り。
楽しい気持ちになるどころか、ひどい寂寥感を漂わせている。
この店の年老いたマスターの話では、昔は近くに学校があって、放課後はその学生たちで溢れかえり、街にも活気があったそうだ。
それが学校が閉校になったころから、不景気の波が一気に押し寄せ、通りの店も次々と廃業し、ついにこの有様になってしまったらしい。
僕はこんな場所で、彼がこの店をどうして続けているのかが不思議でならなかった。
ある時、マスターに訊いてみたところ、彼は、
「趣味のようなものですよ。それにここには想い出がありますし」とテラスから店のほうをどこか悲しげな目で見た。
見ると、ログハウス風の外壁のマスターが見つめる一角だけ、あとから木をあてがったような感じになっている。
僕はそれを眺めながら、なにか辛い出来事でもあったのかなと、それ以上深く詮索はしなかった。
麗ちゃんと僕は今、その物悲しい通りに面するテラスに座っている。
九条院本社ビルからずっと泣き続けていた麗ちゃんも、この店に来てようやく落ち着いたようで、物憂げな目でコーヒーを何度もかき混ぜている。
そういえば、麗ちゃんとこの店に初めて立ち寄った時、マスターは驚いたような表情で、彼女の名前を訊いてきたことがある。
麗ちゃんが名前を告げると、マスターはすぐに元の落ち着いた顔つきに戻ったが、彼の目はいつも彼女を見ているような気がする。
数席あるテラス席の端ではおじいさんが、鼻ひげをいじりながら一人静かに本を読んでいる。スーツ姿で小洒落た装いのそのおじいさんは、片手に本を持ち、コーヒーを飲む時も本から目を離すことがない。
ここに訪れる時はいつも見かけるおじいさんだ。
近所に住んでると思うのだが、声はかけたことはない。
「あのね……」
ずっと黙っていた麗ちゃんが僕に話しかけてきた。
泣き腫らして、まだ赤みを帯びた彼女の目には、もう怒りも悲しみも感じられない。
穏やかな表情がそこにあった。
僕は飲みかけていたコーヒーカップを置いた。
「なに? 麗ちゃん」
麗ちゃんが僕の目を見て、ぽつりとつぶやく。
「私には夢があるの」
「え、それはどんな夢?」
彼女はゆっくりと通りを見回し、それからまた僕を見た。
「この街を昔のような活気溢れる場所にしたい、という夢よ」
「それって、つまり?」
僕はなんとなく彼女の言わんとすることがわかった。
「そう、日本をもっと元気にしたいの。そして、みんなが明るい未来を夢見ることができる社会を取り戻したいの。郁が皇爵に言ったようにね」
ああ、そういえば皇爵にそんな大層なことを言ったっけなあ。
適当に言い繕っただけなんだけど……。
けど、麗ちゃんなら本当にできそうな気がする。
僕はそれに黙ってうなずく。
「そのためには!」
突然声を張り上げ、麗ちゃんがテーブルを拳で叩く。
カシャリと二人のカップの音が響いた。
僕は少し驚き、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「九条院グループを必ず再興させないと!」
彼女の目には、また光が宿っていた。
あの副社長との対決から麗ちゃんが立ち直ったんだ!
「じゃあ、麗ちゃんの言ってた華族法第何条とかの手続きを早速開始するの?」
僕は僕なりに今後の方針を言ってみた。
だが、彼女は首を振って否定した。
「いいえ、違うわ」
「じゃあ、麗ちゃんのお父さんの株式の行方を調べて、取り戻すの?」
「それも違うわ」
二回も違ったのでよく考えてみたが、方策がまったく浮かばない。
下手の考え休むに似たり、と言うけどまさにその通りだな、と思っていると、
「いくら郁が考えても絶対にわからないわ。だって……」
途中まで言うと、麗ちゃんはくすくすと笑い始めた。
麗ちゃんがやっと笑った、と僕もなんだか少しうれしくなった。
そして、彼女の次の言葉を待ったが、口に手をあてがい、まだ笑っている。
「ねえ、教えてよ。僕には絶対わからないんでしょ?」
「そうよ。郁どころか、副社長にだってわからないわよ」
なんだろう? すごく気になる。
「もったいぶらないで教えてよ。この状況で麗ちゃんが笑うくらいなんだもん。もの凄い考えなんでしょ?」
僕はテーブルに身を乗りだし、訴えた。
麗ちゃんが笑うのをやめ、僕を真っ直ぐに見た。
それから、自信満々の声で言った。
「タイムマシンよ」
「え……?」
意外な言葉に拍子抜けして、思わず口がポカンと開いてしまった。
次に僕は麗ちゃんの顔をまじまじと見回した。
あまりの出来事の連続で、もしかして頭が変になっちゃったんじゃないか、と心配しながら。
その様子を見て察したのか、麗ちゃんが、
「郁。私の頭がどうかしちゃった、と思ってるんじゃないの?」と半眼でにらむ。
「だってさ。タイムマシンだよ。まだエアカーだって飛んでない時代なのに」
僕は大げさに手を広げて見せた。
だが、麗ちゃんは一向に臆することもなく、
「タイムマシンで過去に飛ぶの。そして九条院を、いや、日本の経済を必ず再興させてみせるわ」と腕を振った。
その手がカップに触れ、コーヒーがこぼれた。
白いテーブルクロスに茶色い染みが広がっていく。
僕はその染みを見ながら、とうとう麗ちゃんの頭のネジが飛んじゃった、と少し悲しい気持ちになった。
麗ちゃんはといえば、姿勢を戻し、じっと僕の様子をうかがっている。
僕は言葉が見つからず、途方に暮れるばかりだ。
仕方なく、ここはひとまず彼女に話を合わせてみよう、と思いついたのは、テーブルの染みがかなり大きくなったころだった。
「ところでさ、そのタイムマシンってどこにあるの?」
やっと話に乗ってきた僕に満足したのか、麗ちゃんはうっすらと笑みを浮かべた。
「九条院総研よ。そこで密かに開発していたの。これは九条院の一族しか知らないことよ」
「九条院総研?」
「そう。九条院グループの研究機関、いわゆるシンクタンクよ」
「それは本当なの?」
「論より証拠よ。明日、早速行きましょう」
僕は麗ちゃんの目を観察した。
嘘をついてるようにも、いかれちゃったようにも見えない。いつもの知的な目だ。
それにこの期に及んで、僕に嘘をついても何のメリットもないはずだ。
「わかったよ。本当にあるんだね」
幾分やれやれ顔かもしれないが、彼女に折れることにした。
その言葉に麗ちゃんが身を乗りだし、僕の腕をつかんだ。
「郁も私と一緒に行ってくれるわね! 過去に!」
「うん。タイムマシンが本当にあったらね」
とりあえずそう答えておくことにした。
ここは彼女の今後の行動で確かめるしかない。
そこへ突然、聞き覚えのない声が横から割りこんできた。
「そういうことでしたか」
その声に驚き、二人で横向くと、本を読んでいたおじいさんが僕らのテーブル脇に立っていた。
このおじいさん、いつからそこにいたんだ?
「な、なんでしょうか……?」
秘密を聞かれたことに慌てたのか、麗ちゃんがちょっと泡を食った顔で、そのおじいさんにたずねた。
「通りかかったら、ちょっと気になる単語が聞こえたので、悪いけど聞かせてもらいましたよ。おかげでようやく永年の謎がとけました。マスターにも話しておかないと」
おじいさんは上品な笑みを浮かべ、柔らかな眼差しで僕を見下ろしている。
「SFではマルチユニバースか分岐型未来とでも言うのかな。とにかくお二人ともここにいる時は黒いボックスカーには気をつけなさい」
そう言い残すと、鼻ひげを一ついじり、おじいさんはゆっくりと僕らのテーブルを離れていった。
「なんだろう。あのおじいさん?」
きれいな足取りで店を去っていくおじいさんの細い体を目で追いながら、僕はつぶやいた。
「さあ……」
麗ちゃんは不思議そうに首を傾げている。
しばらく二人で、小さくなっていくおじいさんの背中を目で追った。
やがて、その姿が見えなくなると、思い直したように麗ちゃんが声高らかに宣言した。
「じゃあ、明朝二人で九条院総研へ行くわよ! タイムマシンで絶対に決着をつけてみせるわ」
それを聞きながら、悪いけど僕は思った。
明日、麗ちゃんが壊れちゃったかどうかハッキリするんだと。




