そして、人は夢から覚める
「そんなのは、ただの逃げっす!」
「リサ!!」
「修理屋」
みすぼらしいトタン屋根を蹴り破り、リサが落ちてくる。
ドポン、という大きな音を立てて水しぶきが散った。
夢どろぼうに貫かれた腹には白い包帯が巻かれている。
「聞いてたっすよ。夢どろぼう! お前はまったくダメダメっす。夢のくせに、夢見ることに疲れたなんて、ほんっとうに、お前はダメダメっす」
手に持った紫紺の金属バットをリサが夢どろぼうへ突きつけた。
まるでホームラン予告をする打者のようだ。
「ははは、修理屋! お前は本当に愉快だな」
夢どろぼうが腹を抱えて笑い出す。
だが、その眼は笑っていない。
腹の底から湧き上がるどうしようもない感情が、笑い声となって漏れた。それだけだ。
リサも分かっているのだろう。
バットを振り上げた姿勢のまま、じっと夢どろぼうを見ている。
一触即発。
紫の光彩る巌流島の一騎打ち。
不意打ちなどなく、夢どろぼうとリサは向き合っている。
「夢に、人に、絶望したのはお前だろう。信じても叶わぬと言ったのはお前だ」
「そうっす。信じて叶うのは夢じゃないんす。それはただのお願いっす。夢は叶えるものであって、叶えてもらうものじゃないんす。少なくとも私はそう信じてるっす」
黒い潮はすでに引き、足元を濡らす僅かな水たまりがあるだけだ。
紫の月もいつの間にか定位置へと収まり、眼下の問答を静かに眺めている。
「違う。それは幻想だ。夢は叶わぬからこそ夢なのだ。叶った夢など、次の欲望のための踏み台にすぎん。叶った夢―――それはただのゴミだ。もうなにひとつとして意味のない抜け殻にすぎんのだ。故に誰も帰ってこない。叶えられた夢は、どこか道端でぼろぼろに捨てられて跡形もなく漂っているだけだ。
摩耗しきった夢に一体なにがある。叶えられようと叶わなかろうと、夢は結局人の慰みとしてしか存在を許されない」
黒くぬかるんだ泥を蹴り上げ、夢どろぼうが走り出す。
「違う。違うっすよ、夢どろぼう。夢は、本気で追いかけた夢は! 叶わなくても、次の夢へと繋がっているんす。夢が現実を繋いでくれるんすよ。どうして分からないんすか。夢を諦めて、夢から逃げることは、最高に好きだったものが、最高に苦手なものに代わるだけっす。ごまかすんじゃないっす、自分を。諦めたなんて言葉で、夢を、自分をおとしめるんじゃないっす」
放たれる夢どろぼうの猛攻を金属バットで薙ぎ払う。
以前とは違う。
堅く強固な金属の塊は傷つくことなく、完璧に攻撃を受け止める。
「修理屋! お前のような奴がいるから、夢は! 永遠に人を拘束して離さないのだ。夢を捨て、人は現実に立ち返る。夢見ることを許されるのは、ただの阿呆か、無邪気な餓鬼どもだけの特権だ」
「夢見るのになんて関係ないんす。人が叶えたいと思った時、夢は生まれて、人を動かすんす。私たちは人なんすよ。夢が人っす」
ぐちゃり、と地を軋ませて、二人が離れた。
夢どろぼうがリサの持つバットを一瞥して、忌々しそうに舌打ちした。
攻めているのは夢どろぼうだが、見る限りリサの方が勝っている。
ナイフではない。金属の塊なのだ。
錫杖ではびくともしない。あまりに細すぎる。
夢どろぼうが決定的な一撃を加えることは、突くことでしか果たせないだろう。
「私達は慰み者だ。現実に直面し、鬱屈とした日常に辟易とした糞みたいな人間が、ただ自身を慰撫する不幸な少女の棒なのだよ、我々は」
その言葉は、リサではなく俺の心を深く揺らした。
雪降りしきる極寒の街。
燐寸を売る少女。
彼女は寒さから逃れるため、燐寸を摺った。
次々と現われては消えて行く少女の儚い幻想の灯。
終には亡き思い出に縋って、自分自身も儚くなった。
それを指しているのならば、夢どろぼうの指摘はもっともだ。
彼女にとって燐寸は暖をとる道具ではなく、辛い現実から逃れるためだけの空しいものでしかなかった。
だが、と思う。
たとえ、そうだとして、夢は無意味なのだろうか。
無数に摺られた燐寸は、無意味だったのだろうか。
燐寸は摺られたことを哀しいと思ったのだろうか。
「違うっすよ、夢どろぼう。無数に摺られた燐寸が、人をいつか幸せにするんす。私たちは一本の燐寸であることを哀しむ必要はないっす」
リサが答える。
俺とは違う。なにかを確信した声だった。
摺られた燐寸は無意味ではない。
そのすべてが夢を叶えるために必要なものなのだと、リサは云う。
無数の火種が、やがて大きな火をつける。
リサの言うのはそう言うことだろう。
「だから、お前は夢見る少女だと云うのだ。無数の燃え滓! うず高く、天高く、積み上げられた先に何がある。連綿と続く螺旋の中、私たちはただ捨てられ続ける。それを許容するほど、私たちは大人ではない」
夢は連続する。
そのことを認めながら、導いた結論は真逆だった。
夢どろぼうは夢を狭く、リサは夢を広く捉えている。
夢どろぼうがリサを夢見る少女と揶揄する理由も、今なら分かる。
それは仕方のないことなのだろう。だが、羨ましいことでもある。
夢どろぼうが錫杖を乱暴に振る。
壊れかけの鉄柱が折れ、廃屋全体が音をたてて軋んでいく。
――――崩れる。
俺はそう感じたが、二人は一向動かない。
ただ互いをじっと睨み立っている。
運慶と快慶の魂が宿った二体の彫像のように、どちらもがむき出しの熱意を持って、相手を見ている。
決して交わることのない相反する二つの夢。
夢どろぼうはすでに諦めている。
リサはまだ願っている。
それこそ乙女のように、言葉だけで誰かを変えることができると信じているのだ。
「それが間違ってるんすよ、夢どろぼう。夢は捨てられるわけじゃないっす。夢はいつも一つ! どの夢が叶おうと、私達は等しく価値あるものなんすよ」
リサの腹に巻かれた包帯が淡く光る。
傷が治っていないのだ。
こぼれ出した光の粒が白い包帯の下に滞留し、淡く輝いている。
「はっ! いつか来る革命を待ち続けろとでもいうのか。
叶わぬ夢に、他の夢の叶う瞬間を見て満足しろと?
私は認めない。夢は、いつも叶えられることを待っているのだ」
迎え撃つように、夢どろぼうが走り出す。
金の錫杖がしゃらしゃらと音を立てた。
廃屋はすでにがらがらと崩れ始めている。
落ちた屋根や倒れた柱が、ゆるゆるの大地へ落ち、音もなく飲み込まれる。
どちらが負けても、この世界は滅ぶのだ。俺は直観した。
「革命じゃないっす。それは変革なんすよ。必死に毎日を生き続けてきた人間に、ふと訪れる福音っす。夢は人から与えられるものでも、自分で見つけるものでもないんす」
リサが紫紺のバットを振り下ろす。
受け止めた夢どろぼうの鋼鉄製の錫杖が、見事にへこんだ。
轟々と嵐のように、鉄の塊が夢泥棒を襲う。
それを受け、錫杖がねじくれ歪む。
その様はまるで、一匹の大蛇が杖に纏わりついたかのようだ。
医療神の杖を思わせるそれを見て、夢どろぼうが毒づいた。
「所詮、私とお前の言葉は交わらん。立っている場所が違うのだ。望んでいるものが違うのだ。お前はどこまでも人のためにある」
蛇が宙を躍る。
夢どろぼうの錫杖が複雑な線を描く。
先ほどまでの直線的なものではない。
曲がった錫杖が蛇のように蠢き、リサに襲いかかる。
「く、人はいつか本当の夢に辿りつくっす。誰かの言葉に導かれた夢じゃない。自分の手で、足で、目で、掴んだ本当の夢を」
リサがなんとかバットで防ぐ。
が、駄目だ。
歪んだ鋼鉄がまるで意思を持つかのように、バットに絡みつく。
何重にも絡み合ったそれは、難解な知恵の輪の様だ。
どちらも使い物になどなりはしない。
「人はそれを諦めと呼ぶ。代替えの夢? 人はそんなもの望んではいない。原初に抱いた夢こそ、本当の夢だ。年をくって得た夢など、妥協の産物でしかない」
「夢どろぼう」
リサがひどく寂しそうな顔で、夢どろぼうを見た。
リサがバットから手を離す。
引かれ夢どろぼうも錫杖から手を離した。
「言葉は不要。正しさなど不要だ。だが、これだけは覚えておけ。夢は他のなにかを傷つけずには叶わない。犠牲なしで夢は叶わないのだ」
廃屋は崩れ、すでに跡かたもない。
ぐずぐずと呑まれゆく幾つかの残骸があるだけだ。
「臆病者」
「ふん。強さが傲慢を指すのならば、その三文字喜んで受け取ろう」
なぜか二人は笑っていた。
驚くほどの穏やかな笑顔だ。
まるで何十年も前から知っている旧友といるかのように、やわらかな時だった。
決着は一瞬だった。
交錯する二つの夢。
一瞬で視界を埋め尽くした桜吹雪。
「じゃあね、たっくん」
薄桜色の世界の果て、見たことのないほど綺麗なのリサがいる。
――――まるで、夢を叶えたような……。
それが、俺が見た東雲リサの最後だった。
壊れゆく世界を月が照らす。
乱反射する世界の欠片が、一枚一枚溶けていく。
すでに黒くぬかるんだ地も、ふざけた風景もない。
薄桜色の花弁が世界を覆い、黒い揚羽が点々と飛ぶだけだ。
「ちょうど、夢見月だ。
少しばかり気の早い夢見草が咲き、夢見鳥が月夜の下を舞っている。こんな不可思議な光景こそ、夢幻のごとくなり、だな。
夢の徴はあったか? 夢人よ。お前は夢を結ばなければならない」
世界崩壊の中心点、先ほどまでリサがいたそこに俺はいた。
舞い降る桜をその身に積もらせながら、夢どろぼうがやってくる。
身にまとった法衣は白く汚れ、見る影もない。
無数の揚羽が彼の体から飛んでいく。
夢どろぼうも消えるのだ。
「お前、何がしたいんだよ」
以前聞いた事を俺は繰り返した。
「私は夢だぞ。ならば、決まっている」
笑いながら、夢どろぼうは以前と同じことを繰り返す。
だが、続く言葉は違っていた。
「夢は夢だ。目覚めの時が来たならば、夢はただ消える。それだけの話だ」
夢どろぼうの体が消えていく。
すでに蝶も桜もない。
「―――よい夢を」
真白な世界。
目覚めゆく意識の果て、俺はそんな言葉を聞いた。