東京悪魔と空虚な趣味
地獄は組織である。かつて神の右腕だった父ルシファーが独立し、築き上げた迷える子羊たちの死後の場所である。父の独立の際には有能な天使も何人か堕天し、悪魔となった。その筆頭が父上の右腕として働いている地獄のナンバーツー、ベルゼブブ殿である。
「坊ちゃん」
「ベルゼブブ殿」
秋葉原の駅構内で待ち合わせた俺たちだが俺は人の目を忍ぶように声を小さくする。秋葉原という町自体が俺は好きではない。顔面の面積の過半数を占める眼球の絵の女ども、それに群がる服装や髪形に矜持の感じられない男ども。オタクと呼ばれる人種である。自らの世界に閉じこもり、パソコン越しの電子女や印刷された女を見ることだけに決めてしまった彼らは、自らが他者に見られることを想定していない、或いは他者の評価に耳を閉ざしたのだ。だが哀れなことに彼らは二次元の世界には行けない。故に三次元の中で最も居心地のよい秋葉原に逃げ込み醜さを許されるのである。なんと醜い。おしゃれと誇りは欠かしてはならない。おしゃれは自分を誇るためにある。俺はこれでも気を付けているつもり故、今日もブランド物のジャケットを着用している。だがこの町にいるだけで俺も同類の趣味を持つ誇りなき者とみなされそうで長くはいたくない。
「へへ、すいやせん坊ちゃん。今日は頼んますぜヒッヒ。例のブツです」
俺の手にくしゃっと紙幣を握らせ、例のブツを渡すベルゼブブ殿。ツルっと剃り上げた頭、一本抜いた前歯、奇妙な口ひげ、くすんだ色のヘンリーネックの肌着、腹巻、ステテコ、草履、極め付きには首から下げる抜いた前歯を忍ばせたお守り。なんと! 醜いのだ、ベルゼブブ殿よ! だが、ベルゼブブ殿は誇りを捨てたわけではない。これがベルゼブブ殿のおしゃれ、誇り、不退転の覚悟なのである。美しい天使だったベルゼブブ殿は、神のもとを離れ、悪魔に転職する際に悪魔として美しすぎる外見を嫌い、身も心も悪魔になるためにまずは覚悟の表れに前歯を抜き、奇妙な口調を心掛けるようになったのである。ベルゼブブ殿の醜さは秋葉原の男どもの無造作な醜さとは違う。磨き上げられ、悪魔としての理想を追求した結果の誇りある醜さなのである。俺はその姿勢に敬意を払う。だがあまりにも悪く目立つため要件は手短に、声は小さめに願いたい。
「桜庭梓ちゃんでお願いしやす」
「ぬ」
ベルゼブブ殿が渡した例のブツとは、地下アイドルのライブと物販のチケットである。ベルゼブブ殿は現世の地下アイドルにお熱を上げているのだが、ベルゼブブ殿もまた悪魔のため、山手線を跨げない。だが地下アイドルの行動範囲も狭く東京から出ないものもいる。よって俺が代理でグッズの収集に行くしかないのだ。だが恩もある。お年玉と言えばベルゼブブ殿と言えるほど、毎年ベルゼブブ殿は多額のお年玉をくれた。それに何よりまず行動してしまうベルゼブブ殿、手数料ももらっている。断れば腹を掻っ捌くか、封印覚悟で山手線を跨ぐだろう。しかしベルゼブブ殿はその行動力を前向きな力に変えてここまで地獄のナンバーツーとして運営の中心として携わってきた。そのあたりは、ゲーム中毒で厳粛な叔父上と似ており、ベルゼブブ殿のルーツである天使という存在の性格が察せられる。
「桜庭梓ちゃんと言えばまずぁあの清楚な顔にスラッとしたタッパとスタイルでさぁ。一生懸命なんですよ坊ちゃん! 地元の静岡じゃ評判の美少女とスカウトされて、最近じゃ特撮や声優にも一生懸命なんですよ! とにかく必死に生きてるんでさぁ坊ちゃん! 明日の為に、明日の為にと発声練習! これ即ちアイドルの基本なり! ブログも頑張っとる。あんなに大事にしてくれる飼い主を持った猫のイツキとアンは幸せもんです。メンバーにゃちょっとオツムがアレな子もいる中で必死に頑張ってるですよ坊ちゃん! 必死に必死に努力して、やりきってから覗く笑顔それ必殺KOパンチなり! アイドルはステージに上がれば泣きたいほどに孤独な存在よ。確かにメンバーやファンがついてるが、曲が始まれば誰も助けちゃくれんのです坊ちゃんよぉ。アイドルは25にもなりゃライセンスははく奪されちまうんです。桜庭梓ちゃんは21歳。ペットのトリマーの専門にも通ってる。桜庭梓ちゃんは、そりゃあ地元静岡じゃあ評判の美少女だった。でも東京じゃあ通用せんのですよ。井の中の蛙大海を知らずとは言いますが、海を泳ぐ蛙がいないように井の中の蛙は井の中の蛙です。1000年に一人の美少女じゃあないと全国で通用する地下アイドルにはなれんのです。つまり桜庭梓ちゃんを拝めるのももうあと数年なんでさぁ。おい坊ちゃん! 他人のふりをせんでください!」
地下アイドルのライブは疲れる。わき目もふらず暴走と統一の境界線にあるコールやオタ芸と呼ばれる舞踊、爆音、女子の演目……。少なくとも俺はこの中ではマシである。確かに俺は悪魔としては無力であり、元来の悪魔としての素質が全く奮われないことを若干の驚きをもって振り返りたいが、俺は見た目にも気を使うことで一線を画し、闇の祭典が終わるまで何もせず、ライブハウスの隅で佇むのみである。無心になるのだ。石像のように無心にこの時間を乗り切る。そしてライブ後の物販とサイン会へ。
「わぁ外国人のお兄さんですね!」
「貴様が桜庭梓か。勘違いするな。ここに来たのは上司の命令のようなものだ。私物にサインをしてくれるそうだな」
きゃぴきゃぴとしたアイドルにベルゼブブ殿の私物であるパンチングミットにサインをもらい、ライブハウスを後にする。
「なんと容易いことか」
そう、なんと容易い……ッ。簡単なことだ。オタクどもの町でオタクどもの趣味である地下アイドルのライブにオタクどもに混じって参加し、オタクどもの戦利品であるサイン入りパンチングミットと、ベルゼブブ殿の好意でベルゼブブ殿推薦の地下アイドル桜庭梓と握手をして、さらに手数料という名の駄賃をもらう。心の中で一線を画していればなんと容易いことか。
「なんという無心」
握手をした桜庭梓のやわらかく小さな掌の感触が尾を引くが、地上に出て新鮮な空気を吸う。俺はあくまで! ベルゼブブ殿の代理で!
「見ろよ。さっきのパンチング地蔵だぜ」
「私物サイン会は大喜利じゃねぇんだよ」
不意にアイドルオタクどもの俺への暴言が耳に入る。ここで激怒してやっても俺は別に構わない。しかる後彼奴等は悪魔への暴言、さらに異教である地蔵に例えた己の罪深さを知ることになるだろう。こんな誰にでも愛想を振りまくような女どもにうつつを抜かし、永遠の片想いを続ける哀れな男どもよ。誰にも相手にされず、誰にでも愛想を振りまく装置のような女に恋する哀れな男どもよ! なんと空虚な趣味だろうか。その非生産的な趣味に永遠に搾取されるがいい。徒党を組んでやっとたった一人の俺に暴言を吐けるような敗北者の男たちめ。所詮は秋葉原に来るような人種だ。だが俺が今ここにいるのはベルゼブブ殿の頼みである。ベルゼブブ殿の為にここで騒ぎは起こせない。騒げばベルゼブブ殿は報復の為に山手線を跨ぐだろう。ベルゼブブ殿の機嫌を損ねてはいけないのだ。そのあたりもベルゼブブ殿は叔父上と似ているのである。
「松田?」
「ヴェルさん?」
サウナでの呼吸と同じように細く長く怒りを吐き出していたら、洋画で描かれる勘違いされた日本のスラム街の如き店から泥棒のように所在なさげに出てきた松田と鉢合わせた。松田の顔から血の気が失せ、店の袋を隠すようにもぞもぞし始めた。そして視線は、先ほどの地下アイドルの物販で買ったアイドルグッズへと移る。
「待て松田! 俺は決してオタクではない! 俺はそんな空虚な趣味を持つ人間ではない! 松田よ!」
しかし勘違いをしたままの松田は顔を伏せ、報道陣のフラッシュから逃げる不祥事を起こした芸能人のようにそそくさと走り去ってしまう。
「松田よ、待て」
しかし松田を追って約数十メートル、俺の体に重大な重さと頭痛が発生する。蟻が這うように足から徐々に硬直し、激しい苦痛の中で俺は倒れた。受け身も取れず顔面を地面に強打し、薄れゆく意識の中で、頭上を覆う陸橋とそれを横切る電車のけたたましい音を感じた。動揺のあまりに山手線の存在を失念してしまったようだ。そして意識の最後に、俺に近づき、見下ろす女の姿。決して救急隊員や善意ある都民ではなく、こうなることをあらかじめ知っていたような……。そもそも救急隊員や善意ある都民はこんな不埒なほどのピンクブロンドに髪を染めたりもしなければ、いかついスカジャンを着たりもしない。
「ったくしゃあねぇな」





