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聞いてしまった言葉

違和感を覚え始めてから、数か月が過ぎていた。

リオ様と過ごす時間は以前より減っていたけれど、私はそれを仕方のないことだと思うようにしていた。

学園に入れば交友関係が広がる。

友人が増える。

私にも友人ができたのだから、リオ様だって同じだ。

寂しくないと言えば嘘になる。

それでも、我慢はできた。

そう思っていた。


あの日までは。


その日はお父様から伝言を頼まれていた。

領地に関する話があるので、時間のある時に手紙を読んでほしい。それだけの簡単な用件だ。

昼休みになった私は、リオ様の教室へ向かった。

一年生の頃は何度も訪れた場所だった。

だから特別なことではない。

扉の前まで来たところで、中から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

その中に聞き慣れた声を見付けて、少しだけ胸が弾む。

けれど、その足は次の瞬間止まった。

「そういえばさ」

男子生徒の声だった。

「リオってフローラント嬢と仲良いよな」

一瞬、自分のことだと気付かなかった。

だが続く言葉に思わず耳を澄ませる。

「セシリア?」

「ああ」

リオ様の声だった。

「昔からの付き合いだからな」

「羨ましいんだよなあ」

「何がだ?」

「何がってフローラント嬢がだよ」

教室の中から賛同の声が上がった。

「あの桃色の髪、可愛いよな」

「分かる」

「ふわふわしてて触ってみたくなる」

「お前それ本人の前で言うなよ」

笑い声が起きる。

私は思わず扉の陰へ身を隠した。

顔が熱い。

まさか自分の話をされているとは思わなかった。

「目も綺麗だろ」

「若葉みたいな緑色な」

「あれで見上げられたいなぁ」

「分かる分かる」

「お願いされたら断れなくなりそう」

また笑い声が上がる。

恥ずかしくて今すぐ立ち去りたかった。

けれど足は動かなかった。


その時だった。


「まあ、可愛いのは知ってる」

ぶっきらぼうな声が聞こえてくる。

一瞬、教室が静かになった。

「お?」

「何だその反応」

「知ってるって何だよ」

「昔から見てるし」

リオ様が面倒そうに答える。

「今さらだろ」

「照れてるな」

「照れてない」

「絶対照れてる」

「うるさい」

教室の中はすっかり盛り上がっていた。

私は胸がどきどきしていた。


可愛いのは知ってる。


たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

少しだけ頬が緩みそうになる。

けれど、それは次の会話で凍り付いた。

「じゃあさ」

誰かが軽い調子で言う。

「フローラント嬢って婚約者なのか?」

息を呑む。

何気ない質問だった。

けれど私にとっては違った。

耳の奥で心臓の音が響く。

答えを待つ数秒が、とても長く感じられた。

そして、

「違う違う」

リオ様は笑った。

「そういうんじゃない」

胸の奥がざわつく。

「じゃあ何なんだ?」

「何って」

少し考えるような間。

そして、あっさりと言った。

「幼馴染だよ」

それだけなら、まだ大丈夫だった。

私達が幼馴染なのは事実だ。

問題はその次だった。


「妹みたいなもんだし」


世界から音が消えた気がした。


妹。


みたいなもの。


その言葉だけが頭の中で反響する。

視界が揺れる。

私は呆然と扉を見つめた。

すると一人の令嬢と目が合った。

黒髪の美しい少女。

エレノア・バーンズだった。

以前からリオ様の近くにいることが多い令嬢だ。

エレノア様は私に気付いたらしい。

一瞬目を見開き、そしてゆっくりと笑った。

「私はリオ様にはもっと大人っぽい女性が似合うと思うけどな」

そう言いながら自然な仕草でリオ様の腕に自分の腕を絡める。

「何言ってるんだ」

「だって本当でしょう?」

教室の中から囃し立てる声が上がった。

「また始まった」

「エレノア、お前本当に分かりやすいよな」

「お前ら仲いいもんな」

「ご馳走様です!」

「だから違うって」

リオ様は苦笑していた。

エレノア様も楽しそうに笑っていた。


誰も否定しない。


誰も不自然だと思っていない。


胸が苦しかった。

これ以上そこに立っていられなくて、私は静かに踵を返した。

伝言のことなど、もう頭から消えていた。

ただ逃げたかった。

泣いてしまう前に。


***


どうやって寮まで戻ったのか覚えていない。

気付けば部屋の扉を閉めていた。

鍵を掛ける。

誰もいない静かな部屋だった。

その瞬間、足から力が抜けた。

ずるずると扉にもたれかかる。

「っ……」

息が震える。


胸が痛い。


苦しい。


どうしてこんなに苦しいのだろう。


婚約者ではないことくらい知っていた。

正式な約束など何もないことも。

七歳の夏のあの約束が、子供同士の口約束でしかなかったことも分かっている。

そんなことは最初から知っていた。


それなのに。


どうして期待してしまったのだろう。


どうして信じてしまったのだろう。


学園へ来ればもっと一緒にいられると思っていた。

卒業したら。

大人になったら。

いつか本当に隣に立てる日が来るのだと思っていた。

あの日の約束を大事に覚えているのは、私だけだったのだろうか。

一緒にいるのが当たり前だと思っていたのも。

いつか隣へ立てると信じていたのも。

全部。


涙がぽたりと落ちる。

一粒零れると、後は止まらなかった。

何度拭っても次から次へと溢れてくる。

「妹みたいなもの」

小さく呟く。

その言葉は想像以上に残酷だった。

恋人ではない。

婚約者でもない。

特別な存在でもない。

家族のような存在。


妹のような存在。


それはつまり、恋愛の対象ではないということだ。


胸の奥が冷たくなっていく。

好きだった。


本当に好きだった。


いつからだったのか分からないくらい昔から。

名前を呼ばれるだけで嬉しかった。

一緒にいるだけで幸せだった。

手を差し伸べてくれるたび嬉しくて。

優しくされるたび胸が温かくなった。

そんな思い出を私はずっと大事に抱えてきた。

あの日の約束も。

貝殻も、

花冠も、

何もかも、

宝物だった。

けれど、その宝物は最初から私だけのものだったのだ。

リオ様は覚えているだろうか。

七歳の夏の約束を。

私は今でも鮮明に覚えているのに。

もし覚えていたとしても。

きっとあの人にとっては懐かしい思い出の一つでしかないのだろう。

抱き締めていた未来が、静かに手の中から零れ落ちていく。

どれだけ手を伸ばしても、もう拾い上げることはできなかった。


気付けば日は沈みかけていた。

夕陽が部屋を赤く染めている。

それでも涙は止まらなかった。

泣いても泣いても苦しさは消えない。

むしろ涙の分だけ現実が鮮明になっていく。

私は初めて知った。

恋が終わるということは、こんなにも苦しいのだと。


そしてこの時の私はまだ知らなかった。


これが終わりの始まりだったことを。


エレノア・バーンズという令嬢が、これから私の心をさらに深く傷付けていくことになるのだということも。

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