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阿部本家、とどまる     :約4500文字 :○○家系

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/06/16

 色を失った葉が枝を離れ、乾いた音を立てて地に伏す。空は薄墨を流したように鈍く濁り、吹き抜ける風はどこか湿り気を帯びていた――。

 とある地方に構える大屋敷、阿部本家。

 そこの長老たる偉大な男、阿部本宗理がこの秋息を引き取った。享年九十五歳。屋敷の寝室にて迎えた大往生である。

 宗理氏はその卓越した手腕で数多の人間を取り込み、政財界をはじめ各界隈に絶大な影響力を及ぼしながら、長きにわたり権力を保持してきた。三人の息子をもうけ、莫大な財産を築き上げただけでなく、一家の精神的支柱として君臨してきた。まさに阿部本家という王国の象徴であった。

 晩年になってなお頭ははっきりしていただけに、その死は多くの者に惜しまれた。

 盛大に執り行われた葬儀では、黒服の列が門を越えて道路にまで伸びた。坊主が読経を終えても、焼香台の前には人の姿が絶えず、火葬場の煙突から立ち上る白煙を見送る間もすすり泣く声は途切れることがなかった。たとえ燃やそうが細断しようが、黒く塗り潰そうが人々の心からは抹消しきれない。宗理氏の人生がどれほど大きかったかを物語る別れであった。

 だが――それから三日後のことである。


「えっ……」


 昼下がり。宗理氏の妻、春江夫人は廊下をしずしずと歩いていた。着物の裾が床を擦るかすかな音だけが静まり返った屋敷に響いていた。ガラス戸から差し込む陽射しは弱々しく、磨き上げられた床板に淡い光を落としていた。

 これから晴れるかしら。それとも雨が降るかしら――そんな瑣末なことを考えながら、ふと窓の外へ目を向けたそのときだった。

 誰かが中庭に立っている。

 そう気づいた瞬間、春江夫人はぴたりと足を止めた。ゆっくりと眉根を寄せ、目を凝らす。直後、その目が大きく見開かれた。

 見慣れぬ、しかし最近見たばかりの服装。そして何より、その後ろ姿は何十年も見続けてきた背中と寸分違わなかった。

 春江夫人は勢いよくガラス戸を開け放ち、靴下のまま庭へ飛び出した。雑草を踏みつけ、小石を跳ね上げ、裾を乱しながらその人物に駆け寄った。

 そして前へ回り込み――息を呑んだ。


「あ、あなた……!」


 春江夫人は驚愕のあまり、その場で硬直した。

 そこに立っていたのは阿部本宗理――紛れもなく本人であった。

 生前とまったく変わらぬ顔立ち。深い皺の刻まれた額も垂れた頬もそのままだった。違うのはただ一つ。白装束をまとったその身体は淡く透けていた。乾いた庭土が脛の向こうにぼんやりと見えているのだ。

 だからこそ春江夫人は確信した。これは幻などではない。紛れもなく、死んだはずの夫その人なのだと。

 次の瞬間、春江夫人は弾かれたように屋敷へ駆け戻った。震える手で電話を掴み、葬儀を終えて各地へ散っていた親族や知人に片っ端から連絡を入れ始めた。

 その顔はやや青ざめていたが、声に震えはなかった。



 ◇ ◇ ◇



「父さん……ねえ、本当に父さんなの……?」

「お義父さま……」


 やがて三人の息子夫婦をはじめとして、生前の宗理氏と懇意にしていた知人や顧問弁護士らが次々と庭に集まってきた。彼らは三日月を描くように宗理氏を取り囲み、呆然とした表情で目を瞬かせた。

 電話を受けた時点では、夫を失った悲しみのあまり春江夫人が錯乱したのだろうと、誰もが思った。だが実際にその場に立ってみると、そんな考えは吹き飛んだ。

 そして互いに顔を見合わせ、それが自分だけに見えているわけではないと確認すると無言で頷き合った。そうするほかなかったのだ。


「でも、どうして何も答えてくれないんだよ」

「わからないわ。口が利けないのかも……」

「幽霊……ってことでいいんだよな……」

「他に説明のしようがないだろ」


「ここにいるってことは成仏できなかったってこと……?」

「なんでだよ。五回も葬儀をやったんだぞ。家族葬に県民葬、それに付き合いのあった宗教団体のところでも供養したじゃないか」

「お義父さま、お顔が広かったですものね……」


「いろんな宗教に首を突っ込んでいたからな。変な水まで買っていたし」

「坊主どもに金を返してもらわないとな。成仏できてねえんだから」

「そんなことより、何か未練があってこの世に留まっているのでしょうか。ねえ、先生。私たちに教えてください」


 皆で口々に呼びかけた。しかし宗理氏は虚ろな表情でただ正面を見つめ続けているだけであった。写真のように一切動かないかと思えば時折瞬きをし、一同を「おお」と驚かせた。しかし、まるでそこに立つという行為だけを残して他のすべてが抜け落ちてしまったかのようだった。生前呆けていなかっただけに、その姿は息子たちに――無意識のうちではあったものの――特に深い衝撃を与えた。

 やがて、あきらめ混じりのため息があちこちから漏れ始めた。幽霊なのだから仕方がない――そんな空気が場を覆い始めた、そのときだった。


「世界中が一つの家族のようになれば……平和になる……」


「母さん……?」


 それまで沈黙していた春江夫人がぽつりぽつりと呟き始めた。その声は誰かに語りかけているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。その表情もまた宗理氏に負けず劣らず虚ろであり、視線は地面の一点に落ちている。

 一同の背筋に冷たいものが走った。


「対立するものを統合していく……それが役目……」


「母さん!」


 息子の一人が肩を掴み、揺さぶった。すると春江夫人はゆっくりと顔を上げた。そしてその場にいる全員を一人ひとり確かめるように見渡した。


「……今、夫の声を聞きました」


「えっ?」

「声……? 聞こえたか?」

「口すら動いてなかったように見えたけど……」


 ざわめく一同。それを春江夫人は片手を静かに上げて制した。


「夫が遺したもの。蒔いた種。そして芽吹いた芽を守り、育て抜くこと。それが夫の望みです。すぐに先生方に連絡を取ってください。一度こちらにご挨拶に来ていただきましょう」


 ぎらりと春江夫人の目が光った。そこには、まるで大麻依存症者のそれのような狂気めいた熱が宿っていた。あるいは絶対的な使命を授かったと信じる信徒の目のようでもあった。

 言葉には一切の迷いがなく、その気迫はその場にいる全員に得体の知れない寒気を覚えさせるほどであった。

 誰一人として反論できなかった。戸惑いながらも、「じゃあ、とりあえず……」と一人が動き出し、それをきっかけに全員が指示通り動き始めた。

 そしてやがて参勤交代さながらに各界隈の知人や有力者たちが阿部本家へ矢継ぎ早に訪れることとなった。


 最初は皆、また何か怪しげな宗教にでも毒されたのではないかと眉をひそめた。あれだけ盛大な葬儀を行ったというのにまだ足りないのか。国葬でもしてやらねば気が済まないのか、などと皮肉や嘲笑を胸に秘めてやってくる者も少なくなかった。呆れ果てたというような表情を浮かべ、気だるい足取りで門をくぐった。

 しかし、中庭で背筋を伸ばして立つ宗理氏の姿を目の当たりにした瞬間、その反応は一変した。

 誰もが凍りついたように立ち尽くし、やがて自然と頭を下げた。

 理屈などどうでもよかった。あの偉大な男が死してなおそこに立っている。その事実だけで十分だった。


「お社を建てましょう」

「知り合いに高名な僧侶と繋がりのある者がおります。連絡を取り、すぐにこちらへお招きしましょう」

「いやいや、どこか立地の良い場所に神社を建てるべきです。大きくて立派なものをね。毎年大勢の参拝客が訪れ、御朱印を求める。阿部本宗理神社――実に良い響きではありませんか」


 死したはずの人間が、なお現世に留まり続けている――そんな不可思議かつ前代未聞の事態を前にして、誰もがどう振る舞えばよいのかわからず、とりあえず我先にと春江夫人に媚びへつらった。

 参拝者は途切れることがなく、宗理氏の前には毎日のように政治家や企業の重役、文化人など名の知れた人物たちが挨拶に訪れた。彼らは宗理氏に一方的に語りかけ、謝罪し、感謝を述べ、涙し、歓喜し、深く頷いては満足げな表情で帰っていった。

 そして帰った先で口々にこう語った。


「先生は今も私を見ていてくださっている」「我々の苦闘を叱咤激励してくださった」「力を与え、進むべき道を示してくださった」「先生のご意志に従い、信念を貫いてまいります」


 噂は尾ひれをつけて広がっていき、やがて生前ほとんど接点がなかった者たちまでが阿部本家を訪れるようになった。そして訪れた者は皆、何かしらの“御利益”を得たと吹聴した。商談がまとまった。選挙で勝った。病が快方に向かった。決して捕まらないから大丈夫だ――。そしてそれがまた新たな参拝者を呼び寄せた。

 その頃には春江夫人は屋敷にはほとんど戻らなくなっていた。高級ホテルを転々としながら全国各地を飛び回っていたのである。


「今日は主人の魂の声をお届けに参りました。必ずあなたに当選してほしいと申しております」

「あなたのような若い政治家が育っていくことが、主人にとって何よりの喜びなのです」

「主人の若い頃以上に活躍されていますね。多くの方々に支えられながら国会議員として尽力しておられる。これからも立派に務めていただけると私は信じておりますよ」

「今も主人は我が家の庭から『頑張れよ』とあなたを応援しております」

「この団体はこれから私が引き継ぎます。以後、よろしくお願いいたします」

「主人は必ずこの地を訪れたいと申しておりましたが、それは叶いませんでした。ですが、その魂は常にこの地と共にあると私は思います、ええ」

「素晴らしい土地ですからね。どうぞ計画を前へ進めてください」

「主人は永遠に輝く光となり、我が家の庭からこの国を照らしております。言わば灯台のようなものですね」


 講演会、選挙応援、各種会談――まるで生前の阿部本宗理が乗り移ったかのような勢いで春江夫人は精力的に立ち回った。もっとも誰かにそのように評されると、春江夫人は決まって柔らかな笑みを浮かべてこう返した。


「主人は家におります」


 こうして阿部本家は、宗理氏の死後もなお各界へ絶大な影響力を保ち続けたのであった。


 一方で、当の阿部本宗理氏はというと、周囲の喧騒とは対照的に何一つ変わらぬまま、中庭の同じ場所に立ち続けていた。

 ただ前だけをじっと見据え、声をかけられても何の反応も示さない。最初のうちは熱心に話しかけていた人々も、やがてたまにしか――それもほとんど形骸的に――話しかけなくなっていった。中には庭にも出ず、縁側で両手を合わせてすぐに帰る者もいた。


 ある夜のこと。

 春江夫人に代わり、参拝者の応対のため半ば住み込みのような生活を送っていた弟夫婦の息子が、そっと庭に出た。

 夜気はすっかり冷たくなっており、遠くで虫の声がかすかに響いている。庭石には薄く露がかかり、月明かりが淡く白く滲んでいた。

 少年は宗理氏の前まで歩み寄ると、じっとその顔を見上げた。

 しばしの沈黙ののち、宗理氏の視線がほんのわずかに揺らいだ。

 少年はにこりと笑って、口を開いた。


「ねえ、おじーちゃん。どうしてまだここにいるの? なんで何も言わないの? ウンチ我慢してるの? ねえ――」


 矢継ぎ早に質問が飛んだ。やがてそれが途切れると再び静寂が庭を包んだ。

 すると宗理氏はゆっくりと視線を落とした。


「……決まっているだろう。地獄に行くのが嫌だからさ」


 宗理氏はそう言うと再び正面を見据えた。そして足先にぐっと力を込めた。


「話しかけないでくれ。こうしていないと地面に沈んでしまうんだ」


 そう低く呟いたきり、宗理氏はもう何も語らなかった。

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