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もう一人の自分

 ヴォルチェック城を出発してから三日目の午前、ディアナとランカスター兵たちは丘陵地で一時的に休んでいた。

 

 先に進みたい焦りはむろんあるが、馬を過度に疲れさせないことが肝心なのだ。馬が潰れれば、追っ手の部隊に確実に追いつかれる。


「今日中には、ランカスターまでたどり着けそうかしら?」

 

 ディアナがそう問うた相手は、ランカスター兵たちの指揮官であるハリスという男だった。齢は三十代半ばで、堂々たる体躯と、実直そうな顔つきの人物だ。


「ここからランカスターまで七、八十キロですので、昼夜兼行で進めば、明日の夜明け頃には到着しましょう。ですが、それまでに……」

 

 最後、ハリスが言葉を濁らせたので、それをディアナが受けた。


「それまでに、追手を振りきれるかどうか、ね」


「……はい。斥候からの報告では、敵部隊が後方十キロほどまで迫っているようです」

 

 前方へではなく、後方へ斥候を出している。


「後方十キロ……」

 

 かなり後背にまで肉迫しているといってもよい。


「やはり、ご不安ですか?」

 

 なるべく隠しているつもりだったが、ディアナの動揺をハリスは感じとったようだ。


「それは、まあ……ね」


「ご安心くださいますよう。我が身に代えてもディアナ殿下をお守りいたします」

 

 ハリスは、今回の八百人の中で唯一の飛術士である。それゆえ、今の言葉にも自信がうかがえた。

 

 ディアナは謝辞とともに笑顔を見せた。だが、胸中では不安が完全には消えていなかった。追っ手の中には、当代最強の飛術士であるリオンがいるのだろうから。







 バルドルは、眠っていた。

 

 意識の奥底に沈んだ彼には、自分が夢の中にいるのか、はたまた完全に気を失っているのか、知りえようはずがなかった。

 

 ただ、先ほどからずっと、彼の名を呼ぶ声が聞こえてくるのを感じていた。


(バルドル……バルドル……)

 

 その声は最初、どこか遠いところから発せられたように小さくて、バルドルの耳に届かなかった。しかし、


(バルドル――バルドル!)

 

 その声は、しだいに、はっきりと聞こえるようになり、彼の意識の中に入り込んできた。バルドルは拒絶の言葉を返した。


(起こさないでくれ……もう眠っていたいんだ)

 

 だが、その声は、なおもバルドルを呼び続ける。


(バルドル)


(もう眠らせてくれ――何も……何も考えたくないんだ)


(いや、お前は目を覚まさなければならない)

 

 その声は、バルドルのそれと似て非なるものだった。静謐だが、同時に力強い声。


(もう起きていたくないんだ。自分で自分がわからない。僕は異常なんだ……!)


(真実を知ったのだから、これ以上、悪くなりようがない。さあ、目を覚ますんだ)


(なぜ、僕を呼ぶ。君は……誰だ!)


(俺の名はアウグスト――お前の分身だ)

 

 その答えだけで、声の主が何者なのかバルドルは感覚的に理解できた。

 

 もう一人の自分。

 

 今、そんな存在と頭の中で言葉を交わしているのだ。自分は本当に気が狂ったのかもしれない。そうバルドルは自嘲した。だが、もう一人の自分――アウグストと話すことで、意識が徐々にはっきりとしてきた。


(あれから……ディアナとはどうなった? あのあと、君が僕と代わったんだろう)

 

 苦しい局面に立たされ、頭痛に襲われたあと、バルドルは記憶と時間を失う。そのとき、彼がバルドルの代わりに表舞台に出ている。以前は漠然としか認識していなかったその事実を今は完全に理解できた。頭痛は毎回ではないが、彼と入れ替わるときに兆候として起こることが多かった。ロアン王子との過去が脳裏をよぎるときに、頭痛が生じたのは人格交代とはまた別で、アウグストとしての記憶が垣間見えたことによるものといったところか。


(彼女には真実を話した。俺がお前の別人格であること。ロアン王子を殺したのはヴラドではなく、俺だということ。彼女は信じてくれたが、その話をしたあと、袂を分かつことになった)

 

 別れることになったのは当然だろうと、バルドルは思った。いかなる理由があれ、彼女の兄の命を奪ったという事実は打ち消せない。

 

 バルドルは何も答えなかった。


(彼女は最後、お前に礼の言葉を告げていた。そして、お前には幸せになってほしいとも)

 

 幸せになってほしい。それはバルドルへの許しの言葉であると同時に、別れの言葉であるようにも感じられた。ディアナがバルドルを恨んでいるとは思えないが、あんな喧嘩をしたあとでは、再会して元通りになれはしないだろう。

 

 アウグストは話を続けた。


(別れてから、まだ二日しか経ってない。ディアナは兵たちとランカスターに向かっている最中だろう)


(仲間に守られているんならそれでいい。もう僕と一緒にいる必要は……)

 

 だが、とアウグストの声は急に厳しさを増した。


(あのリオン率いる敵部隊が、そのあとを追っている)

 

 それを聞き、バルドルの心に冷たく揺らぐものがあった。


(奴の部隊を間近で見たが、おそろしく速い。ディアナたちは追いつかれる可能性が高いな)


(…………)


(それを聞いてもどうする気もないのか?)


(僕にどうしろと……。彼女が僕とは一緒にいたくないはずだ。それに、彼女はもうランカスターの部隊に守られてるんだし……)


(驚いた。この期におよんで臆病風に吹かれるのか。腰抜けっぷりは健在のようだな)

 

 アウグストの皮肉な言い様に、バルドルは腹を立てた。


(そこまで言うなら、君が助けに行ってリオンと戦えばいいじゃないか)


(リオンが相手では俺でも敵わない。奴の飛術は俺のそれを凌駕するだろうからな。俺がドラゴシュに乗って戦っても、結果は同じはずだ。――ドラゴシュの能力を完璧に引き出せるのはお前なんだ)

 

 アウグストは、彼とバルドルの能力面における違いを説明した。いわく、飛術はアウグストのものだが、騎竜術はバルドルの領分であるという。アウグストでも竜をある程度は操れるが、そのレベルは知れているということらしい。


(もとより、これはお前の戦いだ。彼女を助けに行くとすれば、それは……バルドル、お前しかいない)


(僕は――)

 

 バルドルがディアナのために戦う理由があるのだろうか。彼女を守り抜いたところで、二人が結ばれるわけではない。いや、それ以前に、理由など考えている時点で臆病者なのだ。本物のラーザの戦士は考える前に戦う。


(僕にはもう……関係ない。彼女の戦いだ)


(そうか。最終的にどうするかは、お前の自由だ)

 

 もはやアウグストはそれ以上、何も言わなかった。バルドルはディアナのことを諦めようと思った。

 

 ――そう思ったはずだったのだ。

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