4 禁忌への報い
外は暗い。
けれども、家の中まで暗くないはずだ。それなのに姉の顔は見えない。
昼間――。
祭囃子が町に充ちていた。
暗くなってからは屋台が出たのだ。
愉しいことも色々あったと思う。
だが、姉は行けなかった。
今は、林檎飴を無言で舐めている――お土産として美邦が買ってきた物だ。
心配してほしくて尋ねる。
――私が⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎になったら、
――やっぱ悲しい?
姉は驚いていた。
――そ⬜︎⬜︎そう⬜︎⬜︎。
――変なこと言わ⬜︎⬜︎。
思っていた通りの答えで安心する。
自分の命は長くない。
――うん。そう⬛︎⬛︎⬛︎。
罪悪感を隠すように笑む。
――私も、お姉ちゃんが⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
美邦は目を醒ました。
外から雨が聞こえている。
天井を右眼が捉え続けていた。
夢の中で開いていた左眼は見えない。
――また、同じ夢。
十月二十二日・水曜日の朝だった。
一昨日から雨は止まない。けれども、先日より雨音は小ぶりだ。予報によれば昼から上がるという。
朝の支度を済ませる。
家を出て路地を進んだ。
狭い道で、白い傘と水色の傘が触れ合う。
ふと、千秋の顔を覗き込んだ。
当然、変化はない。
「うん?」
「いや――何でもない。」
首を横に振ったが、不安は振り払えない。
数日前から、由香の顔色は悪化していた。
一昨日、昨日と、日を追うごとに蒼くなっていったのだ。しかし、平気だと言って本人は譲らなかった。
加えて――夢のせいで不安に拍車がかかったのかもしれない。
――私がいなくなったら。
中通りへ出て、空き地で千秋と別れる。
気温は落ちていた。
寒さに震えて歩く。
無数の人影が、事故車が、炭化した家が現れては消えた。
やがて丁字路が見えだす。
薄紫の傘があった。
いつも竝んでいる由香はいない。
肌を撫でる寒さの中、近寄る。
やるせない顔が、傘の下から現れた。
「おはよう、幸子。」
「うん、おはよう。」
いつも由香の立っている場所には、電柱に巻かれた塗炭がある。黄色と黒の模様が、踏切を連想させた。
「由香――まだ来てないの?」
「うん――」幸子は眉を垂らす。「ひょっとしたら、体調が悪いんかも。」
「大丈夫かな?」
「分からん――。なんか、すごい悪げだったけど。それだのに、あの子は全く気にしとらなんだ。」
不安が高じる。
耐えきれず、スマートフォンを出した。
「LIИE入れてみようか?」
「うん、お願い。」
ダイレクトメッセージを送る。
〈由香、体調は大丈夫?〉
〈学校これるの?〉
父の顔を思い出した。
血色は元から悪かったのだ。
激変したのは一昨年――家事も手に付かないほど体調を崩し、今年の夏に仆れた。
遠くから怒涛が聞こえる。
雲の中で低く轟く雷鳴のようだ。
冬が始まろうとしている。気温が落ちるにつれ、海は荒れてゆくらしい。
水溜まりを割き、黒い車輪が停まった。
顔を向ける。
自転車に乗る男子が二人いた。どちらも、学校指定のレインコートをまとっている。手前は冬樹で、後ろは芳賀だ。
透明な庇の下で、切れ長の目が細まる。
「実相寺、まだ来とらんだか?」
うん――と目を伏せた。
「LIИEにも既読がつかないの。」
心配そうな顔を芳賀も向ける。
「珍しいな――あの実相寺さんが?」
「うん。」
困惑するように冬樹は芳賀を見た。
「何だぁ、えらい体調悪げだったが――」
当然、心配しているに違いない。
しかし、この場ではどうにもできないのだろう。冬樹は、とりあえず先にと言い、ペダルに足をかけた。芳賀も、また後でと言う。
そして、学校の方へ走っていった。
ぱらぱらと小粒の雫が傘に当たる。
やがて、始業時間が近づいた。
何度見ても既読はつかない。
ひとまず先に登校する。
学校に着いた。
由香の姿は教室にもない。
美邦の隣は空席だ。ただ、窓から差す暗い光のみが落ちている。硝子に雫が当たって、細く垂れていた。
朝学活が始まる。
途中、出席を取る鳩村の顔が固まった。
「実相寺さんは、来ていないんですか?」
廊下側の席で幸子が手を上げる。
「朝から来てません。――何か、連絡なかったんですか?」
「いえ、何もありません。」
何か知ってる人はいませんかと問うた。
誰も答えない。
窓で雫が弾け続ける。ただ分からないのとも違う異質な静寂だった。
授業が始まる。
空席を気にし続けた。
由香はどうしているのだろう。
昨日も顔色が酷かった。もし体調を崩したのなら、一大事になったのではないか。
一時間目が終わる。
次の授業の準備をしているとき、普通ではない跫音を耳にした。
教室の扉が開く。
引き戸に手をかける鳩村が目に入った――慌てたように顔を左右させている。
「大原さんと、古泉さんはいますか?」
幸子と目を交わした。
鳩村に見つけられる。
いつもより険しい顔と声を向けられた。
「ちょっと来てください。」
教材を置き、幸子と共に教室を出た。
鳩村の背中を眺め、板張りの廊下を踏む。
潮風に煽られ、カタカタと硝子が鳴った。
階段の裏まで連れてこられる。逃げ場を塞ぐように鳩村は立ち、硬い声で問うた。
「ついさっき、家の人から連絡がありました――今朝から、実相寺さんの姿が見えないそうです。心当たりはないですか?」
幸子と目を交わす。
厚ぼったいレンズの先に怯えが見えた。
――姿が見えない。
いま知らされたのだ。
心当たりなどあるはずがない。むしろ、由香が今どうしているのか知りたかった。
美邦は顔を伏せ、ありませんと答える。
幸子も、私もですと同意した。
「そうですか。」
耐えきれない思いがつのる。
「あの――姿が見えないって、どういうことですか?」
「そのままの意味です。実相寺さんは、家庭の事情でお母さんが家に帰って来るのが遅いので、気づくのも遅れたそうですが。」
厭な予想が浮かんだ。
「朝――判ったんですか?」
「ええ。」
――なんで。
何が起きたのか。
あの蒼い顔で、どこへ。
「どうあれ、行方が分かっていません。何か情報があればいいのですが――。実相寺さんについて、ここ最近で、何か変わったことは知らないですか?」
再び、幸子と目を交わす。
変わったことはあった。
どこまで役立つ情報か分からない。
しかし、大切なことには違いない――由香の身に危険が迫っている。
「月曜日くらいから、体調が悪そうでしたが――すごく顔色が悪くなってて。病院に行ったほうがいいって言いましたけど。由香、まったく聞かなくて。」
「ほんに、今にも倒れそうで――」
確認するように再び目を交わす。
硝子が振動した。
鳩村は何も答えない。
ややあって諦めた表情となり、そうですかと言われる。
「実相寺さんの行方は、今、警察の方に調べてもらってます。友達が行方不明になって不安かもしれませんが、結果が分かるまで、落ち着いた行動を心掛けて下さい。私から聞いたことも、あまり触れ回らないように。」
*
――由香がいなくなった。
板書を書き写す手が震える。
美邦の隣には、いるべき者のいない机が拡がっていた。
――どうして。
家出か。事故か。変質者の仕業か。
――北朝鮮とかから船が来て。
朝から姿が見えないと鳩村は言った。
家を出たのはいつだろう。十年前は十二人が亡くなり、九年前は七人が亡くなった――全て夜に起きている。
二時間目の授業が終わった。
鳩村が再び現れ、今度は冬樹と芳賀が呼び出される。
しばらくして二人は教室へ戻って来た。
冬樹の顔は蒼い。その隣から、心配そうな視線を芳賀が送る。
教室はあまり変わらないように見えた。
しかし、表面上のことだ。
いつも元気な由香が登校しない。そして、由香とつるんでいた四人が呼び出された。何が起きたか誰の目にも明らかだ。
ささやき声が聞こえる。
――を。
――た。
詳しく分からない。
見たと言っているようにも、来たと言っているようにも聞こえた。
――が。
三時間目の授業が始まる。
板書が何度も融けた。
白墨で書かれた文字が、露のように垂れてゆく。そのたびに目をすがめた。いま、読んでくれる者はいない。
転校して一か月も経たないうちに、隣の生徒が消えた――町で初めての友達が――神社について調べていた仲間が。
――私のせいで?
神社を消した理由がある。
そこへ美邦は触れようとした――由香を巻き添えにして。だから、
――お母さんと同じように。
*
三時間目を通じて雨は弱まった。
隣の机越しに、寒そうな窓が見える。
休み時間、手洗いへ立った。
気温が急激に落ちたようだ。校舎は変わらない。由香が消えても日常は流れる。
用を済ませ、洗面台で手を洗った。
ふと、水銀の欠けた鏡に誰かが写る。
「大原さん――ちょっとええ?」
振り返る。
背後を塞ぐように女子が三人立っていた。
先頭は――確か、冬樹の隣の席の田中だ。他の二人は、クラスメイトということしか覚えていない。
詰め寄られ、顔を伏せる。
「えと――何?」
「実相寺さんがいなくなったって本当?」
口籠った。
軽率に話してはならないと言われている。しかし、田中の声は――六つの瞳は――答えるのが当然だとばかりに威圧的だ。
「いや――ちょっと――分からなくて。」
「鳩村先生から、何か聞いたでないの?」
「あ――うん。」
言葉を少し選ぶ。
「家にいないらしいとは聞いたけど。」
見知らぬ女子が非難してきた。
「なんだ! 失踪したの知っとったが。」
「えっ――?」
「さっき、知らんって言っただら?」
田中も顔を歪める。
「失踪しとるのに何で嘘ついた?」
険のある視線をもう一人が向けた。
「実相寺さんが心配でないだか?」
予想外の反応にたじろぐ。
言葉に詰まり身を縮めた。
「いい加減にしたらどうです?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
岩井が立っていた。
「大原さん――困ってらっしゃるじゃありませんか。」
不満げな顔を田中は向ける。
「だって岩井さん、気に掛からん? クラスメイトが行方不明になったに。」
「その気持ちは解りますよ? けれども大原さんは内向的な性格なので、あまり寄ってたかって質問を浴びせては可哀想です。」
唖然とする。
「ところでみなさん、実相寺さんが失踪したなどということを、どうして御存知なのですか? 私でさえ、何も聞かされていませんのですけれど――」
「ああ」と一人が答えた。「お母さんからLIИEがあっただが。なんか、警察の人が実相寺さんを探しとるらしいって。それで私達、心配になって――」
「LIИEって――電話なんか学校に持ち込まないで下さい!」
「いちいちうるせえなあ。」
「何かあった時のための連絡用だがぁ。」
文句を垂れたあと、田中が顔を向ける。
「じゃ、大原さん――時間取らせちゃってごめんねえ。」
「じゃあね。」
「バイビー。」
面倒臭そうに三人は去った。
「まったく――」
岩井は呆れ果てる。
「大原さん、申し訳ありませんね。みなさん、実相寺さんを心配しているのです。」
「ああ、うん――別に。」
聞こえよがしになじられた。
「罰が当たっただが。」
顔を上げる。
何者かの去る姿が廊下に見えた。
「こら! 笹倉さん!」
手洗いから岩井は顔を出す。
「どうして貴女は、実相寺さんに対してそんな意地悪なんですか!」
しばらく、美邦は呆然としていた。
――おかしいよ、みんな。
悔しい思いが込み上げてくる。
――岩井さんも、あんなこと言うなんてどうかしてるよ。
*
給食時間が終わり、昼休みに入る。
居心地の悪さから美邦は教室を出た。
後を追うように幸子も続く。
冬樹と芳賀も出てきた。
やはり、同じ気持ちだったのだろう。
四人揃って教室を離れる。
木造校舎を出て、渡り廊下を渡った。
雨は既に上がっている。
鉄筋校舎に這入った。
石造りの建物に人はいない。
冷たい音を響かせて階段を上がる。
濡れたバルコニーへ出た。
いつものメンバーの中に、由香がいない。
冬樹の横顔は凍っている。ただし、冷静さを保とうとしているようでもあった。
潮風の吹く中、手すりへ美邦は近づく。
背後で、芳賀の声が震えた。
「実相寺さん――大丈夫かいなあ。」
「うん。」振り向かずにうなづく。「無事だと――いいんだけど。」
「何か悩んどることあったんかいな。」
冷たい風が吹く。
幸子が声を震わせた。
「もっと心配しときゃよかった。」
美邦は振り返る。
レンズを隔てて、まつ毛が下がっていた。
「由香な――いつも家で独りだにぃ。」
「そうなの?」
「うん。」
幸子は俯く。
「由香のお父さんな、何年か前に事業に失敗しただけえ。以来、無気力でお酒ばっか。今は、お母さんが一人で働いとんなるけど。ほかに家族もおらんけぇ、体調が悪ぅなっても、誰も気づかんかったかもしらん。」
冷たい風に震える。
あの蒼い顔で、自覚症状もなかったのだ。しかも、気遣う大人もいなかった。結果、前後不覚になったのかもしれない。
冬樹の声が震えた。
「こがなことになるなんて。」
美邦と同じことを感じている。
それに気づき、目の前が白くなった。
冬樹も父親を亡くしている。
神社の消失を境に、多くの死が始まった。
それを知ったのは先日だ。ここまで調査を進ませたのは冬樹に他ならない。
視界が色を取り戻した。
覚え続けた不安が、負い目が言葉となる。
「私のせいなのかな。」
恐らく誰もがそう感じている。同時に、同じ負い目を抱えているのかもしれない。
「神社のこと調べたいって言ったから――」
「美邦は悪ぅないに!」
だが自信を失ったようにまつ毛が下がる。
「きっと家出しただが。あんまものぉ考えん子だけん、迷子になって――寒くて震えよるに。そのうち警察に保護されると思う。」
だな――と冬樹はうなづいた。
中性的な声で芳賀も言う。
「大原さん――考えすぎだぁが。まだ、帰って来とらんとしか分かっとらんにぃ。」
「だいたい、神社のことに首を突っ込んだのは俺だで?」
うん――と言い目を伏せる。
その言葉こそ、安心できる逃避先だ。
彼らもまた、自分の行動と由香の失踪は無関係だと信じたいのかもしれない。
港へ目をやる。
――たとえ帰らずとも。
どこかにいる。
先日は、神社と怪死の関連性に期待した。
今は、どちらかといえば切り離したい。でなければ、由香を巻き込んでしまったことになる――恋しい記憶を追い求めた結果、親しい人をまた失うことに。
ふと思い出す。
転校初日のことだ。
この場所で、神社がなかったかと初めて尋ねたのだ。お祭りがあった気がする――と由香は答えていた。
神嘗祭だろうか。
神社から中通りを神輿が行幸する。実行委員会があったはずだ。町ぐるみで――大人たちが協力して行なっていた。
――それを由香が覚えていたなら。
どうしても気にかかり、顔を上げた。
「幸子、由香の家って、どのあたり?」
「え?」
えっと、と幸子は言い、手すりに近寄る。
景色を指さした。
「中通りを南に行って、角を曲がって、」
伊吹の一角――鞘川付近で指が止まる。
「あのあたりだけど。」
指さされた先を見つめる。
やはり平坂神社は近い。十年前まで神嘗祭があったなら、由香が覚えていた可能性は高いはずだ――その両親も。
冬樹が目を細めた。
「大原さん――なにか気にかかるん?」
うん、とうなづく。
「由香ね、お祭りがあった気がするって言ってたの――この場所で。ひょっとしたら、秋のお彼岸のお祭りかもしれない。」
「ほんに――?」
「うん――。」
顔を上げる。「芳賀君の考えだと――町ぐるみで神社は隠されたんだよね? けど、あれだけ近いんだし、由香の両親も神社を知ってたと思う。でも――」
次第に、自分の言葉に胸騒ぎを覚える。
――娘の失踪に親が加担するだろうか。
では――。
言わんとすることに気づいたらしく、反抗的な目を芳賀が向けた。
「いや――。実相寺さん、家出かもしらんが? 人為説は否定できん。それに、一部の人だけがやったとも考えられる。」
その主張は強引すぎた。
また、気にかかることはほかにもある。
「子供はみんなGPSつけてるんだよね?」
気づいたように冬樹が息を吸う。
「だでな――。集団下校もさせとるに――町ぐるみで犯人なんてことあるか?」
港へ目をやる。
やはり――この町にはなにもない。
しかし、連れ去る者がいる。
芳賀が反論を試みた。
「けど――町ぐるみで隠すとなれば――」
「やめて!」
振り返ると、厚いレンズの向こうで目が潤んでいた。
風音の中、震える声が響く。
「そんなふうに言ったら――由香が帰ってこんやになるみたいだが。」
いつもは見せない姿だ。
胸が痛むと同時に後悔した。
ごめん――と芳賀が口にする。
美邦もまた頭を下げた。
「ごめん。」
バルコニーの入口に目をやる。そこに、
笹倉が立っていた。




