【Prelude de noir】 1
「おーい!」
「ん?」
後ろから聞こえた私を呼ぶ声に振り向くと同時に、誰かに抱き着かれる軽い衝撃。
この場所でこんなことができるのは彼女しかいない、と私は思った。
「聞いたよ、〈案内人〉に選ばれたって!」
私の背中に回していた手を緩めて顔を上げたのは、予想通り私の友人。
深い青色の瞳は心配そうに揺らぎ、私を映している。私はあえて、それに気づかないふりをして彼女に笑いかけた。
「相変わらず情報早いね。私もさっき聞いたのに」
私がこの神殿に入ったのは三十分ほど前。〈案内人〉に任命され、先ほど神前の間から出てきたばかりなのだ。
「噂にもなるよ! 〈案内人〉の代替わり時期に、転生したばっかりの天使が神殿に呼ばれればね!」
彼女はどうやら、私よりも興奮しているらしい。ここがまだ神殿の中だというのを忘れてはいないだろうか。
元から人気が少なく静かな神殿に、彼女の声がわんわんと響いている。
いや、彼女の態度の方が普通なのか。
我を忘れるくらい取り乱したって不思議ではないのかもしれない。
むしろ異質なのは、『何も思わない』私の方か。
ならば、『役者』は彼女にどう接すればいいだろう。
「まぁ、ちょっと驚いたけど……。任された以上やるしか」
「そういう問題じゃなくて!」
あぁ、どうやら解答を間違えたらしい。彼女は時にイレギュラーな反応をするから、会話をするときはいつだって気が抜けないのだ。
「だって、〈案内人〉だよ!? あんな……あんな奴らに会うなんて! しかも一人で!」
彼女の言う〝あんな奴ら〟とは、私たちの対となる種族。
〝悪魔〟たちだ。
私たち天使が、死んだ魂を裁き転生を司るのならば、当然裁かれ転生を許されなかった魂が現れる。転生を許されなかった魂はどうなるか?
――――地獄に囚われるのだ。
その地獄の管理人を務めるのが、彼ら〝悪魔〟なのである。
囚われた魂が彼らによってどうなるのか、私たちは知らない。
私たちの仕事は魂を裁きその魂を悪魔に引き渡すところまでで、それ以上の交流はない。
彼女の反応を見てもわかるように、天使はどうやら悪魔を毛嫌いしているようだし、悪魔も同様なのだろう。
そんな二種族の間をつなぎ魂を運ぶ唯一の存在が〈案内人〉だった。
「何かあったらどうするの!? あいつらなんか、野蛮で暴力的で単細胞……」
「ストップ」
一気にヒートアップしてまくしたてる友人の言葉を遮る。
「確かに悪い噂は多いけど、噂でしょう? それに、実際に会ったこともないのに、どうして悪いって言いきれるの?」
悪魔に関する噂はほかの天使たちの話に聞くばかりだが、やれ魂を火で炙るだの、氷漬けにするだのなんだのと、それはまぁひどい行いをしているということだが。
一体だれがそれを証明できる?
私たち天使は〈案内人〉以外、悪魔に会うことはない。ならば、この根も葉もない噂はどこからくるのか。
多くは時折降りていく人間界で聞く話なのだというが、その人間は生者だ。地獄を知るはずがない。
もちろん私も含めて、地獄という世界がどんな場所なのかは誰にも知りえないのだ。
「それは、そうだけど……」
私の言葉に頭が冷えてきたのか、彼女の勢いは失せていく。それを好機に、私は言葉を重ねた。
「心配してくれてありがとう。でも、私は大丈夫だから」
あぁ、なんて綺麗事。
求められた言葉しか返せないくせに。
「……何かあったらすぐ言うのよ?」
「うん、約束」
しぶしぶといった態度で折れた彼女と、右手の甲を軽く打ち合わせる。
簡易的な誓いのようなものだ。
「それじゃあそろそろ行くね。すぐに行けって言われてるんだ」
「そうなの? お疲れ様」
どうやらある程度納得してくれたらしく、彼女の表情も幾分晴れやかになっている。
「いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
そんな彼女に手を振り、私はようやく神殿を出た。
向かうのは神殿の反対側にある、罪禍の塔。
地獄へ送られる魂がつながれている場所だ。
「ふぅ……」
はるか遠くにぼんやりとその先端を見せている黒い塔へ向けて、私は翼を広げて飛び立った。




