第三話
今日、私は杏子さんと以前約束していたカブの種を買うために近所のホームセンターに来ていた。
様々な種類の野菜や花の種が目の前に並び、見ているだけでも楽しくてつい目移りしてしまう。
「カブと言っても種類はたくさんあります。あまり大きいものはうちの花壇では余裕がないので、今回は小カブにしましょう」
「うん」
「この辺りが小カブなので好きなものを選んでください。私は肥料のところを見ています」
「わかった」
あの夜の一件から私達は会話はするものの、どこかぎこちなくなってしまっていた。
私のせいで、私が杏子さんを拒絶したから。
杏子さんが求めている事には気付いていたけれど、冗談でもお母さんなんて呼ぶことはできなくて。
呼んでしまえば私たちの関係が決定してしまう気がしたから。
杏子さんから離れて種類の多い肥料の棚をぼんやりと眺めていれば、急に背後から肩を叩かれた。
振り向くとほとんど毎日会っている私の親友がいた。
「涼さん、奇遇ですね」
「伊織ちゃん。お買い物?」
「紙粘土を買いに来ました。次の創作で使うので」
カゴの中には大量の紙粘土が入っていた。
次は立体造形するんだ。
「もしかして、あちらが噂の新しいお母様ですか」
「うん」
二人分の視線に気付いたのか、こちらを振り向く杏子さん。
不思議そうに私と一緒にいる伊織ちゃんを見ている。
伊織ちゃんはカゴを揺らしながら、楽しそうに杏子さんに近付いていく。
「初めまして、波瀬伊織です。涼さんのクラスメイトで親友です」
「はっ初めまして、園田杏子です」
「…へぇ」
伊織ちゃんは意味深な笑みで品定めするように杏子さんを上から下まで、下から上まで舐めるように見る。
やめたげて、杏子さん困ってるから。
「伊織ちゃ「聞いていた通り地味な方ですね」伊織ちゃん!?」
急に何を言い出すの。
確かに言ったけれど、私が言いたかったのはそんなところも好ましいって意味で、そんな言い方をしたら思いっきり悪口じゃないか。
ただでさえ落ち込んでいた杏子さんにとどめを刺してしまう。
急いでフォローしようと杏子さんの様子を伺うと、驚いたようにきょとんとしていた。
なにその顔、可愛い、でも今はそんな場合では。
「えっと、伊織ちゃんに貴女の事を説明する過程でそんな事を少し言ったかもしれません。でももっと他に素敵なところもちゃんと紹介しています」
「涼ちゃん、学校で私の話をしてくれてるの?」
「はい、すいません」
「そっか」
あれ、杏子さん嬉しそう。
こんな時になんですけど、杏子さんがさっきからずっと可愛い。
伊織ちゃん助けて。
「…面白いなぁ」
ぼそっと言ったの聞こえてるよ。
「すいません、失礼なこと言って。涼さんはいつも貴女の事ほめていますし、良い話しか聞きませんよ。さっきのは最近親友がお母さんの話ばかりするからヤキモチ焼いてみました」
「あの、全然気にしてないよ。その…慣れてるから、大丈夫」
「そうですか、ありがとうございます。あ、涼さん少し借りますね」
「うん」
距離を取ると、杏子さんは再び種の選定作業に戻る。
植木のコーナーまで離れればもうこちらの声は向こうまで届かないだろう。
「聞いていた通り穏やかな方ですね。本性が見えないかとつついてみましたが、効果なかったですし」
「びっくりさせないでよ」
「すいません。でもお二方、少し距離感が遠い気がしましたが、例の初夜の後からずっとこんな感じなんですか?」
「…こんな感じです」
「そうですか」
ふむふむ、と大袈裟に頷く。
伊織ちゃんはたまにこうして芝居がかった言動や動作をする時がある。
楽しそうでなによりだけど、あまりからかわないでほしい。
「凉さんこの後一緒にお昼ご飯行きませんか?勿論杏子さんも一緒に」
「私はかまわないけど。もともとお昼は外でとる予定だったし」
あとは杏子さん次第。
あまり期待はせずに戻って話をしてみる。
「私、お邪魔じゃない?」
「いえ全然。むしろお願いしたいくらいです」
「じゃあご一緒しようかな」
もう少しためらうかと思っていたから意外だった。
伊織ちゃんはそうでもなかったみたいで、特に驚いた様子もなく頷いている。
「では早い、安い、そこそこ美味しいで評判のファミレスに行きましょう」
ハンバーグセットを完食し、急ぐ用事もないのでのんびり食後のブレイクタイムに突入する。
食事中私と杏子さんの間にはほとんど会話はなく、けれど気まずい雰囲気にはならなかった。
伊織ちゃんがうまく話を私達に振ってくれたおかげだと思う。
こういうところ、本当にすごいと思う。
杏子さんももう既に伊織ちゃんに慣れつつあるし。
むしろ私よりも伊織ちゃんに懐いているような気もするけど、それは勘違いだと思いたい。
でもほら、杏子さんは何か言いたそうに私の隣に座る伊織ちゃんを見つめている。
伊織ちゃんを、見つめてる。
…いいなぁ。
「…波瀬さん」
「何ですか?」
「その、学校で涼ちゃんってどんな感じ?」
え、それ本人の前で聞きますか?
伊織ちゃんもそんな楽しそうな顔しないでください。
「涼さんは成績も申し分ありませんし、責任感が強く面倒見も良いことから、クラスメイトや先生方からの信頼も厚いです」
「…さすが」
ちょっと待って、三者面談みたいになってるから。
全然そんな事ないし、流石ってどう意味ですか?
「部活動にも積極的に参加されていますし、後輩にも慕われていると聞いています」
「いや、あの」
「なんですか?ほら、時間のかかるコーヒーでも入れて来たらどうですか?」
そう言いドリンクバーを指差す顔には邪魔しないでくださいって書いてある。
まあいいか、ついでに杏子さんの分も入れてこよう。
「あまり嘘を吹き込まないでよ」
「分かってますよ、ごゆっくり」
席から離れたドリンクバーに来ると周りの喧騒もあって、二人の声は完全に聞こえない。
カップをセットしてボタンを押すと機械が静かに動き出す。
へぇ、豆から挽いてるんだ、とか思いながら席のほうを見るとなにやら真剣な顔して頷いている杏子さんの横顔が見えた。
言われた通りにゆっくり時間をかけてコーヒーを二人分入れて席に戻る。
「コーヒー、ブラックで良かったですか」
「あ、うん、ありがとう」
話は終わっていたみたいで、杏子さんがちらちらとこちらの様子を窺っている。
何を聞いたのかは分からないけれど、とりあえず弁解をしようと杏子さんに向き合ったのと相手が口を開くのは同時だった。
「涼ちゃん、あの、そのね…えっと」
「はい」
「私の事、名前で呼んでもいいんだよ?」
「はい?」
それだけですか?
それならいつも呼んでますが。
…あれ、そういえば杏子さんに対して直接名前で声を掛けた事、そんなにない気がする。
え、もしかして一回もない?
「あの、嫌なら別に大丈夫。気にしなくていいから」
別に名前で呼ぶくらい簡単だと思って口を開くけれど、いざ言おうとすると声が出ない。
いやいや、伊織ちゃんにはいつも言ってるよね。
難しいことではないはずなのに、こう改まって向き合うと何故こんなに緊張するのか。
ほら、早く言わないと、杏子さん困ってるから。
大丈夫、いつも通り、なんでもないように、名前を、呼ぶだけ。
杏子さん、杏子さん、杏子さん。
「きょうこさん」
絞り出した声は、聞こえたかも分からないような小さな声だったけれど。
名前を呼んだ、たったそれだけの事なのに。
貴女は頬を薄く染めて、口端を緩めて、目を細めて、心から嬉しそうに笑っていた。
…
……
………
「涼さん、息してください」
はっ、見蕩れてた。
「今日はお二人と偶然会えて良かったです」
「…涼さん、頑張ってくださいね」
伊織ちゃんと別れ、スーパーへ寄った後、家へと帰ってきた私達。
今日は天気もいいから、種まきまで終わらせてしまう予定だった。
野菜専用になっている花壇でまずは私が種まきを実演して見せる。
「こんな感じで指で浅く穴を開けて、3粒程種を落としてください。種の上に軽く土を被せて終わりです」
うん、簡単。
さすが初心者向けの野菜。
あとは間引きと、適度に水やりだけすれば放置で育つ。
おいしくなるかは別だけど。
場所を交代して、教えた通りに作業を始める杏子さんを今度は私が見守る。
真剣な表情で種まきをする杏子さんを見ていてふと、気が付いた。
白くて細い綺麗な指が土で汚れてしまっている。
自分は慣れてるから忘れていたけど、手袋くらい買えば良かった。
不快ではないかと、声をかけようと近付いた瞬間、杏子さんが振り向いたから思わず一時停止してしまう。
「涼ちゃん、こんな感じかな」
「あ、はい。大丈夫です」
私の挙動不審には気付かなかったようで、手が汚れるのも気にせず楽しそうに次々種を蒔いていく。
「こういう事するの、小学生の頃のアサガオ以来」
「アサガオ?」
「夏休みに観察日記をつけるの」
「ああ、ありますね」
それにしてもどうしたのだろう、今日は良くお話ししてくれる。
伊織ちゃん効果だろうか?
嬉しいけど、少し複雑な気分。
「私はひまわりでした。自分の背丈より大きく育てようと、躍起になっていた記憶があります」
「涼ちゃんはお花も好きなんだね」
「綺麗に咲くと父が喜んでくれたので」
「先生が…」
季節ごとに、この花壇に色とりどりの花を咲かせると父さんはとても喜んでくれて、綺麗だって褒めてくれた。
いつからか実用性を重視して花は野菜に変わってしまったけれど、今でも私がこの花壇の世話をしていると家の中から静かに見ている時がある。
気付いていないかもしれないけれど、その時の父さんはいつも寂しげな顔をしている。
きっとそれは母さんを思い出しているから。
我が家に残っている写真の中の母さんはいつも花と一緒に笑顔で写っている。
快活で明るく、花を育てるのが大好きな人だったらしい。
母さんと過ごした日々の事は朧気にしか覚えていないけれど、記憶の中に微かに残るその顔は確かに笑っている気がする。
思い出して、気付いた。
杏子さんは母さんには似ていない。
容姿、性格、趣味、正反対といってもいいのに。
母さんのことが好きだった父さんは、何故杏子さんを好きになったのだろう。
結婚を考える程、杏子さんのどこに惹かれたのだろう。
そんな事をぼんやり考えていれば、いつの間にか杏子さんの種まきは終わっていたようで。
手に付いた土を払いながら立ち上がった杏子さんは私に微笑みかけた。
「今日ね、波瀬さんが教えてくれたんだ。涼ちゃんと仲良くなりたかったら、お友達から始めたらいいですよって」
「伊織ちゃんがそんな事を」
「でも私、あまり友達いないからどうしたらいいのか分からなくて。そうしたら波瀬さんがアドバイスをくれた。名前で呼び合うことが友達になる第一歩なんだって」
伊織ちゃんと今日会ったのは偶然なんかじゃない。
だって杏子さんとホームセンターに行くことは昨日話していたから。
落ち込む私を心配して様子を見に来てくれたんだ。
そして私が杏子さんとの会話の中で、名前を呼んでいない事に気付いてこんなアドバイスをくれた。
本当に、伊織ちゃんには頭が上がらない。
杏子さんが緊張しながら、でも優しい表情で手を差し出してくれる。
「涼ちゃん、私と友達になってください」
断る理由なんて、あるわけない。
私はためらいなくその手を取った。
大好きな人の手に触れるのに不思議と緊張はしなかった。
「私も貴女と、杏子さんと友達になりたいです」
「涼ちゃんっ」
感極まったのか繋いだ手をぎゅっと握ってくれる。
でも痛くない。
やわらかい。
気持ちいい。
繋がれた手を凝視している事に気付いたのか杏子さんは慌てだした。
「あっ、あぁぁ、ごめんね、土が付いて、汚れちゃって、ごめんっ」
杏子さんが急いで手を放そうとするから、まだ名残惜しかったけど私の方からもう一度だけ強く握って力を抜いた。
「片付けしたら手を洗って、一緒に夕飯の準備しましょうか」
伊織ちゃん、詳しい事は休み明けに話しますが、取り急ぎ報告だけ。
杏子さんと友達になれました。