人間的な、あまりに人間的な
悪夢のような一夜がようやく明けた。
昨日は泊り込みで眠れぬ夜を過ごした進一郎だったが、しかし寝不足を一切感じさせない堂々とした態度で、ブラックシネマの書斎にて主に事件の詳細を改めて報告した。
「君はレディの扱いがなっていないな」
報告後、ブラックシネマからおかしな叱責をされるが、理由がわからず進一郎は首を捻る。
「布留火くんは自分の魔術に絶対の自信を持っている。それこそ神でもなければ決して覆せないと思うほどにね。それを彼女の前で堂々と否定してはなあ……思慮と配慮が足りないと言わざるを得ない」
我々は悪である前に紳士でなければならないと切々と説教される。
今回の大失態について何かしらの処罰が下されることを覚悟していた進一郎からすれば、少々拍子抜けではある。
「まあ、過ぎたことはこのぐらいにしておくか。では進一郎くん、今回の事件に関する君の見解を聞かせてもらおうか」
その口ぶりからしてブラックシネマもまた、この殺人が神の手によるものであると頭から信じているわけではない様子だ。
どうやら昨晩は本当に布留火の顔を立てて解散を命じただけらしい。進一郎は主の聡明さに感服すると、粛々と自らの意見を述べた。
「現時点ではまだなんとも言えませんが、私としましては、あくまで人が犯した事件として捜査を続けたいと考えています。ただ、その前に一度、神と接触してみるつもりです」
「ほう、神にか」
ブラックシネマは少し驚いたような素振りを見せる。
「あの御方が現在どこにいるか、あてはあるのかね」
「恐らくは例の公園に居るものと考えています。そうでなければ、やはり左反さまは神の御手にかかられたのかもしれません」
左反が滞在しているから神もこの街に居る。もしも自らの手で左反を消したのだとしたら、もうこの街に用はないはず。それが進一郎の推測だった。
もちろん何の保証も確証もない。あの超越者の思考など、この世の誰にも読むことなどできないだろうと百も承知の上で、あえて一縷の望みに賭けるつもりだった。
「あの御方は気まぐれで短気でときに理不尽で愚かだ。おまけに何が原因でその逆鱗に触れるかまるでわからない。会えば君は死ぬかもしれないよ」
「つまりは、いつも通りということですね。何の問題もありません」
ブラックシネマ団唯一の人間の団員にして幹部である進一郎は常に生命の危険と隣り合わせだ。敵対組織との抗争はもちろんのこと、味方の怪人であろうと話をしているうちに癇癪を起こされれば死ぬし、幹部たちの機嫌を損ねれば死ぬ。目の前にいるブラックシネマもその気になればいつでも彼を殺せることだろう。
しかし進一郎は彼らを恐れない。
殺されるわけがないだろうとタカをくくっているわけではない。だから拳銃は手放せないし日々の鍛錬は怠らない。だからと言って己を過信しているわけでもない。生前の左反が忠告したように、人と魔人の能力差は絶対的だ。たとえ武器を携帯していても、死ぬときは為す術もなく死ぬ。
もちろん死への恐怖がまるでないというわけではないが、それらをすべて飲み込んでなお、進一郎はこの世界で生きる覚悟を決めているのだ。
そして、その覚悟をこの世でもっとも高く評価しているのが、他ならぬこのブラックシネマだった。
「失敬、愚問であった。ではこれより正式に命じよう。これから多忙になる私に代わり、君に左反殺害事件の捜査を一任する」
ブラックシネマの命を一礼して受けとると、進一郎はその力強い背中を彼に向けて書斎を出て行った。
「ルシフェル……あなたが憧れた男は、まだ何ひとつとして諦めてはいませんよ」
書斎に置かれた左反の写真立てにそう独りごちると、ブラックシネマもまた自らの戦場へと向かうべく力強く立ち上がる。
「私も、地獄を諦めることはやめにしました」
指導者を失った地獄は、これから波乱の時代を迎えるだろう。その混乱を納め再びまとめ上げるのはソロモン七十二柱の筆頭である彼しかいないのだ。
※
前谷市にある中央公園は群羊県一の大公園だ。遊具のある広場だけではなく、ボートを漕げる池や広大なグラウンドも完備している。首吊りによる自殺者が出たと噂される植林地帯もここにあるが、縁起が悪いということであまり人が寄りつかない。
進一郎が始めに向かったのは、悪名高きその植林地帯だった。
人が寄りつかないことをいいことに近年ではホームレスの溜まり場になっているそこは、浮浪者のような格好をしている神が目立たずに過ごせる数少ない場所であると考えたからだ。
探し人は驚くほどあっけなく見つかった。
青いビニールで作った即席のテントの中から自ら出てくると、神は満面の笑みを浮かべて進一郎を迎え入れる。
「待っていたよ。小汚い場所で申し訳がないがゆっくりしていってくれ」
昼間に出会う神からは、初対面の時に警戒した危うさはいっさい感じられなかった。表面上の態度こそ変わっていないが、まるで別人のような豹変ぶりだと進一郎は少し驚く。
――神は気まぐれという話を聞いてはいたが……今日は機嫌がいいということなのだろうか。
魔人や怪人相手ならまったく恐怖を感じない進一郎だが、神に対しては一種の得体の知れなさを感じていた。左反が彼に畏怖の念を持つのも無理からぬことだと改めて痛感する。
「本日は神に、悲報を伝えに参りました」
薄暗いテントの中に入って軽く会釈をすると、進一郎は心の動揺を悟られぬようすぐに本題を切り出そうとした。
しかし神は進一郎の次の言葉を待つことはしなかった。
「ルシフェルが死んだのだろう。君が今日、そのことを私に伝えに来ることはわかっていた。ご足労痛み入る」
抑揚のない諦観しきった声だった。
神は全知全能だと伝え聞いているが、やはりそれは真実なのだろうか。それとも――
「我が団の団員一同、貴方の子を護りきれず誠に申し訳なく思っています。現在、総力を挙げて犯人の捜索にあたっております」
進一郎は深く頭を下げながらも、神の表情を注意深く伺う。神に屈した己への怒りはあれど、捜査は慎重かつ冷静に行わなければならない。
――もしも自らの手で愛息を殺したのなら、何かしらの反応があってもいいはずだ。
しかし神の微笑みは決して崩れず、前髪で隠れた双眸からは何も伺い知ることはできなかった。
「少し、散歩をしないか」
神は、左反の死にはいっさい触れずに、のんびりとした口調で進一郎にそう提案した。
※
穏やかな日の日差しを浴びながら、神と共に公園をゆっくりと散策する。
自殺の名所などという不名誉な呼ばれ方とは裏腹に、植林地帯は美しい新緑と小鳥たちのさえずりが楽しめる、歩いていて心地よい場所だった。
むせかえる新緑の匂いの中を神は無言で歩き続ける。
進一郎もまた話しかける機会と口にする言葉を探して神に追従する。
「神よ、私は――」
「その呼び方はやめてくれないかな。僕には世具外臼という名がある」
植林地帯を抜けて池の橋を渡りかけたところで、意を決して話しかけるがすぐに出鼻を挫かれた。
しかし、それでもめげずに進一郎は神に食らいつく。
「世具さん、この際腹を割って話す。俺は左反さんを殺した犯人を捜している。何か心当たりがあれば教えてもらいたい」
「僕がルシフェルを殺したと言えば、君は納得するのかい?」
「……」
「だったら、僕がやったと答えるけどね」
世具は顔色一つ変えずにさらりと言ってのけた。
「俺が知りたいのは真実だけです」
もちろん納得などしない。進一郎の本命はあくまで人の手による他殺だ。
布留火はああ言っていたが、あれほど左反と再会することを楽しみにしていた世具が、彼を殺すというのは少し考えにくかった。仮に彼が殺したのだとしても、この耳で直接その理由を聞かなければ納得など到底できない。
「全知全能であるあなたなら、俺が知りたい事への答えを持っているはずだ。頼む、その知恵の一部を分け与えてくれ」
進一郎は私情を捨てて世具に嘆願した。
しかし世具は静かに首を横に振る。
「全知全能など人の抱く夢想だよ。僕はこの世の理どころか、僕が何者であるかすらわからない」
世具は進一郎に諭すように言った。
自分のことがわからないなどという馬鹿げた話がどこにある。進一郎は憤ったが、その感情を露にするのはさすがに憚られた。
そんな進一郎の心境を嘲笑うかのように世具は吐き捨てるように言う。
「君は、本当に人間的な人間だよ」
言葉の意味がわからず進一郎が戸惑っていると、世具はどこか遠くを見つめるような眼をして続ける。
「たとえ無意味だとわかっていても真実を探らなければ気が済まない。この世には知らないほうがいいことだってたくさんあるにも関わらず、無知は罪だと言わんばかりに追い求める。なんと人間らしい醜さ浅ましさか。君は今、禁断の果実に手を出そうとしている」
――だが僕は、
「そんな人間が、殺してやりたいほど妬ましい!」
突如狂ったかの如く叫ぶと、世具はその大きな手のひらで進一郎の眼前を覆い尽くした。
眼前に広がる闇黒の中、世具の甲高い声が激しく耳朶を打つ。
「もしも君がすべての可能性を模索して、なおその真相が泥闇の中にあるというのであれば、僕が魔王殺しの犯神であると糾弾するがいい! そのとき僕は、すべての罪を認めて君に贖罪うだろう!」
視界が開けた瞬間――世具の身体は音もなく破裂し、四散したその肉片はすべて水鳥の羽となって高々と天空に舞い上がった。
『左反の遺言、最後に君に伝えておく』
驚愕した進一郎が羽を追って天を仰ぐと、蒼き天空の果てから今は亡き左反の声が降り注ぐ。
『わしが地上に出て一番嬉しかったこと。それは君という人間に出会えたことだ。
君の長く険しい人生の旅路に、どうか一握の幸あらんことを』
その言葉を最後に、世具の気配は公園から完全に消え去った。もはやこの世に存在しているのかすらわからない。本気で姿を消した神を追うことは何人たりとも不可能だ。
しかし進一郎は神の御業に驚くことも、神を取り逃した事実を嘆くこともしなかった。ただ、舞い落ちた羽をつまみ上げ、呻くように独りごちる。
「どうして神ではなく俺が一番なんだ……左反さん」
それは純粋な疑問だった。
左反は神との再会を涙を流して喜んでいた。その神を差し置いて出会ったばかりの自分を選ぶというのは、どうしても腑に落ちなかった。
「あの涙は喜びから来るものではなかったのか? それとも、魔王が俺に執着する何かしらの理由があるとでもいうのか?」
神の気まぐれにより捏造された発言だとは思いたくはないが――あるいは事件を追っていき、すべての真実が白日の下に晒されたとき、その謎も明らかになるのかもしれない。
今の進一郎にできることはただ諦めないことだけ。
彼は今、神に試されているのだ。
捜査編【序章】
ここから先は少し長い物語になると思います