最後の晩餐
登場人物紹介④
ラウム 魔人。組織のNo.2だが信用されていない。妖艶なる美女
次の日の朝、あくびを噛み殺しながら進一郎が執務室に入ると、布留火と真理恵が待ち構えていた。
「昨夜は左反さまと飲みに行かれたようで」
「護衛としては是非とも詳細を報告していただきたいと思いまして」
直接本人から聞けばいいだろうと思ったが、先日左反の部屋の前をうろうろしていたことといい、どうやら二人とも左反に対して気後れしているらしい。
大悪魔の血を継ぐ者たちが雁首揃えて情けないとも思うが、相手が魔王なだけに仕方ないとも言える。
「報告と言われてもな……ただ一緒に飲んで帰ってきただけだが」
嘘ではない。ただ、本人の許可なく左反の真実を話すことはできないというだけだ。
それに真実を聞けば二人は左反に対して失望するかもしれない。他人の過去など無闇にほじくり返すものではないのだ。
「布留火は騙されませんよ。左反さまは進一郎さまのことを信用しているご様子でした。一緒に飲んでいれば必ずや面白……いえ、興味深い話の一つや二つ聞いているはずです」
「くどい。ちょっとした世間話をしただけだ。ああそうだ、帰る前に立ち寄った公園で神に会ってきたぞ。面白いことといえばそれだけだ」
布留火と真理恵は互いに顔を見合わせると、まるで示し合わせたかのように一緒に笑い出した。
「ナイスジョークです」
「お堅い進ちゃんも冗談が言えるようになったのね」
――冗談じゃないんだけどな。
進一郎は二人を押し退けてどかりと椅子に座る。
夜の公園を歩いていたら神に出会いました等という突拍子もない話、冗談にしかならないというのが現実だった。
「なかなか口が堅いですね。どうしましょう布留火さん」
「そうですね真理恵さま。情報には対価を支払うのが悪魔の習わし。無料でいただこうというのはいささか虫が良すぎました」
「それでは如何いたしましょう?」
「思春期の男性の口を割るのは色仕掛けと相場が決まっています」
嫌な予感がしたので退席しようとした進一郎だが、悲しいかな身体能力の違いにより、立ち上がる暇すら与えられずに取り押さえられてしまった。
「進一郎さまだけの特別サービスですよ」
「進ちゃん、痛かったら言ってね?」
言うが早いが二人は有無を言わさず、進一郎の顔にその胸をぐいぐいと押しつけてきた。
俗に言うぱふぱふである。
布留火のほうは余裕の笑みを浮かべているが、真理恵のほうはまったくの初心で恥ずかしさで耳まで赤くしている。大方、布留火におかしなことを吹き込まれたのだろう。まったくもっていい迷惑だ。
「お、おいやめろ! 団内の風紀を乱すような行為は……!」
叫ぼうとした口が、真理恵のよく熟れた二つの大きな果実で塞がれる。
何とか逃れようと頭を後ろに引くが、今度は布留火の均整のとれた形のいい胸部に遮られた。
「そろそろ観念したほうがよろしいのではないでしょうか」
「布留火さん……やっぱり、これはちょっと恥ずかしいですよぉ」
悲しいかな、どれだけ鍛えようとも人間の腕力では魔人相手に抗うことは不可能。二人の美少女の胸の谷間にサンドイッチされて、進一郎はしばらく天国とも地獄とも呼べる未知の感触に悶絶することとなった。
「布留火さん、これって本当に対価になってるんですか?」
「もちろんです。ほら、進一郎さまのここ、すごくカチカチになってて今にも暴発しそうですもの」
なんたる面恥。いっそ殺せ。
※
「本当に死ぬかと思った……」
真理恵と布留火のハニートラップ(と言っていいものか)からほうほうの体で逃げ出した進一郎は、中層の住居区域を力なくふらついていた。
仕事は山ほど残っているが、今すぐ戻って取りかかる気力が沸かない。せっかくここまで来たのだからということで、進一郎は左反の部屋に挨拶しに行くことに決めた。
昨夜の左反はずいぶん飲んでいたし、衝撃的な出来事もあった。ここは自らの目で様子を伺っておくべきだろう。
「あら、進一郎。こんなところで何をしているのかしら」
左反の部屋の前までたどり着くと、そこで見知った人影に声をかけられた。
艶ひとつない漆黒のドレスに身を包んだ妙齢の女性はラウム。ソロモン七十二柱の一柱に数えられる有名な悪魔にしてブラックシネマ団幹部最後の一人である。
「それはこちらの台詞ですよ。こんな辺鄙なところに何の御用です?」
「それはもちろん、ルシフェルさまに会いに来たに決まっているではないですか」
――ちっ。
進一郎は舌打ちしたくなるほどの不快感を顔に出さないよう懸命にこらえる。
「貴女に護衛の命は下されていないはずですよ」
「いくら護衛でなくとも魔王の滞在を聞いておいて挨拶もなしなどありえませんわ」
長い髪の隙間から昏く淀んだ瞳が進一郎を見据える。口元に浮かんだ微笑はまるで獲物を見つけたことを喜んでいるかのようだった。
団内でも最古参の一人ではあるが、ブラックシネマから重用されておらず、幹部でありながら左反護衛任務から外されている。とにかく挙動不審で、進一郎も最低限の敬意こそ払えど、まったく信用はしていない。できれば魔王滞在の情報さえ渡したくなかったほどだ。
「頭領から団内の裏切り者の調査を命じられていたはずですが、進捗はどうでしょうか」
「懸命に調査しているけど未だ大きな収穫なしよ。裏切り者なんて本当にいるのかしらね」
――貴女がそうなんじゃないのか?
そう問い詰めたくなったが、今はしない。厳しく問い詰めて処分するのは決定的な証拠が出て来てからと決めていた。
ブラックシネマ不在時を狙い澄ましたかのようにデビルドラッグ団が襲ってきた時から、団内にスパイが侵入している可能性を考慮していた進一郎だが、盗みを得意とする悪魔であるラウムはその有力候補である。
「申し訳ありませんが今後、左反さまとお会いする時は、私の許可を取ってからにしてください」
「面倒ねえ。あたしってそんなに信用ないかしら」
ろくに働いてもいないのに、そんなものがあるはずもない。
「規則ですので。これでも私は今回の護衛の責任者ですから」
ラウムは頬に手を当てて悩むような素振りを見せるが、
「了解したわ」
軽い調子で快諾し、足早にその場を去っていった。
その様子からまた無断で左反に会いに行きそうに思えた進一郎は、半ば無駄だと諦めつつも真理恵に連絡して、ラウムへの警戒を強めるよう忠告した。
※
リビングルームで紅茶を飲んでいた左反は、昨晩の狼狽ぶりが嘘だったかのように精悍な顔つきをしていた。
左反に勧められて進一郎が着席すると新しいカップに紅茶を注ぐ。
「お変わりないようで何よりです」
「変わったさ。少なくともわしの意識はな」
左反はティーカップに注がれた紅茶に浮かぶ自分の顔をにらみつける。
「神には結局、わしの声など何ひとつ届いてはいなかった」
昨晩、左反は神に多くの提案を出した。自分の代わりに地獄の支配者にならないかという比較的穏健なものから、共に三界を征服しようという過激なものまで、その内容は多種多様に渡った。
しかし神は左反の提案をことごとく拒否した。
左反の提案の中にはブラックシネマ団としては不都合なものまであったので進一郎たちからすれば助かったのだが、彼の抱いた失意と絶望は想像に難くない。
「当然の結果だな。全知全能である神にとって支配や征服など児戯に等しい。考え方を改める必要があるな」
しかし現在の左反はすでに普段の冷静さを取り戻していた。
二日酔いや体調不良もなさそうなので、ひとまずは安心だろう。
「うちのラウムがお邪魔していたようですが、失礼などなかったでしょうか」
「彼女とは既知の間柄でね。気心は知れているから心配はいらんよ」
紅茶を片手に進一郎は、しばしの間、左反との世間話を楽しんだ。
亀の甲より年の功というのはどうやら事実のようで、左反の豊富な知識と経験は進一郎にとって非常に有益であり、飽きることのない時間を過ごすことができた。
「進くんは本当に変わり者だ」
話の最後に左反がぼそりとそうつぶやく。
「人間は我らを見れば忌み嫌うか利用しようとするか、さもなくば恐れおののくかのどれかなのに、君にはそんな素振りが一切ない。魔人と怪人が大多数を占めるこの組織内で、実に堂々とした態度じゃあないか」
「受肉して地上に存在してる以上、あなた方はただの人ですので」
「それでも人間と魔人の身体能力差は歴然だ。君たちから魔力を供給してもらわねばならぬが魔術だって使える。恐ろしい、ここから逃げ出したい……と考えたことはなかったのかね」
「幸いうちの団は皆気のいい連中ばかりですので。二三度死にかけた程度で特に怖いとも逃げ出したいとも思ったことはありませんね。まあ、あれですよ。生来のひねくれ者なんで、感性が他人と違うのかもしれません」
何度殺されかけようが異形の怪人の相手をしているほうが心が落ち着くし、社会の常識に囚われているだけのつまらない人間たちを相手するより、自分で召喚した悪魔とくだらない会話をしているほうが何倍も楽しい。我ながら変わり者だと進一郎はつねづね思う。
「呆れた奴だ。しかしうらやましい。私は神を御前にして畏怖を感じなかったことはない」
「スケールがまるで違いますよ。それに、あなた方の本来の姿を見たら私も恐怖を感じるかもしれません」
「エルは正体を見せてくれたことはなかったのかい?」
「頭領ですか? ありますが……ああ、そういえば特に何も感じませんでしたね」
それみたことかと左反は笑うと、
「さすがはエルが己が右腕と認めた男だ。わしも君のように在りたいよ」
急に真顔に戻り、そのような事を進一郎に言うのだ。
数多の悪魔を従える地獄の王が、ただひねくれているだけの小僧の何を見習うことがあるかと進一郎は苦笑する。
「魔王ともなると冗談も上手くなるらしいですね」
進一郎の言葉に左反は心外と言わんばかりに肩をすくめたが、それ以上の言及はせず、アムドゥシアスという名の部下が夜ごとに鳴らすトランペットがあまりにうるさくて、近隣住民から苦情が殺到して困っている等といった地獄の統治に関する愚痴へと話題を変えていった。
――不思議な御仁だ。
話を聞いているだけで気分が落ち着いてくる。弱々しい外見こそしているが、主であるブラックシネマとはまた違った魅力がある。
彼が神の呪縛から解き放たれ、真の支配者として目覚めてくれたら、地獄はどれほど幸福なことか。進一郎は闇の住民の一員として左反の覚醒を願わずにはいられなかった。
「本日は楽しい時間をありがとうございました。機会があればまたお話を聞かせてください」
進一郎が頭を下げると左反は淋しそうに微笑み「また会おう」と軽く手を振った。
これが進一郎が左反と交わす最期の会話になろうとは、その時の彼には想像すらできなかった。