四章
4
どんなに暑い夏の日でも、あたしの芯には解けることのない氷の塊があった。それはあたしの理性を冷たく研ぎ澄ましたけれど、いつも孤独を意識させた。
ひだまりのようなすなおの笑顔は、あたしの氷を解かしてくれた。いつしか氷は温かい血となってあたしの身体をめぐり、春風にのぼせられるくらいに温めてくれていたのに。
解けたはずの氷が、もう一度あたしの中で形を取り戻そうとしていた。
――ちいさな火花が散って、ジッポーに火が灯る。
家の縁側に腰掛けてジッポーに火を付けることは、継続が苦手なあたしが続けてきた唯一の日課だ。寒さを紛らわすためには、火に当たるのがいちばんだ。心の奥底にある氷までは解けなくても、表面があたたかくなれば一時は寒さを忘れることができる。
小さい頃のあたしは、台所に忍び込んではガスコンロの火をつけ、母さんにひどく叱られていた。傍から見れば飛んで火に入る夏の虫といった様子だったんだろう。すべてを焼く炎の恐ろしさがあたしにはさっぱりわかっていなかった。
そんな折、父さんがあたしに銀のジッポーをプレゼントしてくれた。
あれはたしか小学校に上がる前のこと。父さんにジッポーを渡されてもあたしにはそれがなんなのかわからなくて、母さんが顔を真っ赤にしてわめき散らすのを見て首を傾げたものだ。父さんは怒る母さんを押し留めて、あたしの目の前でジッポーに火をつけて見せた。
世界でいちばん透き通った赤い宝石が、形を失くしたもの。それが炎なんだとあたしは知った。
その魅力はあたしに炎の危険をすっかり忘れさせ、当然のようにあたしが伸ばした手は焦がされた。母さんは半狂乱になったけれど、父さんは穏やかにあたしを見守ってくれていて、あたしも不思議と涙を流さなかった。怖いとか、痛いとか、そんな気持ちよりも驚きが先に立っていたんだ。
じわじわと指先に広がる痛みは、少しも暖かくなかった。生まれて初めての火傷は、あたしが炎に抱いていた淡い夢を冷やしきり、あたしは炎に恐れを感じて距離を置くようになったんだ。
――あとのことは、どうでもいい蛇足だけれど。
あたしの曽祖父は近くの川原で灯油を浴びて焼身自殺し、祖父は空襲で焼夷弾の雨をその身に受けて燃え尽きた。父さんが言うにはもっと遠いご先祖さまも、ひとり残らず火に焼かれて死んだという。
それを宿命だと言っては、父さんは愛用していた銅のジッポーの火を眺めていた。その瞳に映った炎は日に日に大きくなってゆき、ついには父さんを焼き尽くした。
あたしが中学一年生の夏。父さんはトンネル火災に巻き込まれ、灰になって死んだ。
トンネル火災の原因は大規模な玉突き事故で、前後は炎に囲まれて逃げるに逃げられない状況だった。父さんは窓の開いた車の中で座したまま死んでいて、その手にはどろどろに溶けた銅のジッポーが握られていた。
たぶん、父さんは自殺したんだと思う。
窒息で死なないように窓を開け、火の手が近づくよりもはやく自分の身体に火をつけたんだ。焼け死んだ先祖たちと同じように、自分の宿命に従って。
いずれはあたしも、焼かれて死ぬのかもしれない。そう考えると、手の中のジッボーの火が一回り大きくなって見えた。
けれど、不思議と怖くはない。こんな炎になら包まれるのも悪くないと思うんだ。
「相変わらず、沙羅華は火遊びが好きだね」
耳のそばを避けて通るような声に視線を上げてみると、ブロック塀の上に透が腰掛けていた。塀はそれほど高くないけれど、低くもない。上れることと上ることはまた別問題だけど、こいつには関係ないらしかった。ばかみたいに身軽な男。
「遊んでるつもりはない」
透と話していると、胸にもやのようなものが溜まっていく。だから、一言一言喋るたびに吐き出さなきゃいけないんだ。できる限り短く、勢いをつけて。
「目的のないことは全部遊びだよ。気持ちはわかるけど、そうやっていつまでもお父さんのことを」
「黙れ」
「……気に障ったかな」
「障るように言ってるんだろ」
「ひねた言い方だね。僕は沙羅華のためを思って言ってるだけだよ」
手が届いたなら、この瞬間にもあたしの拳は透の顔を殴り飛ばしていただろう。あたしは握り締めた拳の力をそのまま視線に込めて透を睨みつけた。
「そんな目で睨まないでよ。図星だからそんなに怒ってるんだろう?」
「勝手に言ってればいい」
お前の事はすべてわかっているとでも言いたげな瞳で、透はあたしを見据えてくる。
それはただのわかったつもりだ。すべて理解していると思い込んで、知ろうとすることを怠る。他人が自分と同じように考え行動する人間だということすら、こいつは理解できてないんだろう。
こういう最低の人間の見分け方は簡単だ。人の話を聞き流し、こと自分が話す時に限っては饒舌になる。透にとって他人の言葉は情景描写程度のもので、セリフを喋ることができるのは透自身だけなんだ。
「つれないな。それじゃあ直ちゃんにも愛想を尽かされちゃうよ?」
透が呼ぶだけですなおの名が汚されるように感じられて、狂おしいほど不快だった。あの喉を焼いて、口を縫い合わせてしまいたいほどに。
「すなおのことは関係ないだろ」
「あるよ。だって君たち、付き合ってるんだよね?」
庭の地面に視線を移すと、玉砂利の海が激しく波打っていた。枯山水の庭に水はない。だから、揺れているのはあたしの瞳。
「……どこで知った」
「君の恋人から直接聞いたんだよ」
それしかありえないよね、と透は口の端に優越感を滲ませて笑う。
すなおが喋るなんて、それこそありえない。昨日までのあたしならそうやって断言できただろうけれど、あのあかいあかい口付けのあとではなにも言えない。
騙されたんだ、裏切られたんだ。そう自分の声で囁く悪魔を振り払って、あたしは顔を上げた。
「なにか言いたそうな顔だな。文句でもあるのかよ」
「あるさ。女の子同士で付き合うのはおかしい」
赤ペンでバツをつけるような潔さで、透は言い切った。
「磁石みたいに、同じものは弾きあって必要以上に近づかないようになってるんだよ。女の子同士の恋愛なんて異常なんだ」
「好き合ってるふたりが付き合うこととのどこが異常だ」
「それ自体はいいよ、でも君たちはふたりとも女の子だから」
「女、女ってうるさいんだよ。あたしたちは人間だ。それ以上の組み分けなんていらない」
「……頑なだね、君は」
誰に知られたって、こうなることはわかっていた。腐れた常識というやつに照らしてみれば、あたしたちの関係は確かに異常なんだろう。残念なことに、世の中には常識どおり生きている人間のほうが多い。過半数の論理だから『常識』なんだ。
けれど、あたしたちは繋がっている。結論はそれだけだ。誰がなんと言おうとあたしたちは揺らがない。
――いまは少しだけ、白々しい言葉に感じられるけれど。
「沙羅華はどうか知らないけど、直ちゃんは本当の恋を知らないだけだよ」
「どうしてお前にそんなことが言える」
「だって、あの子はたぶん、僕のことが好きだよ」
おおよそ、考えうる限り最悪のタイミング、最悪の人間、最悪の言葉。あらゆる最悪が重なって、あたしの心を挫こうとする。
「直ちゃんはまだ気づいていないみたいだけど、すぐに僕が気づかせる」
「告白するってのか。そんなの無駄に決まってる。すなおにはあたしがいるんだから」
「そこまで自信があるなら、賭けをしようよ。僕が直ちゃんに告白して、もしも断られれば沙羅華の勝ち。受け入れられれば僕の勝ち。どうだい?」
詰まりそうになった言葉を無理やりに押し出す。ここで止まるわけにはいかない。それはすなおを、そしてあたし自身を裏切る行為だ。
「なにを賭けるか知らないけど、泣きを見ることになるぞ」
「君が勝ったらなんでも言うことを聞くよ。その代わり、僕が勝ったらお願いをひとつ聞いてくれないかな」
「命令させろってことか」
「いいや、僕がしたいのはただのお願いなんだ。受けるも受けないも君の自由だよ」
やけに引っかかる言い方。お願いならいま言えばいいだろうと詰め寄ると、透は『その時じゃないと意味がない』と言ってさっさと塀の向こう側へ帰っていった。
あたしはしばらく縁側に座っていたけれど、ひどい凍えを感じて部屋に戻った。四月に入って春めいてきたとはいえ、まだまだ夜風は肌寒い。
部屋に戻り、分厚い羽毛の掛け布団に毛布まで掛けてくるまっても寒さは和らがない。布団も、空気も、なにもかもがあたしを冷やそうとしているようだった。
逃れるように目を閉じても、そこは炎のない暗闇。火をつけようにも、心の中にジッポーはない。あたしは抗う術もなく、寒さに蝕まれながら眠った。