五章
5
四月も半ばに近づき始めたこの日の朝方、思い出したように花散らしの雨が降った。
この日まで咲き続けた桜の花びらは地面に落ちて、枝には強い花しか残らない。頭上は殺風景になったけれど、落ちた花びらは地面を埋め尽くし、まるで足元から花が咲いてくるようだった。重くなりがちなあたしの歩調も、花むしろに押し上げられて少し軽くなったように感じる。
「おはよう、さらかちゃん」
土日の休みをまたいで、あたしはすなおと三日ぶりに顔を合わせた。あの日は喧嘩別れみたいになってしまったのに、すなおの態度は微塵も変わった様子がない。ごく一握りの寂しさのようなものが、瞳の中に見えただけで。
「……おはよ、すなお」
いま、あたしはどんな顔をしているだろう。手近に鏡がなかったから、すなおの瞳に映る自分を見ようとしたけれど、どうにも目を合わせられなかった。それだけで、自分の状態は嫌になるほどよくわかる。
――あたしは、すなおを恐れているんだ。
理性ではなく本能の段階の話。頭ではわかっているんだ。すなおはあの日のことを忘れて接しようとしてくれているし、実のところ彼女にとってあの出来事は忘れられるくらいにささやかなものだったんだろう。
けれど、あたしにとってはそうじゃない。すなおと一緒に積み上げてきた長い長い時間の、土台に近い部分が揺らいだように感じられたんだ。根元が震えるっていうのはなにより怖いことだ。手が震えても不安にならないけれど、胴の奥から震えが湧き出してきたらひどく不安になる。逆に言えば、不安は深いところからくる。手ですくい取れないほど深い暗闇の底から。
触って形を確かめられる不安なんて、不安じゃない。
「桜、散っちゃったね」
とっくに雨は止んでいるのに、すなおは行きがけに買ったらしい透明なビニール傘を通して、暗い空を寂しそうに見上げていた。傘に張り付いた桜の花びらは白く血の気を失っていて、鮮やかな桜色に咲いていたのが夢のようだ。
剥製、抜け殻、かけら。散ってしまった花びらのことをなんと呼べばいいのかしばらく悩んで、あたしはぴったりな言葉にたどりついた。
――むくろ。
血を撒き散らし、身体を引き裂かれた花のむくろ。そう考えてみると急に怖くなって、あたしは袖に付いていた花びらをそっと払った。
「ほとんど散ったけど……まだなくなったわけじゃないよ」
そう言いたかっただけだ。華やかな桜色なんて探さないと見つからない。誰が見たって桜は散ったというだろう。
終わったと認めてしまうのが、見限ってしまうのが、怖いだけだ。
「そっか……それじゃあ、まだ桜並木だね」
すなおの寂しそうな雰囲気が和らいだのを見て、あたしは思わず頷いてしまった。
でも、違うんだ。違うんだよ、すなお。『まだ』じゃない。桜並木はいつも桜並木なんだ。とりもなおさず一年中、サボらず律儀に桜並木をやってる。それなのに、人は花が咲いた時だけ桜並木を思い出し、散ればすぐに忘れてしまう。そうやって、自分たちの勝手で桜並木を殺すんだ。
うわべを真実だと決め込んで、本質には手を出そうとしない。そんな桜を殺すやつらが世の中にはうじゃうじゃとうごめいている。だから、あたしたちは一緒になったんだ。
そうだろ? と心の中ですなおの背中に語りかけたけれど、もちろん彼女が振り向くはずもない。
残念だけど、あたしたちはテレパシーを持ち合わせてない。信頼だけがあたしたちを繋いでいるんだ。
その日の夕方にかけて、空を厚く覆っていた雲はじわりじわりと段階を踏んで薄くなっていき、放課後にはもう西日に染まる真っ赤な空を見ることができた。昼間は灰色一色の空模様だったから、空の色がいつもより鮮やかに見える。それこそ、口紅みたいに艶やかな赤。
あたしは努めていつも通りに帰り支度をして、苦心して作り上げた笑顔ですなおに笑いかけた。
「帰ろっか、すなお」
うん、と頷いてくれればそれでよかったんだ。無理をしてでも、日常が取り戻せるのならそれでいい。あたしが望むのはそれだけだった。
けれど、日常はとっくに手の届かない闇の底に消えてしまっていた。
「えっと、今日はちょっと寄り道したいんだけど、いい?」
「いいよ。どこ行く?」
「ええとね、場所はどこでもいいの。ただ」
もったいつけるようにささやかな間を置き、すなおはあたしの瞳を見つめた。鋭く、まっすぐ、突き通す剣のような視線。
「ふたりだけで、話したいことがあって」
この前のことだろうか、と安直に考えたあたしは、次の瞬間に視界の端で薄ら笑いを浮かべる透の姿を見た。その笑みは、あいつが世渡りのために使いまわしている安い笑いじゃない。優越感をにじませた、一点ものの嘲笑。かすかに歯を覗かせながら、透はあたしだけにその笑みを向けた。
「ごめん、今日はやっぱりだめだ」
反射的にあたしは逃げようとしたけれど、あたしの行く手を阻むようにすなおが立ちふさがる。
「少しだけでいいの。だから……」
――もう、あたしはクモの巣に足を取られていたんだ。
わずかな振動も見逃さず、クモは獲物を喰らいにやってくる。あとはその鋭い牙でひと噛みして、獲物の身体に毒を回すだけ。ばりばりと噛み砕いて食べるようなことはしない。流し込んだ毒で獲物の中身を溶かし、すすって殺す。あとには抜け殻が残るだけだ。
透は犬歯をちらちらと見せて笑いながら、ゆったりとこちらへ歩いてきて、なんでもないように言った。
「賭けは僕の勝ちだよ、さらか」
ささやかな、猛毒のひと噛み。
すう、と全身から熱が流れ出していくのを感じた。辛うじて残っていた埋み火に、冷や水をかぶせられたようだ。
あたしは負けたのか。こんなに下らない男に。人を知ろうともしない最悪の人間に。
わけもわからず視線を揺らすすなおの肩に、あたしはそっと手を置いた。冬服のブレザーは分厚くて、すなおの体温なんて少しも感じられない。あたしはただ、冷えていく。
「そうか」
あたしはほんの少し力を込めて、すなおの肩を押しのけた。力づくで押しやれるほど強くない、軽く手をつくくらいの力。けれど、あたしか押すなんて思っても見なかったんだろう。すなおは押されるがままによろめき、乾いた絶望的な目であたしを見た。
ようやく、なにが起こっているのか気づいたんだろう。けれどなにか言葉にすることもできず、すなおはかすれた息を吐くだけだった。
――どこか、寒いところへ逃げようと思った。
自分の内側の冷たさがわからなくなるくらい、凍えるように寒いところへ。暖かい場所にいたら、氷になったあたしの身体にはぴきぴきと亀裂が入り、粉々に砕けてしまう。
あたしはすなおを押し退けて教室から出ると、足は勝手に駆け出していた。後ろからすなおの声が聞こえた気がしたけれど、振り返る余裕も、そのつもりもない。
なりふり構わず逃げ続けたあたしは、いつしか屋上へ出るドアの前に立っていた。半ば錆びかけた脆そうな鉄のドアだが、鍵がかかっているのには違いない。ドアの前に並べてあった古い木のイスをひとつ手に取ると、あたしは力任せにイスを振るい、ドアのガラス窓に叩きつけた。
思ったよりもずっと軽い音がしてガラスが割れ、きらきらと光る破片があたりに散らばる。
見つかったら停学くらいは喰らうかもしれないけれど、そんなことはもう気にしていなかった。ただ、身体の芯から広がってくる寒さが恐ろしかったんだ。それこそ、逃れるためならどんなことでもやってのけるほどに。
――空の色はチアノーゼのような青紫色になっていた。
赤い夕方と、黒い夜のはざま。混ざり合う色の境界は淡くぼやけている。
混ざりものは優しい。あたしたちが愛する純粋さみたいに、人を突き刺してくることがない。ただ、ふわふわと包み込んでくるんだ。干したての布団みたいにふかふかと温かい感覚を味わっていれば、誰だってそのまま寝ぼけていたくなる。嘘をついて、自分を誤魔化して、曖昧さの中にうずまっていようとする。
それが普通だし、その方が生きやすい。小さい頃ならともかく、今のあたしにはそれがわかる。だからこそ、わがままだけでこんな生き方を続けてきたわけじゃないんだ。ひとりでできることじゃなかったけど、すなおがいたからここまで自分を貫けた。
けれど、終わってみれば、あんなに輝いていたまっすぐな気持ちも、自分を蝕む猛毒だったようにしか思えない。あのとき、すなおを受け入れずに、曖昧な世界に埋もれることを選んでいたなら、どんなに楽だっただろう。
優しい混濁の中にいれば、痛みを感じることがない。曖昧さは、鋭く尖ったすべてのものからあたしたちを守ってくれる。苦しみなんてあるわけがないんだ。
――でも、その混濁の中に幸せはあるんだろうか?
一陣の春風が吹いて、頬がひんやりと冷たくなる。その冷たさが感じられるくらいには、あたしの中の熱は戻る気配を見せはじめていた。
理由は簡単。ここが地獄の底ではないという、単純な事に気づいただけだ。あたしはまだ、凍り付いていない。
「さらかちゃん」
背中に掛けられた声で、心の中にちいさな種火が点ったような気がした。




