第一話『走馬灯さん、違うじゃん』
浮かれていた、浮ついていた、浮かされていた。
――だから私は、浮いていた。
数秒前の衝撃を忘れるくらいに、暑い夏の日だった。
『浮くといっても色々あるなぁ』なんてくだらないことを考える程度には、地熱と夏真っ盛りの太陽光がジリジリと思考を溶かしていく。視界の先には、見渡す限りの空。さっきまで歩いていたはずなのに、道は見えない。
――痛みは、無かった。それよりも、アイスの匂いが気になっている自分に、笑いたかった。
買ってしばらく経っていたアイスはもう溶けていて、破れたパッケージから、液体が顔に向かって飛んでいた。
「変な臭い……ならまぁ、いいや……」
味は良いのかも知れないけれど、溶けたアイスを地面に這いつくばってでも舐め取る程落ちぶれてはいない。
――それに、どうやら這いつくばることすら、出来ない。
私の頭を湿らせているのは、おそらく血液なのだろう。
暑さのせいか、それとも頭を打ったせいか。何だかぼんやりとした物に感じてしまって、よく分からなかった。もしかするとこの臭いが混ざっているせいでアイスの匂いが悪くなっているのではないだろうか。
「一口、くらい……もう無理か」
つまりは、やっぱりアイスが食べたかったんじゃないかと、笑えていたなら笑っていたかもしれない。なにせ、もうどうやら笑うことも出来ないみたいだった。
車に跳ねられて、浮いた瞬間まではハッキリ覚えている。だけれど、地面に叩きつけられてからは何だか本当にフワフワとしていた。頭への強烈な衝撃、その後に届く、アイスの匂い。それを邪魔する、私の臭い。
良い意味か悪い意味か、打ち所が良かったのかもしれない。そのお蔭か痛みは不思議と感じなかった。
だからこそ、動揺を自覚しながらも変な事を考える猶予があった。ぼんやりと『浮いていたなぁ』と思っていた。空を飛んでいたと言っても良いだろう。ジャンプの比ではない。凄い体験をしたなぁ……と思い出しながら、鬱陶しい暑さが薄れて行く。
私の視界に、何かを叫んでいるおじさんが目に入る。飛び出しちゃって『ごめんなさい』と言いたかったが、口も開かない。ただどうせなら、澄み渡る青空を、ちゃんと目に焼き付けたいな、なんて考えていた。
――だってこれから私、梨木洋の魂は浮くのだから。
走馬灯にしては、短すぎるような気がした。
たった今トラックで弾き飛ばされるまでのショート動画が頭の中で流れる。
高校二年生、始まったばかりの夏休みに私は浮かれていたのだ。
暑すぎるからアイスを買いに家を出て、ついでに本屋にでも、それよりも服屋に寄ろうかだなんて、目的が喪失しかけていた放浪は、熱に浮かされていたとしか言いようがない。
実際、私は一番最初にコンビニでアイスを買っているのに、それを食べようともせずに次することを考えていた。
コンビニで買ったのだから保冷剤が入っているわけもなく、袋をぶらつかせながら買ったばかりのサンダルでムワッとしたコンクリートの上を歩く。靴屋は行かなくて良いなと思っている間にもアイスが溶けていくことに、私は気づいていなかった。
汗を拭きながら熱暑を歩く。私の頭が元々どうにかなっていなかったとするなら、やはり頭がどうにかなる程の暑さだったのだろうと思う。
熱中症対策に、お気に入りの帽子も欠かさなかった。白地にさりげないゲームロゴが入った帽子。一度も染めた事のない自慢の黒髪に、帽子の白が映えて、凄く気に入っていた。
私はハッキリ言っても、ハッキリ言われても、決して目を見張る程の美人では無いけれど、まだ未来ならあったはずだ、高校二年生程度で諦めてたまるか。
「金をかけたら女はいくらでも変われます」と、今や御年七十歳を越えている私の大好きな女性歌手が昔ラジオで言っていたのを聞いた。だからこそ、諦めてたまるかと思っていたのだけれど、それももう遅い。
――短い走馬灯が、現在に近づいていく。
努力も、未来も、新作のアイスも、ふとした事で溶けて無くなる。
「あ、アイス……っ!」
こんな状態になる、ほんの少し前の私は、買ったはいいものの、アイスを食べていないことを思い出していた。
こんな暑さなのだから、買い食いくらいは許されるだろうと取り出そうとした瞬間、パッケージの中で溶けたアイスがツルリと滑り、私の指からスポンと浮き上がった。
大きく打ち上がったそれを、このくらいなら取れるだなんて思って掴もうとした先は、車道。
「ナイスキャッ……チッッ!」
こりゃ、バッターはアウトだなぁなんて思いながらアイスを掴んだその先は、しっかりとした車道。
アイスをキャッチした私が、ボールのように飛ぶ。
車だって、突然歩道から飛び出して来られちゃ避けられない。
アウトだったのは紛れもなく私だ。
もしこの溶けたアイスのように、車に跳ねられた私がキャッチされていたとしても、その衝突の衝撃から考えたら、まぁ死ぬのが妥当だろうと思う。
それに、当たり前なのだけれど、私はキャッチされるわけもなく、車道に思い切り頭を叩きつけて、おそらくは死ぬ間際にこんな事を考えているというわけだ。
――もっと良い走馬灯、なかったかなぁ。
現実は非情だ。けれどそれは私自身に思う事ではない。
私を浮かした、つまり跳ねてしまった車の運転手のおじさんに向けて思ったことだ。
彼はこれから私のせいで、とても、とても面倒な人生になってしまうのだ。それが一番申し訳なかった。
私が死ぬのは、百万歩くらい譲って許せたとしても、まさか知らない人を巻き込んで死ぬなんて、これで私の人生は終わっても、彼の人生は、続くのに。
私はこれからの自分の家族を思ったり、まだアイスに未練を残していたり、色んな事を考えているうちに、おじさんの声も完全に聞こえなくなり、目の前が真っ白になった。
アイスクリームの匂いもない。
暑さも感じない。
死の瞬間には人生一回分の走馬灯を実体験かのようにゆっくりと見る、なんて事を聞いた事がある気がするけれど、私のそれは異常に短かった。再演でも始まるかのように、脳内が静かになる。
誰一人の声もせず、耳に届くのはサラサラと流れる泉の音と、小鳥の鳴き声。
涼やかな風が頬を撫でて、自然そのもの香りだろうと思われる心地よい匂いが鼻に届く。
アイスでも血でもない、心地良い香りを胸一杯に吸い込んで、私は幸せだったなと思った。
とはいえ、とはいえだ。この走馬灯は何か、移すものを間違えていないだろうか。
短すぎる一回目の走馬灯に対する謝罪でもされているように思えた。
――だって、コンクリートジャングルで生き続けた私の17年間に、こんな自然に満ち溢れた記憶などない。
私が寝転がっているのはコンクリートで、芝の上ではなかったはず。
「走馬灯さん、違うじゃん……」
声が出た。
「えぇ……」
指が動いた。
「この期に及んで夢……かぁ」
私はいつのまにか動く身体でその場に座り込んで、大きく息を吸い込んでから、自分の頬を思い切りビンタしてみた。
「いっった!」
とはいえ痛むのは頬だけで、実際に打ち付けていた頭の痛みが、本当にない。
頭を触っても、ドクドクと流れていただろう血の一滴も手に付かなかった。
「キミ、何してるのさ……」
不意に、頭上から声が聞こえる。私を轢いた不幸なおじさんの声では無く、若い少年のような声。
空を見上げると、羽ばたく黒い羽根が目に映った。都会では見る事も無いが、こんな森にならいるの、かもしれない、図鑑でしか見たことの無い鳥だ。
その鳥は、器用に私の肩へと軽く爪を立てて止まる。
「いや、えぇ? カサ…サギ?」
困惑しながら、肩を見ると、半身しか見えなかったが白い毛が目に入り、モフリと言うやや幸せな感触が頬を喜ばせる。実際に見るのは初めてだけれど、まさか人語を話すとは思わなかった。ただそれも夢ならば可能かもしれない。
ただ、死んだはずの私から声が出て、身体も動いて、痛みすらある現状。
一羽のカササギが、カシャカシャと笑いながら「ようこそ」なんて事を言うのは流石にやりすぎだが、これが本当に夢か走馬灯か、私の妄想なのか、今の私にはもう判断が付かなくなっていた。
カササギは七夕に天の川を繋ぐ鳥だ。鳥に詳しくなくても物語の世界が好きならば巡り合せの一節に出会う事もあるんだろうと思う。私は決して読書家ではないけれど好きな本くらいはある。
だからいつか読んだ積み重ねの中にそんな巡り合せがあったのだろう。
カササギが好奇心旺盛なのも知っていたし、調べて外見も知っていた。というよりも純粋に、好きな鳥だったのだ。黒く見えるのに光を帯びると翠や蒼に見えるその羽根が不思議で綺麗に思えた。
――それに、好きな絵の中にも、いたしね。
そう思って自分が着ていたはずの薄緑のシャツを見るとやけに質素な所謂ローブのような物に変わっていた。
なんと可愛げのない事か。ワンポイントのリボンくらいあっても良いだろうに、黄色くてダランとした。何だか、良く知っている服装。
「ようこそ、ヨウ。第7467479世界へ」
「……いや、なんて?」
肩に止まるカササギの言う事が私の妄想だとしたら凄く嫌だ。
「だから第74675……じゃないや、第74……」
「じゃなくって、この状況について、教えてほしいな?」
馬鹿なのだろうかこの鳥は、でも鳥頭とも言うし――いや、そもそも聞きたかったのはそれじゃない。意味も違う、欲しいのはそう、意思疎通だ。
「もしかして、なんだけどさ、つまりここが異世界って言ってる?」
「あぁ、そうそう。それが分かりやすいね。それにキミ、この世界好きだったでしょ?。キミのいるとこではなんて言うんだっけ、なんとかスワロー?」
それは『ワールズスワロー』の事を言っているのだろうか。
私が大好きで何度もやり込んだロールプレイングゲーム。
お気に入りの帽子のロゴも、ワールズスワローのものだった。
そう言われて見渡せば、この場所の既視感や、いつの間にか変わっている衣服にもピンと来る。
ただ、理由がわからない。正直に言うならば、まだ夢だと思っている。
「だからってなんで転生なんてしてるの……」
「キミが死んだのを上から見てたんだ。面白いなーって思って」
「わぁ、凄い悪趣味……」
カササギが喋っていること自体、わけがわからないのだけれど、まるで人間があっけらかんと笑うかのように、軽い理由で、選んだなどと言っている。
これが夢で無ければ、本当に此処が『ワールズスワロー』の世界であるならば、生きているという事だけを受け取れば、嬉しくはある。
それでも私にとって、ここはゲームの世界で、私の生きた世界じゃない。
「ちなみに、現実で生き返らせたりだとか……出来なかったの?」
「出来たよ、これでもボクは神だし」
じゃあしてくれと思いながら、ジトッとカササギを睨むと、彼は誤魔化すようにくちばしを開く。
「世界が多すぎるから面白そうな死者を転生させて手伝って貰うことにしたんだ。今の神の流行りは転生。だからほら……チート? もあげるし、頑張ってよ」
「面白そうってのやめない? 神様なのに倫理が……って痛!」
勝手に理由をまくし立てられた挙げ句、彼は私の首元を軽くくちばしで突く。その瞬間に目の前がチカチカと明るくなり、頭の中で聞き覚えのあるファンファーレが爆速で鳴り響いた。
――鳴り響く豪華なホーンセクションの、膨大な量の『パ』
「うわぁ……聞き覚えがある……」
最後に『パッパー!』と鳴り終わるまで、けたたましすぎるその『パ』というか、息継ぎが間に合わなさそうな『パ』というレベルアップの音が響いた。
数は数えていなかったけれど、どうやら能力の限界値に達するくらいには鳴っていたのだろう。
――ん? ズルくない?
「事情は分かった。分かったけれど……そもそもスワローってツバメで、貴方はカササギ、せめてツバメで出てくるのが道理じゃない?」
「必要なら姿を変えてもいいよ? でも、キミはカササギの方が好きでしょ?」
「それは、そうだけど……ってなんでもお見通し?」
そういえばこのカササギは、自称神様なのだったということを思い出す。
「うん、キミが面白いなって思ったのも、そのアイスとやらへの執着の強さだよね」
「褒めてる風に言うけれど、褒めてないし、面白いって言うのもやめてほしいんだよね」
それに、アイスは本当に食べたかったけれど、おじさんのことも本気で申し訳ないと思っていたのも本当だ。
事実、あの世界での私は死んでいるのだから、後悔は尽きない。
「ちなみに、あのアイスが美味しかったかは知ってる?」
「それは知らない。キミが食べたかったのは知っているけれど、残念だったね」
「理解してくれてありがと……この世界にアイスはないもんね」
せめてついばんで美味しかった教えてくれたっていいだろうに、冷たいカササギだ。
「じゃあ私の心は筒抜けってこと?」
「いや、人を選んだらもう分からないね……ただワールズスワロー? が好きなのは知ってる。だからこれは餞別、持ってみなよ」
私の肩から降りたカササギが、地面を突くとその場所が急に光り輝く。私は彼に促されるまま、手で土を払いのけると、妙に見慣れた剣の持ち手が眼に映った。
「うわ、オスカーじゃん……もうなんていうか、チートコードの呼び出しだよね。こんなの」
私はその剣を引き抜くと、ゲーム内の装飾ではなく、現実として初めて眼にする本物のルビーとサファイアの輝きに、ゴクリと唾を飲み込む。本当の黄金というものを見たのも、初めてだ。
ただ、すぐに自分がこんな重そうな剣を簡単に抜いてしまったことへの驚きで、感動はかき消される。
私は柄に描かれたツバメの刻印を撫でて、溜息をついた。
ゲームの名を冠しているレベルの、最強の隠し武器。それをカササギから受け取るなんてのは、ゲームの大ファンとして皮肉どころの話では無いけれど、私は言われるがままに宝剣オスカーを手に取った。
――あぁ、本当は重いのかなぁ……。
チートをこの身に受けたのだから仕方ないにせよ。ショックはショックだった。
「はぁ……キミは簡単に渡すけど、これ取る為にどれだけ……まぁいいやもう」
そこでふと気づく。
――そもそも私はこの物語の主人公ではない。この剣を持つべき人間ですらないのだ。
自分の今の服装を見て、すぐにピンと来るべきだった。
「あ、この場所って、目覚めの泉……だ。ってうわぁ……」
近くにある泉に『目覚めの泉』と言う文字が浮かんでいて、思わず引いてしまう。
私の目からだけ見えているのか、皆にも見えているのかは疑問だけれど、気にする余裕はない。
「それにほら、そろそろキミも馴染んで来たし、水面を見てご覧よ」
カササギがカシャッと笑う、変な笑い声だがこれはおそらく彼なりの善意の現れなのだろうという事は分かってきた。
「ん……? うわ、これ……」
しかし、彼の善意は全て裏返っている。
たった今、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。水面に映った顔を見て、やっと自分の声が自分のものじゃないことに気付く。私が覗き込んだ水面には、ヒロインと呼ばれていた彼女の顔があった。
――私はこんな綺麗な顔でも声でもなかったのに。
「こんなの、頼んでないよ……」
「サービスだよ? キミ、自分じゃ容姿も、あと声も気に入ってなかったよね?」
それはそうだけれども、いつかがあったじゃないか。
「それをね、余計って言うの……」
鈴を転がしたような声、見ているだけで自信が湧くような顔。
それでも、私は私のままで良かった。
「これ、直せない?」
「駄目だね、破綻する。キミは今からユーシャ様と旅に出るんだから。大好きだったろ? 彼の事」
その言葉の圧に、一瞬洗脳でもされるんじゃないかと思い身構えるが、そもそも身構えた所で洗脳に抗う術を知らなかった。だけれど彼は、私の姿形や声を変えられても精神に干渉をする気は無いらしい。
「好きだったのは私じゃなくて、この身体の持ち主。それに私はキャラクターとして好きだっただけ」
ただ、名前がデフォルトなだけ許すことにした。私がプレイヤーとして付けた主人公とヒロインの名前は、内緒だ。
「よくわかんないな。でもまぁ、魔力もたっぷりなんだからさ。魔法でも使ってみたら?」
カササギに言われるがままに何かしようとする度に溜息が増える気がする。
だけれど、こんなことに巻き込まれた以上、順応したつもりはなくても、困惑したままだとしても、半信半疑でも、今ここに私の精神がある限り、やるべきことはあるのだろう。
「……ヒノコ」
炎属性の最下級魔法。魔法を使うというイメージはわかないけれど、力がみなぎっているからか何となく出来るような気がした。ずさんな選択ではあっても、最初から覚えている魔法なら事故も何もないだろう。
――しかし、私は舐めていたのだ。それを扱う私の力を。
ポワン、と私の人差し指の先に熱を感じる。
球体になったそれを木々に燃え移らないように目覚めの泉へと放つ。
結果、爆音と共に、泉の水が高く立ち上る。同時に蒸発していき、目覚めの泉は焼け焦げた荒れ地と化した。
「やりすぎだよ! こんなんじゃチートなんていらないって!」
「でもほら、パパッとやれるからいいじゃない? 取り消しは出来ないけど、どう使うかはキミの自由だしさぁ」
「そういう問題じゃ……!」
声を荒らげた瞬間に、後ろから聞き慣れた声が届いた。その瞬間カササギは私の肩から飛び出ていく。
――そうか、私は主人公の視点しか知らない。
主人公はヒロインを目覚めの泉に迎えに行く所から始まる。
しかし、現状はもう既に『ワールズスワロー』を逸脱している。
何故、ヒロインが焼け焦げた荒れ地で豪華な剣を持っているのか。その点からもう、滅茶苦茶なのだ。というか焼け焦げて泉は跡形も無いのに宙には未だに『目覚めの泉』と出ている。馬鹿にされているのか、夢であってほしい。
私を呼ぶ声に、少しだけ心がときめいたが、キャラクターボイスの事は忘れる事にした。
それは自分についてもそうだ。ただ、陽の光を浴びて宙を舞うカササギを見ながら大きな溜息と共に私は一人悪態を付く。
「異世界転生なんて、したくなかったなぁ……でもとりあえず、目標はクリアかなぁ」
私はとりあえずユーシャに見られる前に、当時は夢にまで見ていた宝剣オスカーを、強力な魔獣がいて誰も近づかないという設定の森の奥へと思いきりぶん投げる。
そうして、なるべく温和な顔立ちをしたまま『元目覚めの泉』であるところの焼け焦げた荒れ地についての言い訳を考えていた。




