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プラントの奥から、自爆装置か、あるいは崩壊を告げる警告音が鳴り始める。

だが、二人はもう、何も恐れていなかった。

必死に生にしがみつき、手に入れたこの絆がある限り。


「……行こう、(りつ)。……外は、もうすぐ朝だ」


陸は、律の肩を借りてゆっくりと立ち上がった。

(はがね)(かせ)”は、今、完全に砕け散った。

プラントの深部から響き渡る警告音は、もはや断末魔の叫びに等しかった。


天井から火花が降り注ぎ、無機質だった白亜(はくあ)のラボは、真っ赤な炎と黒煙に呑み込まれていく。


佐藤達也(たつや)が人生のすべてを賭して築き上げた狂気の”聖域”が、今、その創造主が最も愛し、そして最も忌み嫌った”不完全な息子たち”の手によって瓦解しようとしていた。


「……ここに用はもうない」

(りく)は、吐き捨てた血を袖で拭い、律の肩に重い腕を回した。


砕けた肋骨(ろっこつ)が呼吸のたびに肺を突き刺し、意識は薄氷を踏むような危うさの中にあったが、その瞳だけはかつてないほど澄み渡っていた。

背後で鉄骨の下敷きになった天野(あまの)は、もはや動く気配はない。彼は最後まで佐藤達也という”神”の幻影に殉じ、その残骸と共に灰になる道を選んだのだ。


それは救いようのない狂気だったが、同時に、一人の男が貫き通したあまりにも歪な純愛の末路でもあった。


『……うん。行こう、おじさん』

律の瞳からは、あの不気味な赤光は完全に消え去っていた。


彼は陸の腰を支え、一歩ずつ、瓦礫の山を踏み越えていく。律の身体能力さえあれば、崩壊する建物から一人で脱出することは容易だったはずだ。


だが、彼はあえて陸の遅い歩調に合わせ、その不格好で、血生臭い”人間”の重みを一歩ごとに噛み締めていた。その手の震えは、恐怖ではなく、自分を支えてくれる存在への確かな信頼からくるものだった。


崩落する通路を駆け抜け、爆風が背中を押す。

外へと繋がる巨大な搬入口が見えたとき、最後の大爆発がプラントを根本から揺らした。


「……っ!!」


陸は咄嗟に律の体を前方へ突き飛ばし、自らは背後から迫る熱風と衝撃を全身で浴びた。

二人はそのまま、プラントの外へと広がるアスファルトの地面に転がり出した。


背後では、巨大な火柱が夜空を焦がしている。重油と薬品の混ざった黒煙が龍のように立ち昇り、それはあたかも、佐藤達也という男の執念が、天へと最後の呪いを吐き出しているかのようだった。


陸は冷たい地面に仰向けに倒れたまま、荒い呼吸を繰り返した。

喉が焼け、全身が泥と血にまみれている。

しかし、肺に流れ込んでくるのは、鼻を突く煙の混じった、けれど紛れもない”外”の空気だった。


「……律、……生きてるか?」

『……生きてるよ。……おじさんこそ、……しぶとすぎるよ。ほんと、死んじゃうかと思ったじゃん』


隣に這いつくばった律が、煤だらけの顔で笑った。

その笑顔は、かつて整形で作られた”長谷川律”の完璧な微笑みよりも、ずっと歪で、ずっと脆く、そしてこの世の何よりも美しいものだった。


二人はふらつきながら立ち上がり、燃え盛るプラントを背にして歩き出した。

そこは、臨海工業地帯の果て。眼下には、夜明け前の暗い海が広がっている。

激しい爆発音が遠ざかり、代わりに波の音がすべてを洗い流すように優しく響き始めていた。


『……おじさん。俺ね、今ならわかる気がするんだ』


律が、水平線の向こう側をじっと見つめながら、独り言のように呟いた。


『……お父さんは、佐藤達也は、俺を”完璧”にするために、感情という不純物を排除しようとした。

愛とか、痛みとか、迷いとか、そういうのは全部”バグ”だって言ってた。

……でも、本当に俺を人間にしたのは、……おじさんがくれた、その不純物だらけの……不器用で、面倒くさくて、あったかい生活だったんだ。……おにぎりが変な味だったことも、掃除をサボって怒られたことも、……全部、俺にとっては”最高傑作の一部”だった』

陸は無言で、律の頭を撫でた。


煤で汚れた青年の髪は、朝露に濡れて冷たかったが、その内側にある命の火は、どんなプログラムよりも強く、確かに脈動していた。


やがて、水平線の端が微かに白み始めた。

群青色の空がゆっくりと、薄紫色、そして鮮やかな黄金色へとグラデーションを描いていく。

朝焼けの光が、二人の傷だらけの顔を容赦なく照らし出した。


この光の下では、彼らはもはや「元刑事」でも『最高傑作』でもない。

戸籍も、名前も、帰る場所も、すべてを炎の中に置いてきた。

これから先、彼らを待っているのは、決して楽な道ではないだろう。


警察の追及は一生止まず、世間からは凶悪なテロリストとして記録される。

社会の片隅で、常に怯えながら生き、明日をも知れぬ逃亡生活がまた始まるのだ。

それでも。


「……律。……名前を、決めなきゃな」

陸が、光の方を見つめたまま、静かに、けれど決然と言った。

「……長谷川(はせがわ)、でも……天野、でも……佐藤でもない。……君が、君として生きていくための、新しい名前だ。……誰の影でもない、お前だけの名前を、今ここで」


律は少しの間考え、波の音を聴きながら、今までで一番晴れやかな、等身大の青年の声で答えた。


『……名前なんて、今はまだいらないよ。……おじさんが、俺を呼んでくれるその声が、……おじさんと俺を繋ぐその響きが、……俺の名前でいい。……いつか、本当に普通の人間になれたときに、一緒に考えようよ』


陸は、わずかに目を細めた。


「……そうか。……なら、行こう。……私たちの、新しい一日だ」


陸は、律の肩を力強く叩いた。

二人は、朝焼けに染まる海沿いの道を、ゆっくりと歩き出した。

背後で燃え尽き、崩壊していく過去の遺物には、一度も振り返ることなく。


一歩、また一歩。

その足跡は、泥だらけで不恰好だったが、紛れもなく自分の意志で地面を強く踏み締めていた。

どんな形になってでも追いかけてきた”枷”は、今はもう跡形もなく溶け去り、そこにはただ、自由という名の、広大で残酷な世界が広がっていた。


二人の呼吸が、朝の冷たい空気の中で白く重なり、風に溶けて消えていく。

それは、世界で一番静かな、しかし何よりも力強い、新しい人間の産声だった。


物語は、ここですべての”(かせ)”を脱ぎ捨て、真実の夜明けを迎える。

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