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肺が焼けるような痛みに、(りく)は意識を浮上させた。


視界を埋めるのは、錆びついた鉄骨と、隙間だらけのスレート屋根から差し込む、あまりにも白い朝の光だ。


「……っ、が……はっ、げほっ……!」

胃から逆流した海水を吐き出し、陸は激しく咽せ返った。体感温度は氷点下に近い。全身の筋肉が小刻みに震え、指先一つ動かすのにも、岩を持ち上げるような労力を要した。


『……おじさん、生きてる?』

すぐ側で、掠れた声がした。

(りつ)だ。


律は、工場の床に転がっていた汚れたパレットの上に横たわっていた。ずぶ濡れのシャツは肌に張り付き、透き通るような肌は血の気を失って真っ白だ。だが、その瞳だけは、昨夜の爆発の余韻を宿したまま、熱っぽく陸を見つめていた。


「……ああ。……ひどい味だったな、冬の海は。

……一生分は飲んだ」

陸は、這いずるようにして律の側へ寄り、工場の隅で見つけた古い救急箱を引き寄せた。


ここは、かつて佐藤達也が”実験の検体”を秘密裏に運ばせ、一時的に保管していたという海沿いの廃工場だ。今は誰も使っていない廃墟だが、その”誰も来ない”という事実こそが、今の二人にとっては唯一の聖域だった。


陸は震える手で、律の濡れたシャツのボタンを一つずつ外していく。

「……もう一回脱いでくれ。……低体温症で死ぬぞ。……今さら、海の藻屑になるのは御免だ」


律は今度は、拒まなかった。自分を解剖しようとした父の手とも、自分を捕らえようとした警察の手錠とも違う、陸の”不器用な震え”を、彼は全身で受け止めていた。


露わになった律の体には、昨夜の爆発による小さな火傷の跡と、そして何より、佐藤達也が刻んだ”傑作の証明”である無数の手術痕が、朝光の下で醜く浮き彫りになっていた。


『……おじさん。……気持ち悪いだろ、俺の体』

「……気持ち悪いなんて思わない。

ただ……君がここまで生きてきた証だと思っただけだ」


陸は、工場の片隅にあった古い梱包用の毛布を幾重にも重ね、律を包み込んだ。そして自分もシャツを脱ぎ捨て、その毛布の中へと滑り込む。


世界から死んだことにされた二人の、剥き出しの肌が触れ合う。

極限の寒さの中で、互いの体温だけが、自分たちがまだ”肉体”を持ってこの世に存在していることを証明していた。


陸は、律の細い右手を、自分の左手で包み込んだ。


そこには、昨夜まで自分たちを繋いでいた”手錠”の跡が、赤い筋となって深く刻まれている。鎖はもうない。物理的な拘束は、あの爆発と共に灰となった。

しかし、陸は自分の指を、その赤い跡に重ねずにはいられなかった。


『……もう、繋がなくても、逃げないよ』

律が、毛布の中から顔を出し、微かに微笑んだ。

それは、父親の前で見せていた”怪物”の笑みではなく、どこか弱々しく、縋るような青年の顔だった。


「……いや。……習慣というのは、恐ろしいものだな。……君の手首の感触がないと、どうにも落ち着かない」

陸は自嘲気味に笑ったが、その指先は、律の指と深く、絡み合うように結ばれていた。


外の世界では今頃、ニュースキャスターが神妙な顔で”指名手配犯死亡”を読み上げているだろう。天野陸の家には警察の同僚たちが弔問に訪れ、律という”事件”は解決済みとして書類に閉じられるだろう。


名誉も、正義も、過去も。すべてを失った。

だが、この湿った空気と油の匂いが混じり合う廃工場の中で、陸はかつてないほどの充足感を感じていた。


「……律くん。……僕たちは、亡霊になったんだ」

『……うん。……おじさんがいるなら、亡霊でも……怖くないよ』


二人は、朝の光が工場の奥まで届くのを待たず、互いの鼓動を唯一の灯火として、深い眠りへと落ちていった。

それは、死者が眠るような静寂ではなく、新しい命が胎内で脈打つような、重苦しくも温かい眠りだった。


七日目の夜。アパートの窓を、激しい雨が叩いていた。

明日には、この街を去らなければならない。警察の捜査網が再び動き出す前に、より深い闇へと潜る必要がある。


布団の中で、律が小さな声で、けれど明瞭な意志を込めて言った。

『……おじさん。……俺ね、学校に行ってみたかった』


陸は、暗闇の中で目を見開いた。

律が初めて口にした、子供らしいわがまま。


『……お父さんが「学校なんて、無能な凡人たちが、平均という鎖で互いを縛り合うための養育施設だ」って言ってたんだ。……でも、俺、テレビで見たんだ。みんなと同じカバンを持って、同じ服を着て、帰り道にどうでもいいことで笑いながら、アイスとか食べて……』

律の細い指が、陸のシャツの裾をギュッと掴む。

『……そんなの、俺には一生無理だって分かってる。……俺は佐藤達也の『最高傑作』で、世界中から死んだと思われてる殺人犯なんだから。……でも、一回だけでいいから、その”平均”の中に入ってみたかった』


陸は、込み上げてくる感情で、胸が締め付けられるのを感じた。

この青年は、人を殺す技術を叩き込まれ、痛覚を麻痺させられ、感情を奪われてきた。それでも、その心の奥底には、そんな”凡庸な幸せ”への、痛々しいほどの憧れが眠っていたのだ。


「……行けるよ。……律くん。……私が、必ず行かせてやる」

『……無理だよ。……もう名前も、戸籍もないんだよ?』


陸は一瞬だけ、言葉を飲み込んだ。

だが、その迷いすら律の指先の震えが押し流した。

陸は、律の体を強く抱き寄せた。

手錠があった時よりも、もっと深く。もっと、逃がさないという執念を込めて。


「……私が、君を作るんだ。……佐藤達也が君を壊したなら、私が君を、新しい一人の人間として再構築してやる」


陸は律の耳元で、誓うように囁いた。


「……私の名前も、過去も、捨てた正義の欠片も、すべて君にやる。……君を、この世で一番”普通”の青年にしてやる。……君が学校の門をくぐる時、私は君の”父親”として、そこに立とう」

『……おじさんが、俺の、お父さんに……?』

「……そうだ。……佐藤達也のような怪物じゃない。……君のわがままに振り回され、君の成績に悩み、君の将来を案じる……どこにでもいる、退屈でバカな父親だ。……それが、私たちが選んだ”死”という自由の、正当な対価だ」


律の瞳から、大粒の涙が零れ落ち、陸の首筋を濡らした。

それは、これまでの絶望の涙ではなかった。

自分という存在を肯定され、新しい定義を与えられた青年の、産声のような涙だった。


『……約束、だよ。……おじさん。……嘘ついたら、その時は……俺、本当におじさんを解剖しちゃうからね』

「……ああ。……約束だ。……その時は、私の心臓の一番奥を覗いてみるといい。……君の名前しか書いてないはずだ」

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