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律の放った言葉は、冷たい氷の礫となってセーフハウスの空気を凍らせた。
陸は、伸ばしかけた手を空中で止めたまま、衝撃に目を見開く。彼にとって、真実を伝えることは、律を呪縛から解き放つための、唯一にして最大の”善行”のはずだった。
「律くん……。君は今、混乱しているんだ。無理もない、あんな父親に人生を……」
『混乱なんてしてない。……むしろ、やっと目が覚めたよ』
律は椅子から立ち上がり、陸の”真っ直ぐすぎる瞳”を真っ向から見据えた。
陸の瞳には、哀れみと正義が宿っている。それはあまりにも健康的で、美しく、一点の曇りもない。
(……ああ、やっぱり。吐き気がするほど似てる)
律の脳裏に、かつて自分を”教育”した父の笑顔が重なる。
あいつもまた、自分は正しいと信じて疑わなかった。律を傷つけることも、トラウマを植え付けることも、すべては”愛する我が子を守るため”という、彼なりの完結した正義の結果だった。
『あんたのその”正しい優しさ”は、あいつの”正しい笑顔”と同じだ。
……自分の価値観を俺に押し付けて、俺をあんたの思う通りの”形”に作り替えようとしてる。
……救いたい? 笑わせるな。あんたは、自分に縋って泣きつく可哀想なガキが欲しいだけだろ』
「そんなつもりは……!」
『つもりがないなら、余計にタチが悪いんだよ』
律は一歩、陸に歩み寄った。
陸は思わず身を引く。目の前の青年が放つ気配は、
もはや”被害者”のそれではない。
自分を縛り付けようとするあらゆる”光”を切り裂こうとする、剥き出しの刃だ。
『あいつは、ウサギを使って俺を支配しようとした。実際に成功してはいた。今のあんたは、真実を使って俺を支配しようとしてる。
……俺にとっては、どっちも同じ檻だ』
律は、テーブルの上に置かれた陸の警察バッジを冷ややかに見下ろした。
『あんたの正義に救われたら、俺は一生、あんたに感謝して、あんたの影に隠れて生きていくことになる。……それは、あいつの人形に戻るのと何が違うんだ?』
「……」
陸は、何も言い返せなかった。
正義とは、常に正しいものだと思っていた。
だが今、目の前の青年にとって、自分の掲げる正義は”自分という人間を定義し、自由を奪う暴力”として機能している。
その矛盾に、陸の誇り高き精神が初めて大きく揺らいだ。
『……出て行け。そして、二度と、俺を”理解した”なんて口にするな』
律はそう告げると、背を向けて窓の外の闇を見つめた。
陸は、握りしめていた拳をゆっくりと開き、力なく垂らした。
かつて律を救ったのは、父という名の怪物だった。
そして今、律を追い詰めているのは、陸という名の聖者だった。
背後で、重いドアが閉まる音がした。
静寂が戻った部屋の中で、律は震える左腕を強く抱え込んだ。
父親の遺した”ウサギ”は、今もどこかで笑っている。誰の助けも借りずにその耳を、顔を、切り落とすまで、律はもう二度と、”佐藤律”に戻らないと決めていた。
光の下は生まれた時から似合わない。これぐらいが丁度いい。




