19 隊商2
川を下っていくレオン達
朝日の出と共に目が覚める。焚き火はすっかり鎮火し、回りに干してあった下着といくつかの上着、そして剣はすっかり乾いていた。
マルコ、アフマド、サイメルティはまだイビキを掻いて寝ている。ボルダナティを探すと、彼女はすでに隊員達の指揮を執っていた。ボルダナティに近づいていく。
「あっ、おはようレオン」
「早いな」
「氷を溶かすのは最小限に留めたいからね」
ボルダナティは氷を一つずつ指でなぞって確認していく。指に青い色が付かないものは再凍結、そうでないものは上に溜まった水を一度払い落として、日向に移動させる。
割れた氷は青い色がつかない場合は結合させて再凍結。そうでないものはやはり同じように一度溜まった水を払い落とす。細かく割れすぎたものは上辺に剣で窪みを作ってそのまま筏の上に置いておく。
「この細かく割れたのはどうするんだ?」
「これは売り物にならないから自分達で使う水にするんだ。今回は幸い一個しかない」
ボルダナティは的確に指示を出して隊商を纏め上げていく。普段の能天気なボルダナティからは想像がつかない。
「ふあぁぁ~早いな」
振り返ると寝惚け眼をこすっているアフマドとサイメルティ。
細かく割れた氷の上に作られた窪みの中に少しだけ溜まっている水で口をゆすぎ、糸を使って歯の掃除をする。
アフマドは木の枝の先を切った物を使って歯を掃除する。あれ、なんで歯の掃除をしているんだ?確かアフマドはいつも食後にやっていたはず。
「おいアフマド、いつ飯を食ったんだ」
「ん……ああ、悪い。昨日の夜何も食べていなかったもんだから、さっき起きてすぐに食べてしまった。今マルコが食べている。レオンの分もちゃんとあるぞ」
私は寝床に戻る。マルコが焚き火を起こして料理しているのが見えた。マルコは干し肉とアルパ族の里でペヨータが作ってくれたバンミーという名前の穀物をもしゃもしゃ食べていた。
「マルコそれどうしたんだ?」
「実は一昨日の夜ノーザライに届けてもらったんだ。なんせここから砂漠を越えるまではロクな飯がねえからな。ラチェの集落に寄りたいけど川の傍じゃないからな」
「お前いつの間にそんな自由な取引が出来るようになったんだ?」
「俺はヴェネツィア人だぜ?舐めてもらっちゃ困るな」
マルコは戦闘では頼りないが、こういった生活に関する事や取引関係ではとても頼りになる。悔しいがこの男の才に私は遠く及ばない。
「レオンも食えよ。うまいぞ」
「ありがとう。ところでこれは何の肉だ?」
「ノーザライの説明を聞く限り、羊だな。アフマドでも食えるように考えたんだぜ」
この男はずる賢い面もあるが根は優しいのだ。私はあの砂漠での誓いを思い出しながら夢中になってこのご馳走を食べた。
食事を終えてサイメルティの水筒を焚き火の中に入れ、黒い液体を飲む。腹が一杯になってきたところで、アフマドとサイメルティが戻って来た。ボルダナティはまだ再凍結の作業をしている。
「レオン、久しぶりにあれをやるか。久しくやっていなかったな」
アフマドは剣を取り出す。たしかにここ十八日ほど鍛錬を怠っていた。私も剣を取り出してアフマドと同じ動きをする。
まずは両手で柄の端を持って立ったりしゃがんだりをゆっくりと繰り返す。そこにサイメルティが寄ってきた。
「アフマド、何だそれは」
「見ればわかるだろ?鍛錬だよ」
「そうか、では私も真似しよう。お前の強さの秘密に近づきたい」
サイメルティは短い剣を持って同じ動きをするが、その剣では軽すぎる。それを見かねたのか、アフマドは隊員達の所に行って細い丸太を持ってきて、自分の剣をサイメルティに渡した。アフマドは丸太を担いで鍛錬を開始する。
「アフマド、この剣は随分と重いな」
「それは馬に乗って使うものだからな。細かい動きよりも相手を突き飛ばすのに特化している。斬るというよりは相手を殴るようなものだ」
「そうか、お前達はあの馬という生き物に乗って戦うのか」
そう言うサイメルティはすでにゼーゼーと息を切らしている。あの体格にあの剣は重過ぎる。次の片手ずつ剣を振り回す動作で剣が手からすっぽ抜けて地面に突き刺さった。
「おいおい無理するな。出来る事から少しずつやっていこう」
悔しがるサイメルティを座らせて休ませ、私との鍛錬を再開するアフマド。それにしてもあの丸太は剣の倍以上の重さがあるだろうに、軽々と振り回している。恐ろしい力だ。
「あっ!レオン、そろそろ出発するよ」
ボルダナティに声を掛けられ、筏に乗り込む。今度は氷の上ではなく、氷が乗った筏の空いた空間に毛皮を敷いて寝そべる。ボルダナティは先頭の筏に乗り、水面を見ながら隊員達に細い丸太を使って浅瀬を避けるように指示している。隊長はなかなかしんどい仕事だ。
私達は二番目の筏の氷の後ろに乗る。上から照りつける太陽に対して、氷から漏れてくる冷気が気持ちいい。
だがサイメルティは寒そうに震えている。アフマドが自分の上着を一枚掛けてやると嬉しそうな顔を見せる。私達はそのまま朝の鍛錬の疲労を感じて眠ってしまった。
ふと辺りが騒がしくなって目が覚める。起き上がるとそこにはよく見た姿があった。
「レオン、何してるんだ」
そこにはラコタとワグルが居て、毛織物を大量に広げていた。
「ん……なんだ久しぶりだな。そっちこそ何をしている」
「見ればわかるだろう。商売だよ」
傍らではボルダナティがブツブツ言いながら木の皮にクニークル数字を書いて計算している。
「うーん、委託販売と買取でどっちが利益が出るか……」
ボルダナティの隣にはマルコも居て、一緒に計算をしていた。
「ボルダナティ、需要が見込めるなら買い込んだほうががいいぜ。見込めないなら在庫がダブつく心配のない委託販売のほうがいい」
「でも委託販売の利潤が少なすぎるよ。もっとこっちの取り分を増やしてよ」
ボルダナティの懇願に、冷たい反応のオウィス族。
「その割合以上は無理だ。こっちも生活があるからな」
その時マルコがボルダナティに耳打ちする。ボルダナティはウンウンと頷くと、
「全部買い取るから二割負けてよ」
と、言った。この提案にオウィス族は乗った。
こうして金貨を支払い、隊商は毛織物を筏に乗せて再出発した。私達はラコタとワグルに手を振って、また会う事を誓った。ボルダナティが先頭の筏に移動し、私達は元の位置に戻った。私はマルコが何を言ったのかが気になった。
「マルコお前、ボルダナティに何を言ったんだ?」
「ケルウス族の話をした。反乱分子の話もな。彼らの住居は天幕だ。内乱が起きたら天幕は燃やされたりするだろ?補修が必要になるよな?そうしたらこの毛織物は飛ぶように売れるはずだ。今のうちから密かに売っておいてもいい」
「天幕を毛織物で?どうやって?」
「一度湿らせてから、熱と圧力を加えるんだ。そうすると雨風も凌ぐし、強い布になる。基本的に遊牧民の天幕はみんなそういう素材だぜ」
マルコはさすがのしたたかさを見せる。商材に対する造詣も深い。この男に掛かればなんでも商材になってしまうのではないだろうか。
ラコタとワグルに別れを告げて、隊商は出発する。日はすっかり上のほうに来て、だんだん腹が減ってきた。筏は水の流れに乗って徒歩の数倍の速さで草原地帯を駆け下りていく。
日が一番高くなったあたりでボルダナティが全員に指示を出し、筏の上で交替しながら食事を取る。ボルダナティは私達の所までやって来て、寝ているサイメルティを起こす。
「サイメルティ、先頭の指示を頼んでいいかな。お腹が空いた」
「ん……ああ」
サイメルティはゆっくりと起き上がる。火打ち金で火を起こそうとしているアフマドの肩を叩く。
「アフマド、お前の力を見込んで頼みがある。先頭で私と一緒に筏の操作をしてくれないか?丸太は私には重過ぎる」
「えっ?俺今から飯……」
アフマドの言葉を遮ったのはマルコ。
「アフマド、お前の分は作っておいてやるから手伝ってやれ」
「いやでも」
「この飯は俺が持ってきたんだぞ。文句を言うなら食わせないからな!」
ここ最近のマルコは妙な所で凄みを発揮する。アフマドもマルコの剣幕に負けて、すごすごとサイメルティに従ってに先頭の筏に乗り移って行った。
「私も手伝おう」
立ち上がろうとするとマルコにガッと腕を摑まれる。
「レオン、ここでゆっくり飯を食え」
「何でだ?」
「今食わないなら、あげないぞ」
マルコの剣幕に私も引き下がった。一体何が勘に触ったのだろうか。
筏の上の小さな焚き火でマルコの持ってきた食材を調理する。焚き火を焚いているのはこの筏だけだ。他の筏は皆持ってきた例の水草をモシャモシャと食べている。ボルダナティも同じだ。
食事を終えてから例の水筒を焚き火で暖め、黒い液体を飲む。なんだか高揚してきて気分がいい。
「ボルダナティ、その食事はどれくらい持つんだ?腐らないのか?」
「この生のやつは持って三日かなあ。暑いと一日」
「それより後はどうするんだ?」
「これを食べるんだよ」
そう言ってボルダナティが見せてきたのはあの水草と何か別のものを配合して乾燥させて圧縮して固めた四角形のものだった。手のひらくらいの大きさに収まっている。これはただ乾燥させただけではない。青い草の香りがそのまま残っている。
「これはどれくらい持つんだ?」
「四ヶ月くらいだよ」
こっちの四ヶ月はユリウス暦で半年ちょっと。これだけ持つのなら遠征時に兵糧の心配をあまりしないで済む。
普通の軍が自力で持っていけるのはせいぜい三日分、だがこの小さく携帯に便利なように加工された食事なら少なくとも二週間分くらいは自力で持っていけるのではないだろうか。
この特性を軍事利用しなかったはずがない。いやむしろこの部族がこの世界の統治者だったのではなかろうか。戦闘に特化しすぎている。私達がクニークル語と呼んでいる言語も本当はカペル族の言語で、過去には統一国家を作っていたのではないだろうか。
そうなると金貨の統一も、言語の統一も納得がいく。だがそれを考えるとその統一国家が何故崩壊したのかという疑問も残る。
また現在カペル族は貨幣鋳造の技術を持っていない。一体何がどうなってこんな世界になったのだろうか。
前の二人を見ると共同作業で細い丸太を操っている。川底は所々非常に浅い。私達が通って来た所を振り返ると雲が掛かっている。おそらく私達を苦しめたあの霧雨が降っているのであろう。ボルダナティは雲を見て言う。
「運がいいなあ。雨が後ろで降っている」
「雨が降るとキツいのか?」
「雨は氷を削るからね。雨が降ってきたら皆でずっと凍結を保ってなきゃいけない」
「そうか、それは大変だな。あの力はどれくらい連続で使えるんだ?」
「人によって違うよ。私は三日間くらい連続で使える。だから隊長に抜擢された。威力は弱いけどね」
「サイメルティは?」
私は先頭でアフマドと一緒に丸太を持っているサイメルティを指さす。
「普通だと思う。普通は一回ごとに少し休憩が要る。連続して使うと疲れちゃう。疲れるとどんどん威力も落ちていくし、休憩も多く必要になる。疲れきった状態だともう力は出せない。だいたい十回も使ったらもう寝ないと回復しない」
「私達が短い距離を全力で走ったりするようなものか。だんだん遅くなるし、疲れきるともう走れない」
「そうだね。やっぱりレオンは頭がいいなあ」
「速くは走れないが、長い時間走れるのがボルダナティの類か」
「うんうん!そうなんだよ。で、そういう人が隊商の構成員になるんだ」
私はそれぞれの筏に乗って思い思いにくつろいでいる隊員達を見る。彼らは彼らで選ばれし精鋭なのだ。そしてその長であるのはボルダナティ。ボルダナティが少し遠い存在に思えてしまった。
「なんだか凄いな。ボルダナティは」
「そっ、そうかな……」
ボルダナティは照れ笑いする。私は考え事をしたくなって立ち上がった。
「どこ行くの?レオン」
「ちょっと一人になりたい」
「どうしたの?」
オロオロと心配してくれるボルダナティをマルコが止める。
「愛しのレオンが気になるのはわかるが、放っておいてやれ。レオンは考え事が好きなんだ」
「もう、そんなんじゃないよ!」
ボルダナティが声を張り上げる。
私は筏の前方に移動して座り込んだ。私は自分がちっぽけな存在に思えてきてしまった。今ここに居る面子、アフマドはこの世界の住人達を圧倒するだけの武の才があり、マルコには彼らを出し抜く突出した商才がある。
サイメルティはカペル族の戦闘員として超一流だし、ボルダナティは隊商要員として超一流、この隊員達もそれぞれが精鋭。それに比べて私は何もかもが中途半端。あるのは帝国軍人だったという肩書きだけだ。そんなものはここでは何の役にも立たない。
私はここでは自分が何者でもない。では帰ったら私は何者かになれるのか?いやそういう問題ではない。今ここでこうやって生きている以上、ここが現実で元居た世界こそが幻想だ。
では元居た世界で私のように自分が何者でもないと気付いてしまった人々はどうやって人生を過ごしていくのだろうか。悟った人から、次の世代に夢を託そうと家庭を作るのであろうか。そしてこの世界で自分が何者でもないと気付いた住民達は……
立ち上がって前方を見る。氷の前でアフマドとサイメルティが丸太を操っているのが見える。家庭か……。半獣と私達。異なる生物で家庭を作る事は可能なのか?
生殖が本能に基づいているのなら、異なる生物同士が惹かれあう事はない。反対に言えば惹かれあうならそれが可能だと言う事だろう。前の二人はもしそれが可能なら実にお似合いの組み合わせだ。ん……?
私はこれまでのサイメルティの行動を思い出した。アフマドに負けた後に放った言葉、『心がおかしくなった』とは何を意味していたのか。
ジャルブ族の里に行った時私達の意見はまるで無視したのにアフマドの意見だけは聞いた。ケルウス族の反乱軍の時も。昨日の簡易浴場の時だってアフマドと一緒に風呂に入っていた。自分で配偶者以外には肌を晒さない主義だと言っていた癖に。
私は筏の後方に戻って寝転がっていたマルコに話しかける。
「マルコ」
「何だ?」
「ひょっとして、ひょっとしてだがサイメルティはアフマドに惚れているのか?」
「あ?今頃気付いたの?」
マルコはあっさりと答える。
「確信は持てないが……」
「俺はすぐにわかったぜ。俺達が逃げようとしてアフマドがあいつを倒した次の日からもうサイメルティはアフマドばかり見ていた。常に隣に座ろうとしていたしな。俺達がアルパ族と一緒に火の民を見に行った時、サイメルティが変な理由つけてアフマドと一緒に籠に乗りたがったろう?あれでもう確信したね」
マルコは鋭い。いや、私が鈍すぎるのか。だがしかし惚れるという事は本能で家庭が作れるつまり生殖が出来ると認識しているからだろうか。或いはただの錯覚なのか。
「マルコ、この世界の住人達に惚れた事はあるか?」
「ははっ、何馬鹿な事言ってんだよ」
マルコは空を見上げたままそう答えた。マルコがそう言うように私もそのような感情は起こる気がしない。
するとこの恋はただの一方通行で終わるのか。それもなんだかまた悲しい話だが、本能なのだから仕方がない。サイメルティは錯覚を起こしているだけなのだ。
「レオン、おかえり。何を話してたの?」
後方の筏で隊員達と何かを話していたボルダナティが戻ってきた。マルコがよく彼女をからかうが、もし彼女の想いが本当だったとしてもそれは錯覚なのだ。
私達は違う生物、悲しいがこれが現実だ。私達の心が動かない以上、私達は本能としてこの世界の住人とは生殖が出来ないと無意識のうちに確信しているのだ。
「食べ物の話だよ」
私はボルダナティに嘘をついてはぐらかした。ボルダナティは何の疑いもせず、後ろから連れて来た隊員と一緒に先頭に行ってアフマド達と交替した。
アフマドとサイメルティは私達の元に戻ってきて寝そべった。そのうちアフマドは寝てしまったが、サイメルティはその横でアフマドの寝顔をずっと見ていた。私はなんだか居た堪れなくなって筏の前方に移動した。
上流で雨が降ったせいか、川は増水し筏はより速く草原を下っていく。日がすっかり傾いたところで遥か前方にあの湿原が広がった。
ボルダナティは全体を止めて杭を打って筏を係留する。そしてその場所で野営をする準備を始めた。ここまで下ってくるとさすがに少し暑いのか、カペル族はいつものような厚着ではなく薄手の服を一枚羽織っているだけになる。
前にサイメルティがこの湿原付近がカペル族の出自だと言っていたが……私はサイメルティを見る。
眠りこけたアフマドの脇で自身も横向きに寝ている。手はアフマドが寝ている敷物を掴んでいた。なんだか起こすのが忍びなくて、二人ともそのままにしておいた。
寝床を用意して焚き火を起こすマルコの元へ行き、今日は浴場をどうするか尋ねる。ボルダナティが入りたがったので私は土を掘った。ここの土は固くて掘るのに苦労したが、その分お湯の透明度が高い良い風呂が出来上がった。
昨日と同じようにマルコが最初に入り、続いて私が入っているとボルダナティが下着姿で駆け寄ってきてザブンと入ってきた。
「おいっ!一人ずつだぞ!」
「ええー、いいじゃない別に」
「全くしょうがないな」
ボルダナティは今日は中で下着を脱がなかった。透明度が高くて色々見えてしまうからだろう。カペル族の羞恥心の線引きがやっと出来た気がする。例え好意を持っている相手でもやっぱり下着以上は駄目なのだ。
風呂から上がり、大きな布で身体を拭いてから食事の準備に取り掛かる。マルコのもって来た食料はまだまだ沢山ある。干し肉を氷を溶かして作ったお湯で戻してから焼いていると、アフマドが起きてきて寝惚けながら風呂に入った。サイメルティはまだ寝ている。
アフマドが上がろうとした時にサイメルティが起きてきて慌ててアフマドの元に駆け寄って来てこう言った。
「アフマド、随分と身体が汚れているな。私が洗ってやろう」
いつもの含み笑いでそう言うが、彼女の気持ちを知ってしまった今となっては彼女の焦りが透けて見えてしまう。
サイメルティはアフマドと少しでも一緒に居たくて仕方が無いのだ。誰かに取られるわけでもあるまいし、いつもの冷静さはどこへ行ってしまったのか。
アフマドは遠慮していたがサイメルティの押しに負けて、湯桶の外で身体を洗われていた。献身的なその様は普段の彼女からは想像が付かない。人間だろうと半獣だろうと、想いは同じなのか。
私達は邪魔にならないように見えない位置に移動して食事を食べた。ボルダナティは未だに察していない様子だったので、私が無理矢理座らせて食事を取らせ、無理矢理寝床に放り込んだ。
寝床から見える満天の星の下、サイメルティとアフマドの話し声が小さく聞こえる。私はそのまま眠りに就いた。
朝になって昨日と同じように三人で鍛錬をして食事を取る。食事が終わったのを見計らってボルダナティが皆に号令を掛けて隊商は出発する。
これから通り過ぎる湿原は隊商にとって最大の難関らしい。川の主流がどこにあるかをきちんと読めないと支流に行ってしまう。その支流は湿原の途中で沼となって消えている。
時間が無駄になるだけならいいほうで、最悪の場合迷って帰れなくなるそうだ。氷や商品を全部破棄する事になった事もあるようだ。
草原から湿原に差し掛かったらボルダナティは真剣な眼差しで広い湿原を見渡し、横に数名居る隊員に号令を掛ける。最初の分岐点は右に進路を取った。先頭の筏に四人の隊員が乗り、残りは後ろという今までと違った編成だった。
その理由はすぐにわかった。細い丸太で進路を変えようとしても、底が泥だから丸太がめり込んでいくだけなのだ。そこで隊員のうち一人が進路じゃないほうの水の表面を凍結させ、それを丸太で押して進路を変える。
この沼地での筏の制御は非常に精細を要し、勢いが付きすぎてしまうと反対方向に大きく曲がってしまう。そんな時は反対方向の水の表面を凍結させ、これをまた丸太で押す。
「レオン、前に私達がここに住んでいたという仮説を話した事があるな?」
サイメルティが話しかけて来る。
「ああ、たしかその力もそのためだと」
「どうやって使っていたか、その仮説を今見せてやろう」
サイメルティは筏を降りて乾燥してひび割れた泥地帯を歩いていく。左の支流の方の水があるところまで行くと手を表面にかざし、一気に凍らせた。見渡す限りの水面がすべて凍った。
「レオン、見えるか!」
「見えるぞ!」
サイメルティは氷の上を歩いていく。時に跳びながら、時に走りながら自由自在に動いて戻って来た。
靴に付いた氷を筏の上で払い落とす。靴の底に付いている蹄鉄はギザギザしていて氷上でも滑らないように出来ている。私は確認のためボルダナティの脚を掴んで靴の裏の蹄鉄を見た。同じようにギザギザの金具が付いていて、最初に私がボルダナティと会った時見たものとは違う。
「これは隊商用の靴だよ。氷を扱う事が多いからね。滑らないように。でも普段これ履いてると疲れるんだ」
道理であの滝を三角跳びでヒョイヒョイと下れたはずである。
「見てわかったろう?レオン。私達のこの力はこの湿原をうまく移動するためにもたらされたものだと私は考えている。それから水を凍らせて囲いを造り、中の泥を洗い流したり乾燥させたりして農地を作ったりもしていたと考えられる」
「なるほどな。それぞれの力には理由があるのか。だが一体どうやってそれを身につけたんだ?自然発生的に生まれる力ではないな。やはり創造主的な何かが……」
「火の民のあれは一体何のためだ?」
アフマドが横から入ってくる。
「わからないが、元々は戦闘用ではなかったと思われる。身体が弱いのが関係していると思う。でも因果関係がわからない」
「サイメルティ、前に話した細菌と暑さ寒さの話を覚えているか?」
「覚えているぞ」
「俺の予測では……」
アフマドがサイメルティと話し込み始めたので私はその場から離れて後ろのマルコの所へ向かった。例え錯覚だとしても、無駄になるとわかっていても、サイメルティの恋は応援してやりたい。違う種族だが私達には確かに情があって互いを労わっている。
マルコは氷に張り付いて寝そべっていた。上半身裸で靴も投げ出し、見るからに気だるそうな雰囲気を醸し出している。
「あっち~なここは」
「確かに暑い」
日差しは容赦なく私達と氷を照りつける。氷を溶かさないように隊員達が忙しなく小まめに氷を再凍結させて回っている。先頭のボルダナティと四人の隊員も進路の見極めに集中している。アフマドと話し込んでいるサイメルティを見てマルコが言う。
「あーあー、回りくどいなサイメルティは。いつもは男みたいなのにこんな時だけ乙女だぜ」
「じゃあ男らしく押し倒せとでも言うのか?」
「ああ、それがいいんじゃね?駄目なら諦める」
「いや、駄目だろう。だってお前だったら……」
そこまで言って私は話すのを止めた。そんな暗い話をしても仕方がない。ここで駄目だと決め付ける事は私達の血がここで絶える事を意味する。いや、現実として他種族と子が作れるわけがないのだからそれは現実なのだが、口にしてしまうとそれを認めてしまった事になる。
今までこの世界でも元の世界と同じように人生なんとかなりそうな感じで薄ぼんやりと過ごしてきたが、それを認めてしまうとあなたの血はあなたの代で終わりだよ、と他者に言われるような絶望感を皆で共有しなければならない事になる。
「何を悩んでんだよレオン」
「むしろお前はよくそれだけ能天気でいられるな」
「人生には与えられた材料しかない。それを使ってどう楽しむかが幸福への道だろ?」
マルコの言う事は尤もだ。超現実主義とも言える。対して私は古代ギリシャからアレクサンドロス大王、そして帝国に至るまで続いた青臭い理想主義の血を色濃く継いでいるのかもしれない。
隊商はゆっくりと湿原を進んでいく。今の所進路に間違いはないようだが、もう日が傾いてきてしまった。これまでの場所と違って水の流れが弱いせいもあるだろう。
この川は流量の大部分をここで消費してしまうと思える。沼地は拡大を続けているが、その先は砂漠である。砂の上にどんどん水を垂らしているようなものだ。実際砂漠の川幅は草原に比べて三分の一以下であった。
やがて隊商はガコンという音と共に停止した。見ると先頭の筏が座礁している。ボルダナティと隊員達はすぐに周囲の水面を離れた位置から順にぐるりと凍結させた。次いで氷の壁に囲まれた部分を凍結させていくと座礁した部分よりも水面がせり上がった。そのまま全員で順に先頭から筏を押して、座礁をなんとか乗り切った。
この作業にかなりの時間を取られたせいで湿原が終わりを見せて岩石砂漠に姿を変える頃にはもうすっかり日が沈んでいた。
今日はこれで終わりかなと思ったが、ボルダナティが隊商を止める気配はない。不思議に思って尋ねると、このまま朝まで砂漠地帯を突き進みたいらしい。いくら暑さに強いカペル族と言えどもこの砂漠の暑さはやっぱり耐えがたいらしく、夜のうちに進んでおきたいのだと言う。
ボルダナティ達は交代で寝て、月明かりの中砂漠を進んでいく。私はそのまま筏の上で寝てしまった。朝焼けの中目を覚ますと、丁度岩石砂漠と砂砂漠の境目だった。筏は大きな岩山の裏の蛇行する川の中に固定されていて、隊員達の半分は寝床を用意して眠っていた。ボルダナティもサイメルティも眠っている。
汗をかいて気持ち悪い。私は風呂を作ることにした。マルコとアフマドを起こして手伝わせる。但しこの風呂は水風呂である。いくらなんでも暑すぎる。
日が当たっている柔らかい大きな岩を選んで剣で湯桶の形を削り取り、氷の破片を運んできて上から入れた。いつものように熱した石を入れなくても、岩が持っている熱で勝手に氷が溶けていき、座れば臍程度まで浸かるような浅い風呂が出来た。深く作りたかったが岩を削るのは結構手間だったのでこの程度で妥協した。
まだ水の冷たさが足りないと思ったので、いくつか細かい氷の破片を持ってきてそこに浮かべる。すると丁度いい具合の水風呂が出来上がった。私、マルコ、アフマドの順に入る。
アフマドが入っている間に私とマルコは岩の陰に戻り食事の仕度をする。昨日あのまま寝てしまったものだからひどく腹が減っている。焚き火を起こして食材を焼いていると匂いに反応したのか、ボルダナティとサイメルティが起きてきた。
サイメルティはアフマドが水風呂から上がってくるのを見て、しまった!というような顔をした。だがすぐにいつもの含み笑いに戻り、
「アフマド、背中に水が残っているぞ。私が拭いてやろう」
と言ってあの大きな布を取ってアフマドの背中を拭き始めた。それが終わるとサイメルティは、
「次は私が入る番だな」
と言って岩の裏に消えて行った。
暫くすると
「あうっ!あああっ!」
という叫び声が聞こえてきて、全裸のサイメルティが飛び出してきた。乳房と股の間を腕で隠したまま走ってきて立って涼んでいたアフマドに抱きつく。
「なんだ?どうした?」
「あああ、あれ、なんであんなに冷たい!」
歯をガチガチ鳴らしているサイメルティ。そうか、私達にとっては適温だがカペル族にとってあの水風呂はとんでもなく冷たいものなのか。私は立ち上がってサイメルティに説明する。
「私達にとってここは暑すぎるんだ。だから冷えた水に入りたかった。暖かい水に入りたいならもう少し日の光で暖まるのを待つか、この焚き火から石を持っていって入れてくれ」
サイメルティはコクコクと頷きながら、アフマドに摑まり私に裸を見られないようにしている。その様子を見てボルダナティはサイメルティの裸体を隠そうと大きな布を持って近づいた。
しかしサイメルティはより強くアフマドにしがみ付き大きな布を受け取らなかった。ボルダナティは一瞬何か考えた後にサイメルティの後ろに回って大きな布をかけてやる。そしてそのまま二人を包んだ。
「回復するまで暫くそうしているといいよ。ごめんねアフマド。暑いかもしれないけど」
遂にあの鈍いボルダナティですらサイメルティの気持ちに気付いたようだ。そんなボルダナティにアフマドが答える。
「あの空の旅を思い出す。あの時もこんな感じだったな。死ぬかと思ったぞあの時の寒さ。ははは」
一番鈍いのはアフマドだと私は思った。
食事を終えて筏まで戻って氷から出る冷気で涼を取る。暫く休んでいるとサイメルティがアフマドの剣を持ってアフマドの元に行く。この疲れているのに鍛錬をする気か。
いや、これは鍛錬を言い訳にしているだけで、サイメルティはアフマドと二人きりになりたいだけなのだ。その証拠に私には一切声を掛けてこない。マルコはサイメルティを回りくどいと言ったが、私には十分直接的で自分の感情に素直だと思える。
アフマドは人が良いのか、この暑いのにサイメルティに付き合ってあげていた。手取り足取り個々の動きを教えてやっている。そんな様子を見ていると満腹からの眠気が襲ってきて私は再び眠りに就いてしまった。
次に目を覚ましたらもう夕方だった。隊員達はすでに食事を済ませた様子。マルコが焚き火から私用の食事を持ってきて、私は筏の上で食事を広げた。
食べている間に隊商は出発し、いよいよ灼熱の砂砂漠に入る。今までの計算だとだいたい私達が徒歩で五日かかった距離を一日で移動してきた事になる。砂砂漠を踏破するのには十一日も費やした。となると一度は砂砂漠で野営しなければならない。
徒歩ならば丁度良い陰を見つけて休めるが、川を下っているとそうもいかない。あの灼熱の中氷を冷やしたままに保つのは相当な苦労だろう。だがボルダナティは意外な手を使ってその困難を乗り越えた。
砂砂漠を蛇行していく川、所々流れを変えた跡がある。ボルダナティはいくつかの場所で川を凍らせ、流れを元の位置に戻す。それによって大きく蛇行していた川が真っ直ぐに流れ、あれだけ時間の掛かった砂砂漠をわずか半日で通り過ぎた。
逆に言うと私達はグネグネと蛇行した川沿いに歩いたため、相当な無駄足を食っていたという事だ。しかし地図もなかったのだから仕方が無いと言えば仕方が無い。
隊商はそのまま岩石砂漠も抜け、ラチェ族の居る乾燥した平原へと差し掛かった。暫く進んで夜明けが来た所で筏を係留した。
この熱い中野営をするのかと思いきや、ここで隊商の昼夜を元に戻すらしい。軽い睡眠を取ってから隊商はまた動き出すとの事だった。
「ああ~こっからラチェの集落に行きてぇなあ。あの肉食いてぇよ」
マルコが焚き火を用意しながら漏らす。
「確かにあの肉の味が懐かしい」
アフマドもそれに同意する。
「砂漠の民の事か。確か牛を飼っていたな」
サイメルティが確認を取る。
「確かあそこは川から歩いてそう遠くない距離にあったな。休憩中に取っては……これそうもないな」
アフマドは寝ているボルダナティとラチェの集落の方向を交互に見る。
「何だ、アフマド。そんなに牛が食べたいのか?」
サイメルティがアフマドに尋ねる。
「ああ、出来る事ならな。だが無理だろう」
「なら私が取ってこよう。あまり沢山は持ってこれないが」
サイメルティはそう言って隊員の一人に何かを告げると、走り出す。
「おいサイメルティ!」
私は叫んだがその声は届かなかった。サイメルティは驚異的な速さで一歩一歩跳ぶように加速して行き、あっという間に見えなくなった。あの速さであの距離を走り続けられるというのか。この世界で騎馬なんてものが発達しないワケだ。
交替で眠りに就いていた片方の集団が起きてきて、もう片方の集団が寝床を準備し出した時にサイメルティが戻って来た。驚異的な早さだ。片手で肉の塊を抱え、もう片方の手には牛の皮をいくつか持っている。
「これだけしか持ってこれなかった。すまないな。アフマド」
サイメルティは息を切らしていた。
「重かったんじゃないのか?大丈夫か?」
「少し重かったな。欲張りすぎた」
そう言ってサイメルティは小さな剣を取り出し、肉を切って火にくべていく。出来上がった傍からそれをアフマドに与えていく。
自分で食べるわけでもないのに欲も何もないだろう。サイメルティの献身的な姿勢を見て私は例え錯覚でも希望を持って生きていったほうがいいんじゃないかと思い始めた。それは私達も彼女らに対して錯覚を起こすという期待だ。
「お、なんだ。スゲーはええな。俺のぶんは?」
マルコが寝床から起きてきた。
「まだまだあるぞ。心配するなマルコ」
そう言ってサイメルティは肉の塊を差し出す。私達は牛肉を十分に堪能し、残った大きな塊はサイメルティがその力でカチカチに凍らせた。
これは凄い。長期間保存が可能だろう。さっきのサイメルティの大地を駆け回る姿、そしてあの保存食に加えて水を自由自在に操る力、それからこの他種族の食事まで管理できる能力。やっぱりこの世界は、いや少なくともこの一帯はカペル族が支配していたのではなかろうか。
サイメルティはボルダナティを起こして牛の皮を渡し、そのまま寝床を敷いて眠りに就いた。ボルダナティが食後の充実感を堪能してゴロゴロしている私達の輪に入り、例の保存食を食べて例の黒い液体の入った水筒を熱する。それを皆に配って談笑を始める私達。
「アフマドお前ここ数日で随分サイメルティと仲良くなったな」
マルコが探りを入れる。
「そうだな。弟が居たらあんな感じなのかと思う」
「弟?妹じゃなくて?」
「そうだ。弟みたいな感じだ」
「彼女は女だろ?例えるなら妹だろう」
「馬鹿かお前は。妹ならもっとおしとやかに躾けるぞ!」
その答えを聞いてマルコは苦い顔をした。
隊商は再び出発し、乾燥した平原を進んでいく。やがて日が傾いていつものように筏が係留される。隊商は野営の準備をし、彼らはあの保存食を食べてさっさと寝てしまった。
私達が食事を取るためには焚き火をしなければならないのだが、もう薪の蓄えがなかった。仕方がないので皆で手分けして薪を集める事にした。
景色が良い小高い丘を選んでそこに薪を集めていく。私もマルコもアフマドも地道に薪を集めた。ボルダナティは自分には必要ないのに薪集めを手伝ってくれた。サイメルティはぼーっとしていて何だか様子がおかしかった。