第三話 異変
ガンドレ山脈――この大陸一の大山脈から豊かな水源が流れ込む狐尾人の里周囲は、自然の恵みに溢れた土地である。
山菜、果実、野生動物に薬草類まで、自給自足で里の者全員を養ってくれるだけの余力がこの森にはあった。クリルも幼い頃から毎日のように森に入り、野山を駆け、家族のために食糧を調達してきた。
家を逃げるように出てきたクリルは、彼女が独自に見つけた狩り場へと到達していた。
今日は赤鳥を獲物にしよう。皆の好物を持ち帰れば、少しは重い雰囲気も明るくなるかな、などと考えていた。
狩りにはナイフを用いる。
人間などの種族ならば弓矢を用いるのが一般的であろうが、狐尾人はナイフなどの短剣の類を伝統的に好んだ。獣人特有の高い身体能力と勘の良さを活かして、急所を一撃で仕留める。彼らにしかできない方法である。
鳥などの高所に住む標的に対しては投擲で対応する。クリルはナイフを用いた狩りに関しては、もはや達人の域に達する程の腕前にまで成長していた。
クリルしか普段立ち寄らないポイントまで移動し、息を潜める。
赤鳥はその名の通り、くすんだ赤色の羽毛に包まれた肉付きの良い鳥だ。
木の枝に二羽、獲物を定めたクリルはナイフを構える。この距離で外すことは彼女の腕前では有り得ない。
呼吸を止め、ナイフを一投ーーー
見事に赤鳥の胸を貫いたナイフと共に、息絶えようとしている獲物は地面へと落下した。
「大丈夫。わたしはいつも通り」
珍しく独り言をつぶやき、気持ちを落ち着かせるように胸に手を当てた。冒険への憧れは消えることはないが、誰も悲しませたくはない。
これでいい、これでいいと自分の心へ言い聞かせた。
◆◆◆
手際よく獲物の血抜きを済ませ、回り道でもしながら帰路に着こうかと歩き始めた矢先。ふと、前方から何か気配が近付いていることに気付いた。
感覚の鋭い獣人にとっては生物の気配程度は手に取るようにわかるものだ、その上ここはクリルの庭と言ってもいい慣れ親しんだ森の中だ。
おそらく大型……鹿、猪ーーいやそれ以上、この森でそれ程のサイズの生物と言えば大角熊くらいだろう。
ぼんやりしていた頭の中をさっと切り替え、クリルに緊張感が走る。ここ一帯の食物連鎖のほぼ頂点に君臨する大角熊が相手となると、さすがに彼女一人には荷が重い。
里の『狩人』、『戦士』などが隊を率いて狩りをすることはあるが、通常は真っ先に逃げるべき対象である。
今、動くとやられるーー
咄嗟に彼女はそう判断し、気配を殺した。気付くのがあまりにも遅すぎた。そして近付きすぎた。勝手知ったる森とは言えども、普段ならこんなヘマはしない。
滅多なことでは表情を崩さないクリルであるが、それでも中身は14の年の少女。自らの今後を大きく左右するかという話し合いの後に平常心ではいられなかった。
漫然と森を歩いて身の安全が保証される程、この世界で生きていくことは生易しくないのだった。
この距離で動けば、必ず気取られ、追いかけられることになる。
大角熊の成獣はクリルの身の丈の二倍に迫ろうかという体格にまで成長する。その上、身のこなしは俊敏で獰猛、一度狙われればどこまでも追いかける執念深さを兼ね備える。
冷静さを欠いた頭でクリルはグルグルと思考を巡らせる。
戦闘になれば、まず勝てない。
逃げれば間違いなく気取られる。
途中で撒けなければ、里へ厄介な災害を引き連れていくことになってしまう。かといって、あの俊敏な熊を相手に逃げ切れるとも思えない。
それならばーー
クリルは直立不動で、呼吸を止め、やり過ごすことに決めた。幸い、大角熊の足取りから考えるに、まだこちらの気配には気付かれていない。
気配を殺すこともまた、森で生きる種族にとっては必要不可欠な能力である。
茂みが大きく揺れる。
一歩毎にズシンと地面が揺れるような錯覚に陥る程、熊の歩みは重く力強い。
ただ祈ることしかできず、わずか数秒の出来事が数時間にもクリルには感じられた。
額から一条、汗が滴る。
その時、茂みから大角熊の頭部が垣間見えた。
同時にクリルの心の鼓動が早まる。
なぜなら、彼女が想定していたよりも、明らかに大角熊と思われる獣は大きすぎる。
いや、アレはただの獣ではない。
魔獣か――
辿り着いた一つの疑念。
しかし、クリルには確信に近いものがあった。
この森でアレ程の巨躯の生物は見たことがない。魔獣を見たことこそなかったが、それ以外にあんな出鱈目な大きさの獣がいるとは思えなかった。
魔獣がいるならば、魔物も近くにいるかもしれない、いやそれよりも、魔穴がこんな所に――
これが事実なら、早く里に伝えなければ、危ない。
逸る気持ちを抑え切れず、わずかに一歩、無意識に後ずさっていた。
不運にも魔獣はそのわずかな挙動すら見逃さなかった。
魔獣の眼がギョロっとクリルへ向き、臨戦態勢へ入る。
クリルを警戒するに値しない餌であると認識した後の行動は速かった。次の瞬間には彼女との距離を詰め、その爪を今にもクリルに届かせるかと迫る。
「……逃げ切れない」
自らの犯した失態と、魔獣に出くわすという不運を嘆くように深く息を吐き、そして心を決めた。
もはや逃げ切れないのなら、生き残るために向かっていくのみ。
チャンスは一度――
初撃で左眼を一突きに潰し、先手を取る。
そんな風に、常人には考えもつかないような決断をこの一瞬でクリルはやってのけた。百戦錬磨の兵ですら足の竦むであろう状況で迷いはなかった。
14の年の少女にして不自然な程に、冷静な判断が何故か彼女にはできた。
魔獣の右腕がクリルの顔を目掛けて振り下ろされる。
余裕すら窺わせる中、右に身を躱し一気に懐へ踏み込む。
か弱き獲物の命を刈り取るには十分だった一撃は空を切り、絶好のチャンスが訪れる。その隙をクリルは見逃さない。
細腕に握られたナイフが魔獣の左眼を深々と突き刺した。
血飛沫が噴き上がり、喉を締め付けられたかのような魔獣の咆哮が森に木霊する。
ここまでは予定通り。
この期に及んでクリルは冷静に事を進めていた。
後は安全を確保しつつ離脱。
おそらく追っては来ないだろうと、計算していた。
しかし、魔獣の戦意は少しばかりも失われていなかった。
大地を震わすような咆哮を一叫び。後退したクリルとの距離をすぐに詰めた。
もはや魔獣に油断はなく、今度こそ強敵を全力で仕留めるべく凶々しい爪を振り下ろす。
不意を突かれたクリルにもはや策はなく、ここまでかと思われた。
その時――
その場を轟音と黒い炎のようなものが包み込み、思わずクリルは前方から眼を逸らした。次の瞬間にはその眼前に真っ二つに両断された魔獣の胴体が転がっていた。
何が起こったのか。
呆然とその場に立ち尽くすクリルに近寄る足音が一つ。
足音の持ち主は口を開き、一言。
「お前は、オウロウが何故死んだのか知っているか」




