弟2話 ー朋美ー
右手で持っているペンをクルリとまわす。
「いいか? この場合、X軸について線対称と言う事はだな……」
黒板の上に掛けられている時計が、退屈な時間を一秒一秒、丁寧に刻んでいる。
数学教師である小村は、関数の問題について無駄に詳しく説明していた。最近、妙に授業に熱が入っている。もうすぐ、テストが近いのだ。自分が担当するクラスにいい点を採らせたいのだろう。
そんな、下らない教師の熱意のせいで、ただでさえ退屈な時間に、眠る事ができないという何とも不愉快な状況に陥っていた。だが、俺はそんなことではめげない。もはや、鉛のように重くなったまぶたをしっかり見開き、教科書と向かい合う。教科書に書いてある問題に、一文字ずつ目を通し、右のグラフを見る!
そして、そう! X軸とY軸が作り出す二次元空間の中で、数本の線が直進したり……Uターンしているのを見ていると……だんだん視界が狭くなってきて……
「春谷! おい、寝てる場合じゃないだろ! 今は授業について来れてもな、油断してるとすぐに成績は落ちるんだからな!」
「あ、は、はい! 大丈夫です!大丈夫です。」
また、やってしまった……
わかってても、ついつい寝てしまうのだ……
「全く……そうやって授業中寝てるような奴が、わからなくなったからと言って、塾に駆け込むんだ——」
もう小村に憎まれ口を叩かれるのは、慣れていた。小村はまだグチグチ言っているが、この俺をなめるな。人間ってのはな、環境適応能力ってもんがあるんだよ!この場合、環境適応能力という言葉が合っているのかはわからないが、とにかく俺は慣れているのだ。
こうして、いつも通り退屈な時間も過ぎていく。
そして、もう一つ、いつも通り……いつも通り、教室内に特別なものがある。
「くすっ……」
俺が怒られた事に教室のみんなが笑っていたが、俺には一人しか見えていない。俺の席から、二席前にいる娘。
背中までのびる茶色がかったふわふわでさらさらの髪。その一部を肩のあたりで束にしてリボンで結んでいる。見ているだけでいい香りがしてきそうだ。目は少しだけたれ目。とろんとしている。
西原朋美
それが、彼女の名前だ。
彼女とは別に、特別な関係にいる訳ではない。彼女にとって俺は、ただの幼なじみだ。特別、意識してはいないだろう。
だが俺は、違う。
俺にとっては、違う。
朋美は俺にとっては、この上なく特別なのだ。
朋美と出会ったのがいつだったかは、覚えていない。
朋美の家は近所で、小さい頃はよく遊んだ。親同士の近所付き合いが合ったから、物心ついた時には俺は朋美の事は知っていたし、仲も良かったのだ。
そして、俺も朋美も兄弟がいて、小学校低学年くらいまでは、俺の妹と朋美の弟と四人で遊んだりもした。小学校の裏にある竹林に入って、忍者ごっこをしたり、鬼ごっこをしたり……
そうこうしているうちに、俺たちは高学年にあがっていった。
5年生になっても俺たちは同じクラスだったが、さすがに、高学年にもなると女の子と遊ぶのは気が引けたし、話す機会も減っていった。
でも、俺はその時から朋美の事ばかり気になるようになっていた。授業中もちょっと集中力がきれると、彼女の方を見てしまった。休み時間でも近くで彼女が話していると、そちらに耳が傾いた。夜寝る時も、彼女の顔が浮かんで落ちついて眠れなかった。
小学5年生の俺には、この気持ちが何なのかはよくわからなかったけど、彼女がいるだけで、彼女に会えるだけで、学校が楽しかった。そんな楽しい時間が終る事など考えもしなかった。
楽しい!
明日も、朋美に会える!
それだけで、十分だ!
俺は、だんだん膨らむこの気持ちが、恋なんじゃないかと気づき始めていた。そうだ、きっと恋なんだ。
でもそれに気づいたのと同時に、恋は終わりを告げる。
朋美は、中学受験をするというのだ。
それを知ったのが小学6年生に上がってすぐだ。
彼女が受ける学校はそれほど、偏差値の高い学校ではなかったが、英語の教育が秀でており有名だった。中学のうちから海外研修があるほどなんだそうだ。彼女は、将来、留学でもする気なんだろうか? そんな事も考えた。
俺は、本気で悩んだ。俺だって成績はいい方だ。いまから塾に入れば、その学校に入れるんじゃないか?
しかし、無理だった。親が許してくれなかった。
「そんな学校、入ってどうするの? 将来、海外で仕事したいの?」
母親に質問されたが答えられなかった。「好きな子が行くから、俺も行く」なんて、とても言えない。適当に将来を語ってもよかったが、親を騙してまで突き進む決心も、自信もなかった。
結局俺は、朋美を諦めた。
所詮、俺の一方的な想いだ……そんな風に自分に言い訳をして、告白もしなかった。
中学も違うのに、うまくいくわけがない……そう勝手に決めつけて。
二月になり、朋美は中学の合格を決めた。そうして俺たちは、中学生になった。
そして、俺は中学に上がるとかなり後悔した。中学2年生にもなると、周りには違う学校のやつと付き合う奴もいっぱいいた。
やっぱり、告白しとけば良かった……
後の祭りだった。
ここ最近彼女と顔を合わせる事は無かったし、小学校の頃は携帯なんてもってなかったので、メールアドレスも知らなかった。
俺は、ずっと落ち込んでいた。いつまでも、いつまでも。中学2年生が終わっても、永遠と朋美を想い続けた。自分でも情けないと思った。でも、想いを断ち切る事は、できなかった。
中学3年生で一人の親友と出会わなければ、ずっとくよくよしてただろう。そいつは俺を支えてくれた。
そいつは、偶然同じクラスになった。すぐに、仲良くなった、いろんな話をした。そいつは俺の話をちゃんと聞いてくれた。俺に好きな人がいる事。結局告白出来ずに、後悔している事。ずっと、想い続けている事。全部吐き出して、俺は少し、前を向けるようになった。
そのまま、俺は、そいつと同じ高校に上がった。それはべつに、そいつが、その高校にいくから俺も行く事にしたのではない。学力がだいたい同じだったから、そのまま同じ道に進んだ。
そして。
俺は高校の入学式で、信じられない体験をする。
春休みの余韻が抜けきらないまま、それと同時に、高校への希望と不安を抱えて。集まってくる集団。高校の教室が開くまで、新入生は全員、昇降口の前で待たされていた。
これから、新しい生活が始まる。そんなことを、思っていただろう。未練は合ったものの、だいぶ傷が癒えていた俺はその集団の中に、一人の女の子を発見する。
「朋美……」
思わず声に出してしまった。しかし、その声は人ごみにまぎれてしまう。
おそらく俺は、30秒ほど口をあけて、間抜けに立っていただろう。あまりの出来事に、状況がわからなかった。
真っ白な頭を必死に整理していると俺は、無意識に朋美に駆け寄っていた。高鳴る気持ちを押さえて走り寄った。また、あの楽しかった頃の感覚がもどってくる。
なんでここにいるんだ? 留学はしなかったのか? 中高一貫校だっただろ? 中学ではどんなだったんだ? 高校から学校変える事にしたのか? いままでずっと………ずっと……俺は!
そんな疑問や想いが目まぐるしく頭の中をとび交ったが、なんとか押さえて彼女に歩み寄った。
しかし、そんな時、集団は一気に動いた。俺を邪魔するように。まるで、押し寄せる波の様に。
昇降口が開いた。
朋美に追いつく事はもうできなかった。
「朋美……」もう一度つぶやく。
追いつく事は出来なかった。
でも、俺の心は喜びで破裂しそうだった。いろいろな疑問はまだ頭の中に巡っている。しかし、そんな疑問なんてどうでも良かった。また朋美といられる。朋美と同じ学校に通える。
俺の心は小学生の頃と同じだった。
そうして、おれの高校生活は始まった。




