第5話 同じ日常を過ごすということ
「……魔女を呼んだことは、本当に正しかったのだろうか」
ラファエルは、両手で包んだままの茶碗を見下ろしていた。
すでに冷めきった茶からは、香りひとつ立ち上っていなかった。
「はぁ? 今さら後悔してるの?カリンに魔女を呼ぼうって言い出したの、ラファエル、あなたでしょう」
イザベルは心底あきれたように、ため息をついた。
そして手を伸ばし、茶の横に置かれていた四角い焼き菓子を口に放り込む。
ぱり、と乾いた音が食卓に響いた。
「イザベル……君は、カリンのことが心配じゃないのか?あのとき、ルエランがどんな気持ちだったか──君のほうが、僕よりずっと分かっているはずだ」
二人の間に、沈黙が降りる。
しばらくのあいだ、言葉は交わされなかった。
その静けさを破ったのは、イザベルだった。
「……分かってるわよ!本当は、あのとき全部カリンに話してあげたかった!
どうしてルエランが逃げたのか。どうして何も言えなかったのか──!」
突然の叫びに、ラファエルは首を振り、低く呟いた。
どこか諦めを含んだ声だった。
「だからこそ、僕は魔女を呼ぼうと言ったんだ。あの出来事は……僕たちには、どうしても語れない。けれど──」
「……外部の人間なら、違う?」
ラファエルは小さく頷いた。
真剣な視線を受け、イザベルは唇をぎゅっと噛みしめ、再び椅子に腰を下ろす。
「カリンが傷つかずに済めばいい──その気持ちは、痛いほど分かるわ。あの子は……私たちが愛情を注いで育てた、もう一人の子どもだもの」
言葉は、そこで途切れた。
茶碗の温もりは、とうに失われている。
食卓に残った沈黙だけが、二人を包んでいた。
「……ルエラン。どうして……」
ラファエルとイザベルは、静かに頭を垂れた。
祈りという言葉は、あえて口にしなくとも、十分に伝わっていた。
夕方になると、家の中に、やさしい匂いが広がった。
炊き立てのご飯の香り。
皿が触れ合う、かすかな音。
食卓には、卵とハムで作られたオムライス、香ばしく焼かれたパン、そして、湯気の立つ温かなスープが並んでいる。
それは──
いつの間にか忘れていた、大切な日常と呼ばれるものだった。
ルカリンは、その料理をぼんやりと見つめていた。
箸を持つ手が、わずかに躊躇う。
「……どうして、食べないのですか?お口に合いませんでしたか?」
ヘラの問いに、ルカリンはゆっくりと首を振った。
「そんなはずない。とても美味しそう……食べるのが、もったいないくらい」
「……では?」
ヘラが首を傾げると、
ルカリンは唇をぎゅっと噛みしめた。
眼鏡の奥の青い瞳は、
この日を、長いあいだ待ち続けていた。
たとえ──
それが、偽物だったとしても。
「……実はね」
しばらくして、
低い声が食卓に落ちる。
「この温かい料理と……エプロンをつけたあなたを見ていると……まるで……
あの人が、何事もなかったかのように帰ってきたみたいで……」
言葉は、そこで途切れた。
ルカリンは俯く。
肩が、ごく小さく震えていた。
郷愁は、言葉にならないまま、その場に滞っていた。
彼女にとっての十五年は、訪れない春のような、冷たい季節だった。
ヘラは、何も言わなかった。
ただ、視線を窓の外へ向ける。
やがて、決意したように、静かに口を開いた。
「ルカリン様。魔女が願いを叶えるという噂が、何を意味しているのか──考えたことはありますか?」
「……魔女なら、魔法を使って、ぱっと願いを叶えてくれるものだと……そう、思っていました」
素直な答えに、ヘラは小さく苦笑した。
「そうであれば、私も嬉しいのですが……残念ながら、私は魔法の使えない魔女でして」
「え……?じゃあ、魔女っていう噂は、全部デマだったの?ラファエルおじさんとイザベルおばさんが聞いたら、がっかりするだろうな」
「噂というものは、いつも大げさに広まるものですから」
ヘラは、冷めかけていたスープを、静かにルカリンのほうへ押しやった。
ルカリンは手を伸ばし、それを受け取る。
温もりが、喉を通って、ゆっくりと身体に広がっていった。
少しして、再びヘラが口を開く。
「ですが──魔法が使えないからといって、願いが叶わないのであれば、人は、魔女を探しはしないでしょう?」
ルカリンは首を傾げた。
どうしても理解できない、という表情だった。
ヘラはそんな彼女を見て、微笑みながら言葉を続ける。
「願いは、必ず叶います。ただし、ひとつだけ条件があります」
「条件……?」
「契約者と魔女が──互いに、ひと歩ずつ歩み寄ること。
しばらくのあいだ、同じ日常を過ごしながら……互いを知る時間を持つことです」
ルカリンは、スプーンを握ったまま、ヘラを見つめた。
同じ日常を過ごす──その言葉が、胸の奥に長く残る。
人々が恐れていた、紫の瞳の魔女は、彼女の知っている物語とは、まるで違っていた。
「……ですが、ひとつだけ。はっきり申し上げておきます」
ヘラは静かに告げる。
「願いに、無償のものはありません」
「……うん。この世に、タダなんてないよね」
その言葉を最後に、二人はしばらく黙って食事を続けた。
食卓の上では、スプーンと箸だけが、静かに動いている。
ルカリンは、ヘラに気づかれないよう、
そっと口元に微笑みを浮かべた。
魔女という名のあとにつきまとう、数え切れないほどの噂や物語。
それらが、今、目の前にいるヘラとは、少しも似ていないことを──ようやく、はっきりと実感していた。
同じ日常を過ごすということ。
それは、願いが叶うまで、ひとりではないという意味だった。
その事実ひとつが、長く凍りついていた心の季節を、ほんのわずかに揺らす。
胸の奥に残り続けていた夜は、なぜか──少しだけ、薄れていくように感じられた。




