第3話 夜が母を奪った日
郷愁は、いつも一日の終わりとともに訪れた。
まるで、あらかじめ分かっていたかのように。
失われた過去は、彼女に囁きかける。
思い出と後悔は、ついに辿り着くことのないひとつの夢だった。
そして、その感情は──
あの家にこそ、最も長く留まり続けていた。
村から遠く離れた山の中腹に、古びた二階建ての家が、ぽつんと佇んでいた。
人の足跡も途絶え、記憶の中からさえ消え去った家。
かつて陽射しを受けて雲のように白かった壁は、歳月の中でひび割れ、家は風と雨、そして時間の重みに耐えきれずにいた。
緑の海が絵画のように広がっていた庭も、とうに姿を消し、今では雑草だけが生い茂っている。
山を行き交う風は、かつてこの場所に残されていた笑い声を思い出すかのように、ほんのひととき留まり、やがて消えていった。
その家の主は、ルカリンという名の若い女性だった。
肩を越えて流れる金色の髪は、収穫を前にした黄金の穀倉地帯のように輝き、眼鏡の奥に宿る青い瞳は、長い年月を、ただ同じ場所に留めていた。
だが、夜が訪れるたび、彼女はいつも同じ夜を思い出す。
時間が流れても、心だけは、今もなお──あの夜に縛られたままだった。
その夜は、影でさえ道を見失うほどに暗く、重かった。
稲妻は昼のように家の中を照らし、豪雨は絶え間なく屋根を打ちつける。
空はまるで怒りを吐き出すかのように、雨と雷鳴を繰り返していた。
幼いルカリンは、その音が怖かった。
世界が、全力で自分を叱りつけているように感じられた。
「なんだか、天気が怖いよ……ママ」
「大丈夫。大丈夫よ。ママがそばにいるでしょう?うちの子が怖がることなんて、何ひとつないわ」
「もしかして、神さまが怒ってるんじゃない?ここに来るの、無理をしたから……」
「無理なんてしてないわ。パパが残してくれたお金も、まだちゃんとあるもの」
一本の蝋燭が、部屋を静かに照らしていた。
揺れる灯りの中で、ルエランは娘の髪をやさしく撫でる。
子どもにとって、母親とは──
この世で最も頼もしい、神そのものだった。
「娘には、嘘をついちゃだめだよ。ママ」
ルエランの手が、ふと止まる。
やがて、観念したように小さく頷いた。
「……そうね。認めるわ。少しだけ無理をした。お金が、ちょっと足りなかったの。でも、これからは大丈夫。うちの子が心配することなんて、何もないわ」
大きな雷鳴が轟いた。
蝋燭の火が、大きく揺らぐ。
空は、きっと──知っていたのだ。
「だから、もうおやすみ。愛してるわ、ルカリン」
「……私も、ママ」
布団をかけ、立ち上がる母。
だが、娘の耳に──
扉が閉まる音は、届かなかった。
「……ねえ」
ルエランが、低く囁いた。
これまで一度も聞いたことのない、かすかな声。
耳を澄まさなければ、豪雨に掻き消されてしまいそうなほどだった。
揺れる灯りの中、彼女はじっと、娘の顔を見つめている。
ルカリンは、不安を覚えた。
それは、雨のせいではない。
母の足元を引きずる何かが、部屋いっぱいに満ちているような感覚があった。
「ママは、ずっとあなたのそばにいる。世界で一番愛している娘を置いて……どこへ行くものですか」
不安に駆られ、ルカリンはそっと目を開けた。
そこにあったのは、いつもと変わらない、やさしい母の顔。
ほんの一瞬の間に、彼女はすでに顔を変えていた。
「おやすみ、ルカリン」
扉が閉まる音とともに、蝋燭の灯りが消える。
部屋は、長い沈黙に包まれた。
そのときルカリンは、まだ知らなかった。
いつも自分を守ってくれていた神が、ありったけの力で、最後の声を絞り出していたことを。
あの夜の豪雨と雷は、その事実を隠すための──ほんの小さな雑音に過ぎなかったということを。
それから、十五年の歳月が流れた。
ルカリンは、今もなお、あの夜明けに、取り残されたままだった。
時間は景色と村を変えるには十分だったが、心の闇だけが、静かに積もり続けていた。
後悔は、今も同じ場所に留まり続けている。
机の上に置かれた『フラルコタンの歴史』の表紙を、ルカリンはそっと撫でた。
数年前、彼女のもとに届いた小包。
中身は、ごくありふれた歴史的事実の羅列だった。
だが、その筆跡だけは、間違いなく母のものだった。
「……どうして?」
問いに、答えが返ることはない。
窓の外から差し込む陽射しが、ただ静かに彼女を照らすだけ。
あの夜と同じ、長い沈黙だけが、そこにあった。
そんなある日──
雲が、噂を運んできた。
ラファエルとイザベルから伝え聞いた言葉。
「願いを叶える魔女がいる」──と。
そして今日──
その噂は、現実となった。
ルカリンは、問いかけたかった。
もし、願いが叶うのなら──
なぜ、母は自分を置いていったのか。
その問いは、遠い昔から一度も口にされることなく、
今もなお彼女の胸の奥で、形を持たないまま、願いとして息づいていた。




