1-6 少子化危機論は建前である
1-6 少子化危機論は建前である
ここまで私は、人口減少が必ずしも社会の崩壊を意味するものではないこと、そして出生率低下の本当の原因が家庭形成を困難にする社会構造にあることを説明してきた。にもかかわらず、日本では少子化があたかも国家存亡の危機であるかのように語られている。
テレビでも新聞でも、少子化は「国難」と表現される。人口が減れば経済が縮小し、社会保障が維持できなくなり、国家が成り立たなくなるというのである。しかし、この説明には一つの重大な欠落がある。それは、人口減少そのものよりも、なぜその人口減少が起きているのかという原因の議論がほとんど行われないことである。
もし本当に少子化が危機であるならば、まず家庭形成を妨げている社会制度を改善する議論が中心になるはずである。賃金が長期にわたって停滞していること、不安定な雇用が拡大していること、若い世代が将来の生活設計を描きにくいこと。こうした条件を改善しなければ出生率が上がるはずがない。しかし実際には、そのような議論は周辺的に扱われることが多い。
代わりに強調されるのは、人口が足りないという問題そのものである。労働力が不足する、社会が回らなくなる、だから対策が必要だという議論が前面に出る。そしてその対策として提示されるのが、外国人労働力の導入である。
ここで注意しなければならないのは、少子化という現象がどのような言葉で説明されているかである。もしそれが「危機」と呼ばれるならば、人々は緊急の対策を受け入れやすくなる。危機という言葉は、政治的な決断を正当化する力を持っている。だからこそ、危機という表現は慎重に扱われなければならない。
歴史を振り返ると、社会の大きな政策転換が「危機」を理由に正当化される例は少なくない。国家の安全、経済の安定、社会秩序の維持。こうした名目のもとで、新しい制度が導入されることは何度も繰り返されてきた。危機という言葉は、社会を動かすための強力な政治言語なのである。
少子化危機論もまた、この構造の中で理解する必要がある。人口減少という事実そのものは存在する。しかし、それがどのような意味を持つのか、どのような政策を正当化するために使われているのかは別の問題である。危機という言葉が強調されるとき、そこには必ず政治的な意図が入り込む。
歴史を読むということは、こうした言語の使われ方にも注意を向けることである。表面上は社会問題の説明に見えても、その背後には制度や政策を動かすための論理が存在していることがある。そして、このような構造は歴史の中で何度も繰り返されてきた。
つまり、危機を利用するという現象そのものが、歴史の中で繰り返されるパターンの一つなのである。
新しい歴史家は、このパターンを見逃さない。出来事を単独で見るのではなく、その背後にある構造を読む。少子化危機論もまた、単なる人口問題としてではなく、社会がどのような方向へ動こうとしているのかを示す一つの兆候として理解する必要がある。
そして、この視点は次の問題へとつながる。もし歴史の中に繰り返される構造が存在するならば、私たちはその構造の延長線から未来を考えることができるのではないか。
次の節では、この点について考えていくことにする。




