第三十一話 姉の想い① エリスティナ
マリアルイーゼのお姉ちゃん、エリスティナ視点。
「いってきます」
そう言って、笑顔で家を出る妹を見送って、大きく安堵の息を吐き出します。
一度はもう出来ないと諦め、絶望しましたが、こうして再び家族と会えたことを女神に感謝しなければなりませんね。
「お母様、あの子はあんな風に笑えるのですね」
「ええ。そして、私たちも、ね」
「はい」
お母様と二人で、笑い合います。
◇◇◇◇◇
マリアルイーゼ。私の可愛い妹。
あの子は幼い頃、王都オルソフォス家の屋敷にある大きな池の側で倒れました。
原因はお父様の飼育していた色とりどりの鑑賞魚たち。
食欲旺盛で、お父様はストレス発散も兼ねて盛大に餌を撒いて、群がるその様を愉悦混じりに笑って見ていましたが、端から見れば異様な光景でしたね。
餌を撒く時の定位置に誰かが立てば、魚たちはすごい勢いで寄ってきます。魚も学習するのだと知ったのはこの時でした。
その場所に、無垢な幼い妹が立ったことで、魚たちはいつものように群がりました。
そして妹は気を失い、別人のように大人しくなってしまいました。
今までは満面の笑みで私たち家族の後ろを無邪気についてきた妹は、目が覚めれば私たち家族の顔を見て不思議そうな顔をするばかり。
今思い返すと、僅かに警戒と怯えも混じっていましたね。
あの頃は妹が無事だった事が嬉しくて気にもならず、ただ妹を抱きしめました。
それからしばらくして、やっと違和感に気付きました。
妹がやけに大人しく、笑顔が少ないことに。
今までなら呼べばすぐに抱きついてくる程だったのに、一定距離で立ち止まってどんな用かと疑問の声を出す。
その様は幼子のそれではなく、まるで自分よりも年上の人と話しているようで。
私は、妹が別のものになったように感じて怖くなった。
それからは、妹を避ける日々が続いた。
お父様やお母様も私と同じ違和感を抱いていたけれど、後遺症みたいなものだと考えて今まで以上に妹を甘やかした。
お兄様たちは……変わらずだったけど。
私は妹にどう接していいか分からず、妹が寂しそうに私を見ているのに気がついていても、離れるしかなかった。
それが変わったのは、お祖父様とお祖母様が揃って亡くなった時。
お祖母様が風邪で寝込み、お祖父様にも感染しました。ご高齢でしたが、まだ元気だからと思っていたら、呆気なく女神様の下へ召されたのです。
悲しかった。苦しかった。
それ以上に、寂しかった。
家族がいなくなる事が、こんなにも心を掻き乱すなんて。
お父様たちやお兄様たちはすぐに気持ちを切り替えていましたが、私には無理で、涙が止まりませんでした。
そして気がついたのです。
妹も泣いていた事に。
私は本当に愚かでした。
マリアルイーゼは、妹は家族が亡くなったことに悲しんでいる。
そう。家族なのです。妹も大切な家族なのです。
なのに、私は妹の所作が違うなんて些細なことで繋がりを絶とうとしたのです。
泣いている妹を、私は抱きしめました。
抱きしめて、一緒に泣いて、仲直りしました。
それからは、妹と一緒に本を読んで、おやつを食べて、同じベッドで寝て、空白を埋めるように一緒にいましたね。
あれから妹は、私を見ると「おねーさま」と笑顔で歩み寄って来てくれるようになりました。
──天使、降、臨!
女神様は時たま天より使者を遣わすと言われています。それが天使。
天使は光輝く翼を持った、美しい人間の姿で地上に降り立つとされ、光の翼はありませんがまさに妹のマリアルイーゼは天使と呼んで差し支えがないほどの輝きを放っていました!
女神教の方々に知られれば激怒されるでしょうが、暗黙の了解として可愛らしさを言い表すのに天使という言葉はよく使われています。
まさにあの可愛らしさは天使。
お父様が全力で同意してくれましたから間違ってはいません。
それからは、溺愛です。溺愛せずにはいられません! あの弾力のある頬っぺは……!
んん。
それはさておき。
学校に通い始めると私の世界は激変しました。
多くの同年代との交流、覚えなければならない多くの知識。やるべきこと、やらなければいけないことが増えてしまいました。
それでも、帰宅してマリアルイーゼに今日あったことを話して、可愛がるのは変わりませんが。
目まぐるしく日々が過ぎ、成長するにつれて周囲にある変化が訪れました。
婚約者の選定。
貴族としては当たり前の、大事な儀式。
貴族は血筋を絶やさないため、また、家に利益をもたらすために、早々に婚約を結ぶものです。
私の父は財務大臣で、一国の金庫を管理する重役でした。侯爵として広い領地も持っており、経営も安定していてむこう十年は安泰という状況で。
はっきり言って、我が家は国でもトップクラスのお金持ちであり、権力者でありました。
その家と縁を結べればどれほどの利益を得られるか。
実際、お母様のご実家はオルソフォス家からの援助を受けてとても栄えていましたから、その効果は実証されていました。
皆の目には、美味しそうな獲物に見えたのでしょうね。
ただ、私はこの時、気づきませんでした。
何故お兄様たちが婚約者を持たないのか。
何故長兄であるファルガーお兄様が騎士という道を選んだのか。
普通ならば嫡子優先です。早くに次期当主としての教育を施し、婚約者を選定しなければなりません。
なのに、それらを一切考慮していない我が家。
──強欲のオルソフォス。
我が家はそう呼ばれていたそうです。
お父様は財務大臣として、国庫を始めとした国の全てのお金の管理をしていました。
お金は有限で、使えば使っただけ減ります。
ではどう補充するか?
王国の民たちから税として徴収するしかありません。
闇雲に使えば、民に負担を強いて、やがて破綻する。お父様はそう仰ってお金の管理は厳しくしていました。
それが、他者から憎まれることになりました。
人の社会は何をするにもお金がかかります。買い物をするのも、人を雇うにも、全てにお金は付随します。
国の運営も例外ではありません。
国政を行うには膨大な資金が必要不可欠。
その管理を正しく行わなければすぐに国庫は底をつき、運営に支障がでるというのにも関わらず、多くの部署がお金を無尽蔵に請求してきます。
適正なものならば悩むこともないのですが……とにかくあるだけ寄越せというものばかりだそうで。
それを断り状況を精査して、必要な分だけを配分する。
それが気に入らないのです。
特に軍務卿。まだ使えるものを一度使っただけで捨て去り、新しい物を購入するという名目で高額の予算を請求する。ですが断られ、仕方なく捨てた物をまた綺麗にして使ったとお兄様からお聞きしました。
軍務卿はお父様を目の敵にして、他の大臣たちや派閥の者を巻き込んでお兄様たちを虐げる。
そのお陰でお兄様たちは令嬢に不人気。
お父様と同じ財務閥の家と婚約をしようとすれば他の派閥が邪魔をする。
結果、お兄様たちは未だに独身。ツヴァイスお兄様に至っては結婚は諦めたという始末。
で、私はと言えば、婚約話が殺到しました。
特に軍務閥の家から。
これには私も辟易としました。彼らからは欲しか感じませんでしたから。
私と婚姻することで人質として、父を思うままに操ろうという醜悪さ。
お父様は全力でそれを回避しようとして下さいました。護衛の数も増やしていただいて……さもなくば既成事実を作られていたことでしょう。
そんな日々を送っていると、お父様から文通のお願いが来ました。
お相手は……ふふ、旦那様であるエンドバルト・モールグリー様でした。
当時は隣国の方と聞いて不安でしたが、文通を始めると理知的で気遣いのできる紳士という印象でした。実際は熊ですが。
武官として日々鍛練に励み、皇太子殿下の信も厚く、侯爵家の次男であるため家格は申し分なく、何故婚約者がいないのかと不思議に思いましたね当時は。
それで、実際にお会いして、体の大きさに驚いて、ですが目がつぶらで可愛らしくて……お優しいんです。
熊のような巨体で、顔立ちも少々厳ついという理由で婚約話が無かったのだとお聞きした際は驚きました。
こんなに立派なお方なのに。
言葉を交わす毎に、どんどん旦那様の事が愛らしくなっていった私は、お父様に言いました。
「お父様、私、この縁談を絶対にしくじりませんわ!」
「……この決断の早さは妻譲りか」
お母様はよく仰っていました。
女は即断即決だと。
お父様や家族のためなら政略結婚も辞さない覚悟でいましたが、家に利があり、私にも利があるのであれば何も悩むことはありません。
王国の貴族家であろうとも、隣国とのお話は邪魔をする訳にもいかず、私と旦那様の婚約は無事整ったのです。
その時のマリアは嬉しいのと同時に、私がいなくなると寂しいと言って……嫁入りまでの間、全力で可愛がりました。
婚姻した後も、旦那様は私と家族の仲が良好なのを知っておりましたから、職務の都合をつけて共に王国へと赴いて下さりました。
ふふ、旦那様を初めて見た時のマリアの顔を思い出してしまったわ。
……そうして、幸せな日々が続いて、これからも何とかやっていけるのだと思っていました。
あの時までは。




