第一章 時代の変化を感じる市場
「良い買い物ができたわ」
プリムローズは買い物袋を抱え、満足げな笑顔を浮かべた。
二人は広場にある、屋台の並んだ場所から離れたベンチに座り、歩き回った足を休ませている。街の住人はここに王女がいるなど思いもしないだろう。
アイヴィーは深く溜め息をついた。
「値切りなんてはしたないこと、二度となさってはいけせん。先程は驚きのあまり言葉を失いましたよ……」
「他の侍女たちから聞いたの。収穫祭は掘り出し物が見つかるけど本当の値段より高く売られているから、こちらも手持ちのお金より安い金額を押して、少しずつまけてもらうとお得なんですって」
「それは私たち侍女のなかでの話です。貴女様に相応しい行為ではありません」
アイヴィーは常日頃から、プリムローズの好奇心旺盛な性格を心配していた。何か新しい知識を得ると、そのまま試そうとするきらいがある。素直といえば聞こえはいいが、浅慮であることには違いない。
「……お金って凄いわね……」
侍女の小言に否定も肯定もせず、プリムローズは市場で買い物をする人々を見つめて、心から感心したように呟いた。
「品物を売る人と、買う人の橋渡しになってる……。さっきの小物屋さんの主人だって、私の払ったお金を使って、パンやシャツとか、暮らしに必要な物を別の店で揃えるわけでしょ?」
唐突に尋ねられたアイヴィーは、話の終着地点が分からないながらも「まぁ、そうでしょうね」と頷いた。
「人から人へ、お金が流れていくのね。人が生きていく限り、必要な物は沢山あるから、お金の流れが止まることはない。……この流れを大きくしたら、より多くの人が暮らしやすくなるんじゃないかしら」
「プリムローズ様……?」
ぽつりぽつり、と自分の考えを言葉にする彼女に、アイヴィーは戸惑いを隠せなかった。しかしその物思いに耽る横顔が、遠くを見据える瞳が、いつものあどけない少女のものと違うことに気付き、思わず息を飲む。
その時、近くでアコーディオンとトランペットのメロディが聞こえた。芸人の一座が演奏を始めたのだ。ベリロナイト人に馴染み深い、昔ながらの民族音楽だ。
「……私達が小さい頃は、収穫祭なんてやってなかったわ。つい最近よね」
「ええ、戦前の風習だったのを復活させたそうですよ」
アイヴィーは相槌を打ちながら、プリムローズと同じく、市場のほうへ目を向けた。
はにかみながら手を繋ぐ恋人達。
反物を抱えて店の主人と値切りの交渉をする主婦。
小遣いを握りしめながら駆け寄ってきた子供たちを、微笑ましそうに相手する飴売りの老婆。
平和を絵にかいたような光景だ。
「やっとお祭りをする余裕ができたのね。これからずっと、毎年やってほしいわ」
これからの時代の平和を願う王女に、侍女は心を打たれた。
「はい……」
世の中の変化をしみじみと感じる二人の向こうから、杖を突いて歩く老人と、彼を支える少年がやってきた。祖父と孫だろう。
プリムローズ達はさっと立ち上がり、彼等にベンチを譲る。
通りすがりに少女たちと老人は軽く会釈をした。彼の頬には深い傷跡があり、杖を突くほうの脚は、膝から下が義足だった。
孫とベンチに座ると、老人は静かに目を閉じて、民族音楽の演奏を聞き入っていた。目蓋の裏にどんな景色を思い浮かべただろうか。
ベリロナイトが10年戦争で負った傷は、20年経ったところで容易に癒えるものではない。今は快方に向かうための体力を培うことが必要だ。その術が経済の発展であることを、プリムローズは肌で感じた。
広場を後にした二人は、裏通りを散策していた。人混みはぼちぼちといったところで、市場ほど賑わってはいないが、そのぶん街並みを楽しむゆとりがある。
「そろそろ帰りましょうか」
通りの外れまで来た時、プリムローズは提案した。アイヴィーは意外そうな表情を見せる。
「もう、よろしいのですか?」
「ええ、お買い物楽しかった! それでね……」
プリムローズが抱えた買い物袋から何かを取り出そうとした時、陽が雲に隠れたわけでもないのに陰に覆われた。
突然、視界が薄暗くなったことに違和感を覚えた彼女が顔を上げると、自分の前に二人の男が不遜な態度で立ちはだかっていた。
その一人が急に、片手でプリムローズを容赦なく地面に突き飛ばした。
「きゃあ!」
買い物袋を抱えていたプリムローズはバランスを崩し、膝からズザザザ、と砂埃を立てて倒れ込んでしまった。
「……なっ……!」
アイヴィーはプリムローズの名を呼びかけようとしたのを堪え、転んだ彼女に手を貸そうとした時、後ろからもう一人の男に腕を掴まれ、羽交い絞めにされた。
「何をするのです! 放しなさい!」
両腕を掴まれたままのアイヴィーは気圧されることなく叫んだ。周囲の人々はこの異常事態に対し、気まずそうに見て見ぬふりをすることしかできない。
「放しなさい、だとよ。身なりといい、この女、そこそこ良いトコの嬢ちゃんだぜ」
アイヴィーを捕まえている男は、下卑た笑い声を上げた。
「こいつを人質にして身代金をぶんどってやろうぜ」
プリムローズを突きとばした男は近寄って、アイヴィーを値踏みするような、ぎらついた目つきで睨みつけた。アイヴィーもアーモンド型の青い瞳で、キッと睨み返す。
「……私を人質にしても、お金は貰えませんよ」
彼女はわざと反抗的な態度を取ることにより、プリムローズより自分に意識を向かわせたのだ。
「ああ? 何ナメた口きいてんだコラ、調子乗ってるとブッ殺すぞおおおお!」
睨んだ男は威嚇する獣のように怒鳴り声を上げた。そして周りの人々へ振り向く。
「我々は義勇十字団だ! 傲慢な上流階級に鉄槌を下すため、身なりの良い女子供を浚うのだ! 少しでも俺達に逆らえば一族郎党皆殺しにする!」
義勇十字団の脅し文句に屈し、義憤にかられていた一部の人も拳を下ろしてしまった。
「だ、誰か憲兵呼んできなよ。このままじゃ、あの子達殺されちまうよ……!」
「無理だ、下手に動けば巻き添え食らうぞ……」
その時、周囲を威圧することで悦に入った男の顔に、一握の砂が投げつけられた。プリムローズである。
倒れている最中、密かに地面の砂粒を掻き集めていたのだ。
「ぐおお」
不意を突かれた男は、口の中に入った砂を咽ながら吐き捨てた。目にも砂が入ったらしく、両手で目を抑えて悶えている。
「てめぇ……!」
もう一人の男はアイヴィーを捕まえていたので、仲間を助けに行けない。
(プリムローズ様! 私に構わずお逃げ下さい!)
焦るアイヴィーは首を横に振ったり、目で訴えたが、プリムローズは侍女を捕まえている男に、上擦った声で話しかけた。
「あ、アイヴィーを放すっ、放して下さいっ……!」
その顔は青白く、両足は生まれたての小鹿のように震えていた。暴漢に対し、砂を投げつけるのが彼女なりの精一杯の勇気だった。
「貴様の死体を、野良犬に食わせてやる……!」
怒れる砂塗れの男は、プリムローズに向かって殴りかかろうとした。