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プリムローズ・ストーリア  作者: 刈安ほづみ
第二章
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第二章 少女の悪夢 宰相の策略


 シャーロットは寝間着姿のまま、裸足でキャンディス城の薄暗い廊下を走った。

 その表情は恐怖に凍てついて青ざめていた。


「誰か……っ、誰か助けて!」

 波打つ髪を振り乱し、息を切らしながら叫んでも、誰一人として現れることはない。

(……一体何なの……!)

 彼女は正気を保つため、決して背後を振り返らないようにした。


 インクを零したような真っ黒い靄が、シャーロットを追いかけるようにみるみる広がる。巨大な靄は廊下を包み、明かりの蝋燭を次々と消していった。

 とうとう靄は、シャーロットに近づいた。

「ヒッ……!」

 シャーロットは視界を闇に塞がれ、恐ろしさのあまり声を上げることができなかった。気力を失い、そのまま床にへたり込んでしまった。

 彼女の耳元へ黒い靄が囁きかける。


 

 逃げろ、逃げろ、逃げろ……。


 

 掠れた低い声は、何度も「逃げろ」と囁いた。得体の知れないものに話しかけられ、幼いシャーロットの精神は限界に達した。


 

 

「……イヤァッ!」


 シャーロットは叫んで飛び起きた。気が付くと自室のベッドの上だった。

(……悪い夢だったんだわ……)

シャーロットは安堵の溜め息をつく。すると先程、恐ろしさで凍てついた心が融けていくように、両眼から涙があふれだした。


「どうされましたか、シャーロット様。うなされて……」

 侍女頭のマドンナが水を張った洗面器を抱え、シャーロットの元にやってきた。


「マドンナ!」

 小さな王女はたまらずマドンナに抱きついた。マドンナはあらあら、と冷水の揺れる洗面器をベッド脇に置いた。


「黒いモヤモヤが、追いかけてくるの……! 私に逃げろって言ってきたわ……」


 泣きじゃくるシャーロットの頭を、皺だらけの手で撫でながら、マドンナは優しい声で宥めた。


「大丈夫ですよ。私がずっと、お側にいますから……」


「……うん……」


 その言葉に安心したのか、泣き疲れたのか、シャーロットはマドンナの温かい腕の中で、すやすやと寝息を立て始めた。

 マドンナはそっと、シャーロットを横にして布団をかけた。


 シャーロットが悪夢を見てうなされるのは、今夜だけのことではない。バクストン6世がアルカネットへ発ったちょうど三日前から、「黒いモヤモヤの夢を見るから眠れない」と訴えていた。


(近い未来、シャーロット様はご自身の、そしてこの国の命運を揺るがすほどの大きな選択を強いられることでしょう……。いたいけな少女には、過酷なほどの……。せめてその時まで、お側に仕えられたら……)


 窓辺に佇む年老いた侍女頭は、険しい表情で窓の向こうを眺めた。夜空に浮かぶ朧月を、暗雲が覆い隠す。




 城に戻ったエヴァンは愛馬グレースを厩に戻し、ビクターたちと別れると、宰相の執務室の両開きの扉をノックした。


「……入れ」

 扉の向こうから暗く覇気のない声が返ってきた。クレメンス宰相だ。


「失礼します」

 エヴァンは扉を恭しく開け部屋に入ると、手にしていた皮袋を、隅にあった卓上に置こうとした。


「そのままこちらに寄こせ。テーブルが汚れる……」

 扉から突き当り、真正面にある机の席に腰掛けるクレメンスは、僅かに白い眉をひそめ、エヴァンへ向かって手を差し出した。


「はっ。申し訳ありません。一刻も早くお納めしたく、血抜きの時間を惜しみました。」


「構わん、顔さえ確認できれば……」

 エヴァンは革袋をクレメンスに手渡した。革袋はスイカが一玉入っているのかと疑わしきほどに、ずっしりと重たい。


 クレメンスは太い指で革袋の口に括られていた紐を解き、中身を確認した。血生臭さがツンと、鼻腔を刺し、思わず顔をしかめる。

 革袋の中には、エヴァンが斬り落とした、義勇十字団の頭領らしき男の首が入っていた。

「ム……。成る程……」

 そう呟くと、クレメンスは革袋の紐を結びなおして、机にあった空の木箱に納めた。


 何が成る程なのかわからないエヴァンは、訝しげな表情でクレメンスを見つめた。


「……こやつは11年前、役所で襲撃事件を起こした政治犯の一人だ……。顔の傷が手配書の特徴と一致する……。」

 いかつく肥えた宰相は説明しながら、汚れていない手をハンカチで念入りに拭った。


「では、その政治犯が義勇十字団を結成したと?」

 エヴァンは腰を落として床に跪いた。


「その可能性はあるな……。……襲撃事件の主犯格は複数いた。もし、義勇十字団があの事件と関わりがあるのなら、首謀者はこやつだけではないかもしれん。予想よりも大掛かりな組織であるか……」

 クレメンスは使ったハンカチを丸めて、近くにあった暖炉に投げ入れた。ハンカチは暖炉の炎に包まれて、チリチリと焦げついた。


 エヴァンの灰色の瞳は燃ゆる火を見つめる。彼の脳裏に、頬に傷のある男が吐いた最期の言葉が引っかかっていた。

「義勇十字団は平等で自由、同胞はどこにでもいる――奴は死ぬ間際にそう言っておりました」


「どこにでも……? フム……」

 クレメンスの銀縁眼鏡奥の、重たげな目蓋が少し釣り上がった。左手でたるんだ顎を抑え、右手の人差し指で机上をトントンと叩いて考え込む。しばらくして、全身をいっそう膨らませるように深く息を吸った。


「……奴らの狙いというか、次の動きが読めた……。エヴァン、悪いが取引の件はまた後だ。引き続き任務にあたってくれ……」


「はっ。もとより、王家に仇なす国賊を成敗するのが我らの務め。お引き受け致します」

 跪きながら一礼するエヴァンであったが、クレメンスの人使いの粗さに内心、この狸爺! と毒づいた。


「で、奴らの狙いとは……」

 顔を上げるエヴァンに、宰相は平然として自らの推測と、その対策案について明かした。

「――は……?」

 予想外の奇策にイケメンと称される騎士も、盛大に顔を引き攣らせた。


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