野良猫たちの空っ風
猫目一家の背中を追って、閉塞地点から200歩は走っただろう。
すでに城中の地下にいるのだろうし、地下隧道の起点はもうすぐ側にある。
そして、やっとの思いで先行していた猫目一家の背中が見えた。どうやら何かに詰まって前へ進めないらしい。そんなようなことがぼんやりと分かったのと同時に、先から見覚えのある声がした。
「ほう、よく来たな。待ちくたびれたぞ」
その声の主は火付盗賊改方長官・長谷川平蔵宣冬、その人である。
「くそっ、ここにも役人が控えていたか……貴様らは何だ」
「死にゆく者に名乗る名はない。いずれでも良かろうよ」
本来居るべきではない人だ。なんたって四方の隧道は障害物で閉塞していたはずで、本来であれば城中へと侵入を許した時点で、不謹慎ながらも将軍の首は胴と離れ離れになっているだった。
なぜそれがここにいる。そんなことは考えるまでもない。つまるところは、宣冬が協力し合って事前に打ち立てた作戦を完全に無視して、隧道を塞ぐことなくその終点で待っていたのだろう。
手っ取り早いことに変わりはないが、猫目一家もそれなりの手練れである。わざわざ北町奉行所、南町奉行所、火盗改の3者で調整をした意味はなんだったのか。
忠春は、真っ先にそう思ったが、何はともあれ猫目一家が城中に侵入する最悪の事態は防ぐことができた。その点については胸をなでおろさざるを得ないことも違いはない。
「よくも市中で遊びまわってくれたな。そのうち背後から大岡らもやってくるだろう……抵抗は無駄だ。縄に着け」
そんな忠春を筆頭にする奉行所の面々の思惑を慮ることなく、宣冬は悠然と寅次郎の方に視線をやった。
湿っぽかった地下隧道はみるみるうちに乾き、一段と涼やかになっていくような心地がした。
彼女の視線は猫目一家の背後にいる忠春らにもしっかりと届いていた。忠春も後ろに一歩だけたじろいでしまいそうになる迫力があったし、その視線を真正面からモロに受けた寅次郎も肝を冷やしたのかもしれない。さきほどまで見せていた余裕はどこかへ飛んでいき、ゆっくりと腰を落として腰に下げている暗器に手を伸ばした。実力行使である。
「……ほう。そうするのか。もっとも、そんなことはどちらでもよい。者ども、連中をひっ捕らえよ!」
勧告は無駄だと思ったのだろう。宣冬はほのかに口角を上げると、号令した。
彼女の一声を受け、背後に控えていた火盗改の与力・同心・捕り物方など、人員数十名が槍や刺又といった長柄の得物を手にして瀑布のように一斉に襲い掛かった。
猫目一家もなんとか応戦しようと立ち向って見せる。剣戟が隧道内に鳴り響くが、多勢に無勢だし正面・背後から襲われている以上、常に前線に立ち続けて鍛錬を重ねている町奉行所や火盗改の者とまともにやりあえない。
つばぜり合いに背後から忠春らが加わったことで勝負は決した。前にいたもの、後ろにいたもの関係なく、奉行所と火盗改が突きだしてくる刺又や槍に捕まり、ほんの数十秒の間で水を含んだ地面に突っ伏せられていく。
そんな中で最後まで抵抗していた寅次郎は、穂先の壁を躱しながら、宣冬の正面に躍り出た。
「貴様そのもの恨みはないが、武士は両親の仇だ。代わりに死んでもらうっ!」
寅次郎は先手を取ってクナイ数本を宣冬めがけて放り投げた。
通常はそれを避けようと体勢を崩すか、抜刀して弾き落そうとする。
しかし、宣冬は微動だにしない。それどころか悠然と口角を上げ、ほのかに微笑みながら寅次郎の動向を見つめているのみだった。放たれたクナイは宣冬の頬を掠め、血が一筋辺りを走った。
寅次郎はクナイを放り投げた後、地面スレスレまですぐさま体勢を落とし、地面を蹴飛ばして大きな一歩で宣冬の懐に入り込んだ。
そして、その一連の流れのまま、懐に隠し持っていた五寸釘を宣冬の胸元に突き立てようとする。寅次郎自身「殺った」と思ったことだろう。
「実に温いな。私を殺すには貴様は覚悟が足らん。鍛えなおしてこい」
だが、懐から五寸釘は彼女の胸には届くことはない。
寅次郎が五寸釘を抜き出そうとしたとき、既に彼女は抜刀しており、勢いよく振り下ろされた金束が寅次郎の脳天にめり込んでいた。
刃を汚すことなく一仕事終えた彼女は、そう言うと刀をを一回転させて納刀する。
地面に突っ伏したまま動かない寅次郎は、泥まみれのまますぐさま縄を掛けられた。
〇
秘密裡の捕り物であるため、馬鹿正直に起点から御城内へ行くわけにはいかない。甲州街道を内藤新宿方面へ進み、忠春らが本拠地としていた宿屋から地上に戻った。
事件が事件であり、普通の施設では逃げられる可能性もある以上番屋に引き渡すわけにもいかない。とりあえずのところは、一番近くにある南町奉行所内の牢に送り込まれることとなった。
忠春らは日付が変わる前には南町奉行所に到着し、すぐさま猫目一家9名を牢へと放り込んだ。
「今回の一件は詮無いな。これほどまでに簡単にケリがつくとは思わなんだ」
「よく言うわよ。ずっと前から地図まで持っていたくせに手間取ったうえ、今回のために立てた作戦を完全に無視し、抜け駆けして手柄を立てるんだから」
「同じように手間取り、あまつさえ盗賊共を足止めることすらできず城中へ侵入された無能がよく言うな。その作戦とやらは大層大事なものなのだな。次は聞いてやる」
牢の前で「ぐむむ」と忠春は頬を膨らませるが、言い方はいろいろと思うところがあれど、さほど間違ったことを言っているわけではない。
「……義親、行くわよ」
今回に限っては宣冬に完全に助けられた。それに、言い返したことも謂わば負け惜しみだ。むしゃくしゃしたまま忠春は横で苦笑する義親を率いて、牢を後にしようとした時だった。
「ほざけ。いずれにせよ幕府の狗と成り下がったヤツが居なければどうしようもなかったくせに。だいたい、そこで居直る狗っころも狗っころよ。幕府に対する恨みを忘れ、わずかな俸給のために魂を売り渡すとはな。どうしようもない狗よ」
二人の会話を聞いたうえでの言葉だろうが、その対象は主に宣冬の横にいた佐嶋へと向けられたものだろう。
袂を別ったとはいえ、実の弟や、かつての仲間がこうして牢に入れらている様はやはり、居た堪れないのだろう。彼女は前に見たような自信にあふれた様子ではなく、宣冬の陰に隠れようにひっそりと付き従っていた。
「貴様、佐嶋に向けて何と言った」
「……な、何度でも言ってやるよ。ヤツは恨みを果たすことなく敵に迎合した負け狗よ。義憤を果たす我らが死に、両親への手向けを果たさぬ狗が生き延びるとは、なんとも良い世の中だなぁ!」
寅次郎は宣冬の貫くような視線に少々怯みながらも、格子のすぐ側で佐嶋を睨みつけるわけでもなく、嘲るように顔をゆがませた。それに対して佐嶋は特に言い返さず、ただ申し訳なさそうに目を伏せるのみだった。
すると、宣冬は寅次郎に向かって歩み寄り、格子の間に手を突っ込むと、彼の土にまみれた着流しの胸元を掴み上げた。
「……舐めるなよ下郎が。貴様らのように簡単に死に急ぐことは下の下よ。貴様に佐嶋の何が分かる。同じような恨みを抱えながらも、その心を多くの人々のために役立てようとしている。それがどれだけ困難な事なのか分かるのか? いや、死に急ぎ自らの欲求を果たすだけの貴様らなどには分からんだろうな。分かったところでどうでもよい。戯けた話は大概にせい!」
グッと掴んだ拳を突き立てると、寅次郎はそのまま宣冬に尻もちをつかされた。彼は目を白黒させて言い返すこともできない。呆然するほかなかった。
そして、宣冬は座り込む猫目一家の面々を一瞥することもなく、牢を後にしようとする。
「義賊を気取ろうが悪は悪。貴様らが蔑む狗のした糞以下だ。沙汰を待て。お望み通り獄門打首だろうよ……行くぞ佐嶋。こんな連中に付き合っているほど我々は暇ではない。進むぞ」
足早に去ろうとする宣冬を追おうとした佐嶋の目には、涙が溜まっていたのがはっきりと分かった。袂を別ちつつも、どこか彼女の中には猫の目の存在があったのかもしれない。
暗がりの中で孤独に怯えながら自らの過去と戦い続ける日々を終えられ、彼女は本当の意味で猫の目から足抜けで来たのかもしれない、と忠春も感じた。
〇
その後、猫目一家の面々は全員市中引き回しの上、獄門となった。遺体は鈴ヶ森の処刑場に討ち捨て死肉を啄むカラスの餌となったことだろう。
元は御庭番の権力争いが発端だが、その事実は文字通り闇へと消えた。さらに、奉行所に収められた事件帳には、猫目一家が御城へ侵入して将軍の暗殺を企図したという記述すらも残されなかった。この一件はあくまでも、麹町隼町付近の商家に押し入ろうとした際に、南北奉行所と火盗改の協力によって逮捕されたという風に処理された。
そして、江戸は肌寒い秋から、上州からの強い空っ風が吹きすさぶ冬へと季節を変えた。
市中を賑わす大捕物はないにせよ、八百八町に数十万人の人が住む江戸の町からは小さな諍い事が消えることはない。それと同じくして、事件が起こるたびに南北奉行所同士、そして奉行所と火盗改の縄張り争いも消えることはない。
所詮は一つの事件を共同で解決しただけであって、今後もそれが続くというわけでもないのだろう。それぞれがそれぞれに対して「俺たちが江戸で一番」と強く思っている。こればかりはどうしようもないのかもしれない。
そのことについて忠春は別に良いと思っていた。
北町奉行所はいざ知らず、少なくとも武官の誇りを持ち、文官と馴れ合おうとしない火盗改とはそういう関係の方が望ましいとも思えていた。
「火盗改と揉めた」という連日の報告に対して不機嫌にならなくなった忠春を不審がり、「あの時のように組もうとしないのですか」聞いたものもいた。
その際、忠春ははっきりとこう答えたという。
「別にいいんじゃない? あいつらが馴れ合う気がないならわざわざ私たちが誇りを捨ててまで馴れ合おうとする必要はないわ。本当につらくてどうしようもないときに頼めばいいでしょ」
「されど、常日頃から様々な情報をやり取りした方が、後々のためになるのでは」
不審がっていた男はさらに聞いた。しかし、忠春の様子が変わることはない。
「アンタたちは私が着任する前から色んな事件に立ち向かってるんでしょ? だったら好き勝手やってる野良猫に媚びないで、自分たちの勘をどこまで貫いて、着実に仕事をこなしていけばいいのよ。互いに切磋琢磨して努力を重ねることで、拓ける道だってあると思うの。違う?」
そういった忠春は遠くを見ながら笑っていたという。その視線の先に、本所にある火盗改の役宅が、そしてドラ猫ととそれに付き従う元・野良猫の相棒の姿があったかは定かではない。
野良猫たちの空っ風(完)




