侍女の帰還。……普通、筋肉で恋人は選びませんわ
「……はぁ。……分隊長様の、あの爆発した袖……。……素敵でしたわ……」
ある日の休日。サーシャは伯爵邸の裏庭で、他家のメイド仲間たちとお茶会をしていました。彼女は当然のように、先日目撃した「筋肉の奇跡」について熱く語りました。
「それでね、クッキーを一口召し上がった瞬間に、大胸筋が『バシュッ!』と音を立てて弾けたの! あの血管の浮き出し方、まさに神の造形ですわ!」
「……えっ?」
「……サーシャ、あなた何を言っているの?」
メイド仲間たちのティーカップが止まりました。彼女たちの目は、怯えと哀れみに満ちています。
「あのね、サーシャ。普通、好きな人の服が筋肉で破けたら『怖い』って思うものよ」
「そうよ。理想の殿方っていうのは、もっとこう、詩を読んでくれたり、優しくエスコートしてくれたりする人のことでしょう? ……岩みたいな肉の塊と付き合って、どうするのよ。抱きしめられたら骨が折れるわよ?」
「……えっ。……あ、あれ? ……そ、そう……ですわよね?」
その瞬間、サーシャの脳内で、ベルシュタイン邸に来てから麻痺していた「一般常識」という名の回路が、パチパチと音を立てて再接続され始めました。
屋敷に戻ったサーシャを待っていたのは、フラスコを片手に怪しく笑うリリアーナでした。
「……ふにゃぁ。……おかえりなさい、サーシャ。……さあ、分隊長様をさらに『超合金』のように硬くするための、次なる処方箋を書きましょう。……次は僧帽筋を三倍に膨らませて、首を消失させる作戦ですわ!」
いつもなら「素敵ですわ、お嬢様!」と乗っかるところですが、今のサーシャには、その言葉が「狂気の沙汰」にしか聞こえません。
「……お嬢様。……お伺いしてもよろしいですか? ……お嬢様にとって、恋愛における『性格』や『優しさ』の優先順位は、どのあたりにあるのでしょうか?」
リリアーナは不思議そうに小首を傾げました。
「……ふにゃ? ……性格? ……そんなもの、**『バルクの誤差』**に過ぎませんわ。……性格が良くても、大腿四頭筋が貧弱なら、それはもはや人間ではなく『棒切れ』です。……逆に、性格が悪くても、腹筋が六塊に割れていれば、それは『誠実な肉体』と言えますわ!」
リリアーナはさらに熱く語り続けます。
「……いいですか、サーシャ。……愛とは、プロテインを分け合うこと。……幸せとは、共にパンプアップの限界を超えること。……心なんて目に見えない不確かなものより、パンパンに張った上腕二頭筋の方が、よほど信じられると思いませんこと?」
その言葉を聞きながら、サーシャの瞳から、すうっと「筋肉の熱狂」が消えていきました。
「(……あ。……やっぱり、このお嬢様……おかしいですわ……)」
あまりにも単純で、あまりにも当たり前の結論。
筋肉は、服の上から見えればそれでいい。
筋肉は、愛の基準ではない。
優しくて、服を破かない人の方が、絶対にいい。
「……お嬢様。……私、目が覚めましたわ。……私、分隊長様への想いは、ただの『一時の気の迷い(パンプ)』だったことに気がつきました。……これからは、もっと……その、筋肉が普通な方を探そうと思います」
「……ふにゃっ!? サーシャ、何を仰いますの! ……筋肉を捨てて、何で恋をするというのですか! ……質素な……質素な生活(カタボリックな人生)に戻るおつもりですか!?」
「……はい。……カタボリックでも何でも、私は普通の人間として生きたいのです……」
こうして、ベルシュタイン邸で唯一の「真人間」へと戻ったサーシャ。
絶叫するリリアーナを冷ややかな目で見守りながら、彼女は今日、数年ぶりに「筋肉のついていない普通の紅茶」を淹れるのでした。




