糖分方は幸せで体を締め付ける
ハリネズミアタック。
「しょうがねーな、お前の好きにしろよ」
それは彼なりに真剣な、彼としては苦渋なる決断ではあったのだが。
「そうですか、ありがとうございます。そうでしたら、さあ!」
兄の迷いなど一切受け付ける様子もなく、メイの方は至って溌剌とした様子で彼に次の行動を支持してくる。
「私の足につかまってくださいな、さあさあ、最早ためらっているおヒマはございませんよ!」
いますぐにでもベランダから、地上から遠く高く離れた地点から問答無用で感情のない重量区へと身を晒そうとしている。
そんな彼女の雰囲気を読み取り、すでに反発する気力すら失いかけていたルーフは溜め息を一つ。
「わかったよ、わかってるよ、ほら………」
最後の最後に微力ながらの抵抗を見せようと、しようとした所でそんな事は無意味でしかないと、ルーフは虚脱感のままに妹の足を掴む。
足首の辺り、アキレス腱を圧迫しないように気を遣い、くるぶしの硬さの上で指を食いこませていく。
細々と必要最低限の肉と骨しか内蔵されていなさそうな、一切の無駄がない妹の体の一部を兄は慣れた手つきでしっかりと自分の体に密着させる。
はて? はたして彼らは、この小さくてあまりにていない兄妹は一体、これから何をしようと言うのだろうか。
ヨシダが興味津々に見ている。
他人の好奇心をルーフは頭痛の中で忌々しく噛みしめる。
「ようし!」
この現場において一番の注目を浴びているはずのメイ。
彼女の方は人の視線など一切気にする素振りもなく、そのような余裕もなく、悠々と両腕を広げて。
ノースリーブの明るい色彩に染められている、いかにもお屋敷のお嬢様が夏休みにひらめかせていそうなワンピース。
そこからいかにも健康的に、いたって健全なように左右から伸びている幼女の細腕。
春日と呼称される種族、彼らの幼生に共通して彼女の体にも柔らかい体毛が生い茂っている。
そうだとしてもその白さはどこか異様で、一体彼女はどのタイプの春日なのだろうか。
ヨシダが勘繰るそのあいだ、メイの腕からはもう一組の翼が、ちょうどひじの関節の辺りからキラキラと、薄氷のように出現して。
風が強く吹き荒れ、彼女の白く輝くおさげが右に左に弄ばれる頃。
耳元のヘッドホンを通り抜けたり、兄が掴んでいる足首の辺りだったり、外見から視認できる分でも合計四組ほど。
魔法の翼が幼女の体に出現し、今すぐにでもその羽根の一本一本を灰笛の空気に晒したいと、今か今かと膨れ上がり。
ついにその時は来た、と。
「とうっ!」
幼女の体は安定感のある足場から乖離して、ワンピースの裾が大きくひるがえる。
小さな体が重力から離れていって、そのまま───。
そのまま、彼女の体は重力に逆らい始めた。
「おおー!」
大して特別な現象でもないはずなのに、幼子が頑張ってジャングルジムを登りきったのをたまたま目撃したような感覚を抱いたヨシダは、窓越しに大げさな拍手をする。
「助走をつけることもせずに飛ぶことが出来るのかあ、すごいなあ」
風の音以上に羽ばたきによってかき消されてしまう、窓の内側からこっそりとした感想を漏らすヨシダ。
しかしもうすでに内側からの言葉など必要としていない彼女は真っ直ぐ外の方を、鈍色に鈍く光る灰笛の空へと翼を向けて。
ルーフが浅く呼吸をする。
軽々とした跳躍の元、彼は妹の足首にしがみ付いたままの恰好で重力から離反していった。
バサバサバサ、バサリと飛び去っていく兄妹達。
その後ろ姿を見送るヨシダは感心しつつも、
「あんなことできるなら、最初から飛べばいいじゃないのか……?」
最後の最後に、誰に向けるわけでもなく答えが返ってくるはずもない疑問文を、一人呟いていた。
同じ世界、同じ土地、同じ国の中にある同じ年の範囲内にて。
「羽があって飛ぶことが出来るならば、やっぱり僕らとは違って色々と楽なことがあったりなかったりするのでしょうか?」
どこかしらの集合住宅内に生息する一般男性とほぼ同じような、そうであってもやはり感情の向かう先は決定的に異なる疑問文。
キンシと自らを自称する若き魔法使いが、地面から遠く離れた場所にてぽつりと、何となく口にしていた。
「自分の意識で好き放題できる魔法の力が備わっているだなんて、とても便利そうですよね」
後輩の思い込みに対し、先輩魔法使いであるオーギはため息交じりに訂正を加える。
「そういう訳でも、ないんだよな。大体、お前の言っていることは、所々違っていて……」
彼は時々後方に気を配りながらも、キンシの間違いを一つずつ解きほぐしていく。
「春日のつばさってのは俺たち魔法使いが使う魔法とは違っていて、もちろん、魔術師の奴らがつくるような魔術とも異なる。本当の意味で、純粋に遺伝子に組み込まれた魔力なんだ。つまり、」
仕事終わりにもかかわらず、どこか異常なまでに張り切って解説口調を続けるオーギ。
普段の彼らしくないそのカラ元気さの原因。
それはミッタ以外の、もうすでにおんぶ紐から解放され、自分の足で採掘現場に立っている幼児以外。
ここにいるすべての人間が理解して、いる訳でもなさそうであって。
「お兄さーん」
先輩魔法使いの異常の原因はすぐ傍まで、
「お兄さーんっ」
鉄の足場など不必要と、己の体から生じる翼を使って宙を真っ直ぐ移動してくる。
一人の若い女性が魔法使いたちの元へとやって来た。
「シマエさん」
キンシは女性の名前を呼び、まずは業務的な確認を求める。
「どうですかね、回収の方々はあとどれくらいで此処に来てくれそうですか?」
彼方の死骸をそのまま現場に放置しておくなんて、そのような訳にもいかず。
もう二度と動くこともないその塊を放置して置けば、色々とよろしくないものが集まってくる。
それはそれでこの世界の自然にのっとった法則の上にある現象ではあるものの、それだと人間の生活にはいろいろと支障をきたす。
せっかく己が支配の下におけるまで貶めることのできた魔力的物体。
よもやそのまま、腐って消滅するのを指をくわえて待っていられるほど灰笛の人間は、ことさら魔法使いは寛大な心を持ちあわせておらず。
そうであれば、そうなれば然るべき処理をすることが必要になり、そのためにはまず生み出した死体を回収する専門家が必要になる。
キンシ達戦闘員を含め、発掘現場には既に通常勤務の魔法使いたちが安全を確認して、各々の判断物と死体の処理を始めていた。
「そうねえ……」
シマエと言う名の女性は現場を横目で見やりながら、待てども待てども来ない業者に少しだけ怪訝さを浮かべる。
「今日はなんだか少し、遅いような気もするわね。もうみんなで勝手に処理しちゃって、あとは回収されるのを待つばかりなのに」
物憂げに溜め息を吐く、その姿は年齢に則した色香が存分に含まれていて。
男性が一人その甘さに痺れる隙すらも与えず、彼女はすぐに年齢相応の落ち着きを払い、口元に子供っぽい不満を浮かべはじめる。
「それにしても、ヒドいと思わない。こんなのブラックよ真っ暗よ暗黒ダークマターよ」
いきなりまくし立てるように何を言いだすのか。
オーギが理解を追いつかせるよりも早く、シマエは自らの不満を次々と舌の上に並べたてていく。
「あんなに大きくて黒々としている彼方を相手にするのが、オーギ君を含めてたった三人しかいないだなんて。オーギ君への負担が大きすぎるわよ、ホントにわたしいつも不安になるんだから」
ホイップクリームのように軽やかな翼を華麗に操り、シマエはそのままオーギの元へと顔を近付けてくる。
「オーギ君、大丈夫? どこも怪我していない?」
「や、やめろ、大丈夫だから。だから、そんな近付くんじゃねえよ」
戦いの終わりに更なる疲れを。
言い訳じみた憐れみ少々、喉元を焼き付ける嫉妬心が大匙六杯ほど。
胸やけ気味の感情を出来るだけ表に出さないように、キンシは努めて平常心を保って男女の元へと近づいていく。
トゥーイもその後に、自然な流れでミッタも言葉を必要とすることなく後に続いて行った。
寒いとお風呂に入りたくなりますね。




