怪しいアプリにご注意ください
正体不明の物をよく使えますね。
突然に唐突に、不意に予想もしていなかった、そんな所からようやく身に覚えのある匂いが言葉の端から漂ってきて、ルーフは驚きながらも心臓を高鳴らせずにはいられなかった。
「いま、………その、若い魔法使いって」
最初はモゴモゴと、芋虫が葉脈を喰らう程度の動きでしかなく。
しかし彼自身にも抑制が効かない程のスピードで、腹の中に芽生えた疑問は次々と実態をえ始めて。
「その魔法使いの名前って、もしかしてき」
この時ばかりは強く鋭い確信の中で、少年がとある人物の名前を口にしようとする。
しようとした、ちょうどその時。
どこかしらから、複数の場所からけたたましいサイレンが鳴り響いた。
耳をつんざく、およそ肯定的な物とは思い難い、文明社会のぬるま湯の中で鈍りに鈍りきった人間の危機察知能力にきつい鞭を与えるような。
絶対に枕元では聞きたくないような音、そんな音がようやく生まれつつあったぬるい安息を問答無用で破壊していく。
「うわあ?」
ある程度鼓石を、側頭部の結晶体を修復し終えてあとは安静に放置するばかり。と体の緊張感を解いていたヨシダは、サイレンの音によって弛緩しかけていた体の筋を再び弓の如く張りつめる。
「ななな、何?」
瞬間的に体の中を意味不明が遅い、あたふたと体を右に左に曲げるヨシダ。
しどろもどろと慌てふためいている生き物というものは、相乗して他の個体の不安をあおるものか、あるいは逆に他人の心に状況にそぐわない程の冷静さを与えるものなのか。
今回のルーフの場合、どういう訳かうまい具合に後者が当てはまったらしい。
彼は自分でも奇妙に思えるほどの的確さで、何処も負傷していない健康そのものの聴覚を働かせる。
大して時間もかからぬうちにサイレン音の出どころを感知することが出来た。
「何だこれ」
そして結局、音の正体そのものは理解できずに何となく、ブルブルと震動するスマートフォンのロックを解除する。
「アラーム? そんなの設定………、あ」
「お兄さま?」
スマホから、板チョコのような形をしている通話機器を媒介にして部屋の中に鳴り続ける音。
あまり好ましくない音程にそろそろ我慢が効かなくなってきたメイは、しかし心の中の穏やかさをギリギリの瀬戸際で保ちつつ、スマホを凝視している兄の事を見上げる。
「あの、その音は一体?」
「ああ………、これな」
ビクビクと振動し、その薄く小さい期待の何処に内蔵されているのだろうか、いまいち判別しづらいスピーカー。
そこから心なしかどんどんと音を増量しているような気がする。
そんな警告音を一身に受けているはず、そのはずなのに煩わしいほどに平然としてるルーフ。
彼はまず最初に妹へ音の正体を悠長に教えようとしてくる。
「昨日インストールしたアプリから、なんかの警告音が出ているんだよ」
警告音がうんぬんかんぬん、詳細は理解できなくとも目的は十分に身に染みている。
音が伝えようとする内容が何であれ、地面が裂けたり大量の暴力的な泥水が襲ってきたりだとか、それらの意味が含まれていようとも。
メイはとにもかくにも、とりあえずは鼓膜を伝って己の心理を著しく侵害してくる音をどうにかしなくては、と早々に判断する。
「そうなのですねお兄さま、そうでしたら早く、今すぐに早く、まずはその音を止めてくださらないかしら」
異様さの中であえての丁寧さを演出してくる妹。
二つの鮮やかな瞳がまさしく炎のようにギラギラとしているのを見て、さすがのルーフもすぐに彼女の要望に答える選択をすることにした。
「えーっと」
他人の行動によって以下省略。ヨシダのほうもいかにも大人然として、自分のポケットにしまっていたスマホを取り出して音の発声を中止させるコマンドを打ち込む。
「これで良し」
ヨシダが小規模の満足に口元を緩める、それと同時に部屋の中は再びの静謐さを取り戻していた。
とは言うものの、今しがたあれだけの警告を骨身に響かせられておいて、よもやこのまま何事もなかったように日常に戻るなどと。
そのような豪胆さが兄妹達に有る筈もなかった。
「それで、お兄さま、いまのはいったい何だったのですか?」
甘い静かさを耳に浸しつつ、その瞳にはいまだ不安を募らせているメイがもう一度兄に向けて問いかけてくる。
妹の真っ直ぐな瞳を受けながら、その視線を交わすことなくルーフはスマホの電子画面をいくつかスライドする。
「すまないが………、実のところ俺にもよく分かってないんだよ」
「と、言いますと」
「昨日この町に来たばかりの頃、昼飯を食べるためにこれを開いたときにこのアプリをいれて、そのまま何に使うのかもよくわからないままだったからな………」
アプリだとかインストールだとか、ギリギリ分かる用語が登場してくる中で、しかし内容そのものを理解することはメイには困難を極める事だった。
「んーと? その携帯電話で昨日、いつの間にか良くわからない機能を拾った、ってこと?」
メイとしては思いついたことそのままを適当に並べ立てただけにすぎなかった。
のだが、しかし、彼女の予想に反して男性たちの反応は妙なまでに肯定的であった。
「ふむ、その言い方は中々に妙を得ているね」
ヨシダは教えている学生がちょうど自分の思考とフィットする回答を言ったかのような、業務的に嬉しそうな表情を浮かべつつ、自らの手の中にあるスマホの画面を彼女の方に見せてくる。
ルーフが使っているものよりも少し大きめの機体、構造上そのぶん画面の面積も広く大きくなっている。
縦に細長いテレビ画面のような、若干目に優しくない明度を保っている画面の中。
そこにはいくつかの文字が並んでいて、一番上に異界も警告文っぽい雰囲気をまとわせている一文が表示されている。
「警報 彼方が出現しました レベルは三の模様 場所は───」
所々理解し難い、彼女にとってはあずかり知らない単語が登場し、その辺を端折ったとしてもおおよそにその程度の情報をその身に受けれることは出来た。
「警報って、その……」
言いよどむメイの代わりと言うほどの心遣いがある訳でもなく、ヨシダは彼女よりも先んじて事情についての説明を並べたてる。
「これは言わば防災アプリみたいなものでね。この灰笛のどこかに彼方が現れたらこうして、警報を鳴らして僕たち市民に逐一教えてくれるってわけ」
そこで自分のスマホを兄妹達からは無し、まるでそれを生まれて初めて目撃したかのように、しげしげと電子上の情報を眺める。
「何時からサービスを開始したのか、それは誰にもわからない。スマートフォンが世に浸透するより先、みんながあの昔懐かし二枚貝タイプのケータイを使っていた頃。もしくはそれより先の時代には既にシステムが考えられていたり、いなかったり」
いきなり何の話が?
メイがぽかんとしているのにも構わず、ヨシダはどこかワクワクとした面持ちで知っていることをあけすけにしていく。
「なんにしても、君たちが昨日そうしたように、この灰笛内で何かしらの携帯機器を所持している場合。もしくは所持した状態でこの灰笛に来る、って言った方が君たちの場合に近いかな? とにかくいずれかの状態でここにいると、いつの間にかアプリインストールの候補にその機能が追加されているんだ。料金を取られることは基本的にあまりない、限りなく無料に近しい形で特に表沙汰にされるトラブルも起こしていない」
ヨシダはそこでフッと語り口調を止める。
「以上、灰笛七不思議の一つ、正体不明のアプリでした」
何の話なのよ。
メイは色々と納得しない事ばかりであった。
そんな溜め息の隣。
ルーフはずっと画面を見続けていて、その瞳にはどこかキラキラとした輝きが灯っていたことを。
彼の隣にいる彼女は気付いていない。
珍しいことがしたくなります。




