かつての争いは時間の中に溶けてしまうのでしょうか
今更の登場。
逆らい難く、否定のしようもなく、魔法の鉄の箱は集合住宅の壁へと直進して。
やはり途中で無理矢理脱出なりなんなり図るべきだったか? そうなると妹をどうするべきだったのか。
ルーフは過ぎた時間の事を夢想して、メイの方は若干動向を広げて。
そんな感じの彼と彼女を乗せた箱は、ついに他人の住宅の壁へと!
「やっぱりなんか、ダサいよなー………」
本音はしっかり含まれてはいる。しかしそれ以上に恐怖が喉元を締めに絞め、隠しきれない震えが少年の語尾に情けないビブラートを彩る。
「あら、そんなことはないと思いますよ、お兄さま」
兄の言葉の震えをしっかり聴覚器官で受け取りつつも、メイはあえて否定の意を唱えた。
「たしかに、こうすれば私たちは一生けんめいにあくせくと、階段をのぼらずにすみますよ」
それはその通りではある、その辺については同意しかないとルーフの内部がぶつくさと呟く。
「けどよ」
しかし内部だけでは受け止めきれそうにない、無遠慮な本音がせき止めきれずに口からこぼれ出してくる。
「こんなにも直接、そのまんま登るなんて、思ってもみなかったからよ」
そんな事するべきではない、そんな事をしてどうする、しなければいいのに。
そう、理性と冷静が声高に忠告してきていて、だがそれらの意識を甘美に無視してルーフは自らの身を収めている箱の縁に立ち、首を少し傾けて箱の外を見る。
箱の外は何も無い、草も土もアスファルトさえ無い、何にも無い空気だけ。
箱の底はもうすでに地面から別れを告げて遥か高みまで、人間の頭蓋骨を粉々に出来るほどの高度を、中身に兄妹を含んだまま、何一つとしてためらいもなく得まくっていた。
ここはやはり魔法使いの巣食う町。人を運ぶための小型エレベーターもまた、素敵に不思議で気持ち悪い魔力エネルギーで完全な浮遊をしている。
なんて言うことはなかった。
ルーフは何もないさびしいが過ぎる空間から少しだけ体を離す。
そうすることによって彼の耳にはもうすっかり聞き慣れてしまった、細くこまかい金属の連なりが発する摩擦音が嫌でも耳の穴に侵入してくる。
音に誘われるわけでもなく、他に見るべきものもなく消去法的にルーフはそこへ。一応の確認も必要なく、紛うことなく箱の一部として存在している鎖の集合体を見つめる。
ジャラジャラ、ジャラララ。
鎖の塊はまるで意識の通った生き物のように動き続けている。
そして器用に一時も乖離することなく、その体の一部に重たい肉と骨の塊を乗せたまま、力強く重力に逆らい続けて集合住宅の壁にへばり付いている。
何の脚色も演出も嘘偽りもなく、まさしくそのまんま読んで字の如く、鉄の箱は在るべき重力に逆らい、それを続けている。
鎖の集合体、その一本一本を壁に密着させて空中を突き進む。
その姿はまさしく、海底を一匹勇猛果敢に突き進むタコのようである。とルーフは道具に対して賞賛なのか侮蔑なのか、自分にもいまいち判別がつかない言葉を送りたくなる。
「いやはや、なんというかですよね」
設定上の都合により、必然的に前方を進むことになっている箱の中で、メイが明るく笑うように呟いた。
「ここにいると色んなおどろきがいっぱいありすぎて、疲れちゃいますね」
文章だけならば朝もやのように感情が掴めず、そうであるが故にいくらでも自分好みの解釈を作成することが出来るのだが。
しかしこうして肉と骨の伴った音声にしてしまうと、どうしても本人の血液の香りが強すぎて、そこには解釈の余地を与えられることは無く。
「ああそうだな」
だからルーフには、他人を慮る言葉しか選ぶことが出来なかった。
「色々ありすぎて、頭が爆発しそうに楽しいよ、俺は」
矮小なる人間共がせせこましい感情と本音のやり取りを行っている、その間にも道具たちは己にとって何よりも高尚であると確信してやまない使命をしっかりと果していた。
「到着しました」
二つの箱の内の一つ、前方を先導していたメイの乗っている箱がとある地点、もとい空間にてその動きを停止させる。
「206号室です」
何の迷いも逡巡もなく、自らの意見を他人に呈することが出来るのはやはり感情の伴っていない機械ならではの技なのか。
とにもかくにも自分たちはついに目的地に到着したらしい。
「ここが」
メイが体を乗り出して辿り着いた風景をより子細に視覚しようとする。
「どうやらそうみたいだが………」
ルーフはようやく目の前に異物として転がっている目的を達成できるのかと、焼いた骨のように軽い達成感に浸食されそうになって。
「本当にここなのか?」
だがそれ以上の疑問点が奥底から針を伸ばしてきているのを感じる。
「どう見ても人がいるようには、っていうかそれ以前に」
ルーフ個人の要望としては、てっきりこの道具は自分たちをその206の玄関先にまで連れて行ってくれるものかと、それこそ魔法じみた都合のよさを期待していたのだが。
「ここって階段の踊り場………」
しかし彼の期待は外れ、連れてこられたのはとても人が住むような空間ではない、それでいて人の気配が色濃く香る空間の隙間。
「ここからは自分であるいてくださいってことかしらね」
早くも現実を受け止め始めていたメイの、体の動きに反応したのかどうかは判断できないが、彼女の乗っている箱の一面がパカンと展開する。
開かれた面はそのままお決まりのように形状を変化させ、パタパタと簡素な階段を作成する。
そこから降りやがれくださいましどうぞ、ということなのか。
不思議に素敵に、意味不明で気持ち悪い鉄の箱に別れを告げた兄妹達は、そこから自分の足で移動の最後の仕上げをすることになった。
「えーっと………、201、202………」
ルーフは人差し指をピンと立てて、間違いがないように甲斐甲斐しく一つずつ数字を確認して。
そしてそこを見つけた。
「あった、206」
その扉はそれ以外の全部と共通していて、なんの力も通っていない普通の扉であった。
せめて地獄の門のようにおどろおどろしければ、まだ救いのある面白みが見いだせたはずなのに。
なんて、下らない願望はどうでもよくて。
「お兄さま、荷物はちゃんと持っていますか?」
妹が事の最終確認をしてくる。
「ああ、ちゃんと持っているよ」
片の腕に段ボールと閉じたビニール傘。
肉に食い込む負担を今だけはやり過ごしつつ、ルーフは誰にも聞こえない程に浅く短く息を吸って、206号室の電子チャイムを鳴らした。
魔法使いの家に鳴り響いたものとは異なる、耳鳴りに近い音色が人けのない湿った空間を振動させる。
誰もいなかったらどうしようか? 荷物を玄関先に置いておけばいいのだろうか。
その方が気楽に済みそうだ、そうなってはくれまいか。
ルーフは願った。
「はーい?」
しかし願いは叶えられず、扉の奥からくぐもった声が聞こえてくる。
大人の、男の声である。
数秒待ったところで施錠が解かれる音。
そして扉が少しだけ、防犯用のチェーンが許す範囲まで。
ごくごく狭い、幼子の体すら通り抜けられない程狭く開かれて。
だがそれでも十分すぎるくらいに、内部にいる人間がルーフの目の前に出現する。
「はい、何ですか? 君たちは一体?」
その疑問はもっともで、あって然るべきものでありルーフにはそれにすぐさま答える必要が、義務といえる程に存在していたはずなのだが。
しかし彼にはそれがどうしても出来なかった。
何もこんな所で持ち前の人見知りが猛威を振るったとか、そんな事ではない。
むしろそうであったならば、どんなに救いがあっただろうか。ルーフは意識の彼方で有る筈のないタラレバを乞い願う。
「あれ、君たち?」
扉の奥にいる成人男性が軽く首をかしげる。彼の中にも疑問点が生まれているのだろう。
その疑問点は正しいですよ。とルーフは声高らかに教えたくなる欲求に駆られる。
しかしそんな事をしてはいけないと恐怖心が同時に静謐なる悲鳴をあげた。
腹の中で鳴り響く複数の声。
今日は酔っぱらってないんだな。だとか。
あの時はよくも妹にからみやがったなこの酔っ払い。だとか。
いや? 今日は酔っぱらっていないからどう呼ぶべきなのだろうか? ああそういえばヨシダという名前なんだっけ。お前ヨシダっていうのか。だとか。
そういえば「綿々」では結局、何を注文したんだ? あの店のおすすめ料理は? だとか。
それはもう沢山の、大量の、溢れんばかりの言葉が肺の中で炸裂して。
ついには喉に競り上がり、そのどれか一つが下の上に転がり出でてきそうになる。
その瞬間に、ルーフの服の裾ををメイが強く握りしめる。
爪の引力をどこか他所事のように感じながら、ルーフは噛み殺した呼吸の中で妹を見下ろす。
「……」
メイは沈黙の中で、そっとさりげなく人差し指を唇に押し当てて、「今は静かにしていなさい」のポーズをつくっていた。
ああそうだな、お前の言うとおりだよな。
ルーフもまた沈黙を貫いて、妹の意見に同意することにした。
そしてしゃかりきに勇気を振り絞って、携えた段ボールをヨシダという名の顔が赤くない成人男性に向けてかざす。
「えっと、おはようございます。シグレ、さんからその、これをお届けに来ました、です」
今の自分に出来得る精一杯の平常心。
他人からしてみればなんてことのない表情の一つ。
「あーはいはい、そう言うことね」
成人男性は一切の嫌悪感を滲ませることもなく、いたって普通そうな人間のように笑みを浮かべる。
「まさか子供が届けに来るなんて思ってもみなかったから、少し驚いたよ。ちょっと待ってて、ハンコを探してくるから」
扉の中に、206号室に住むヨシダという名の成人男性は、玄関先の彼らに待機を要求して何かを取りに奥へと戻っていく。
その後ろ姿、頭部に巻かれた包帯。
あの後木々子の店主は、確かヒエオラといったか、あの人は彼をちゃんと病院に送ったのだな。
と、ルーフは這い登る不安と思い出される怒りと苛立ちを一人、呼吸と共に誰にもわからぬよう雨の匂いに溶け込ませた。
お疲れ様です、忘れていたわけではありません。




