御使用の前に安全確認を御願い致します、それは任意です
必要だったのでした。
その道具の使い心地は決して百点満点に良いというわけではなく、しかしながらきっかり零点底辺と断言できるほどでもなく。
つまりのところ微妙、といった中途半端な感想しか述べられそうにない。ルーフは鉄の箱の内部でユラユラと揺れながら、一人道具に対する非公開のレビューを打ち込んでいた。
「うふふ」
ルーフとは異なるもう一つの鉄の箱、それは彼らの元に一番最初に出現したそれの事なのだが、それに乗っているメイが一人口元に笑みを浮かべている。
妹の表情に軽やかな疑問を抱いたルーフは、足元の不安定をやり過ごしながら彼女に質問してみる。
「どうしたんだよ? さっきからずっとニヤニヤして」
「ああ、あのね、その……すこし思い出して」
体の小ささゆえに箱の中で一定した安定感を確立している彼女は、自らの表情を指摘されてほんのり恥ずかしさを浮かべる。
「なんだかこれって、ものすごくちいさなエスカレーターみたいで、おもしろくって」
「ふーん、………へえ?」
それの何が一体面白いというのだろうか。ルーフの理解は彼女に追いつくことが出来ず、やんわりとしたはてなを噛み潰しながら沈黙するしかなかった。
結局のところ道具を使うことを許諾した兄妹は、しかしそれが世に広く伝搬しているところの「御一人様専用」であることに困惑して。
さてどうしようか、やっぱり階段で、自分の肉がついた足でどうにかしようと諦めかけたところで。
「pi--,pii---」
鉄の箱から音が、いかにも機械然としたメロディーが炸裂したかと思うと、どこからか待機していたとしか思えない程のスピードで、別の箱が彼等の元に登場したのであった。
「御手数おかけします、他のお客様はこちらで対応致します」
もう一つの箱、その時はまだ鉄板の形をしていたのだが、それはあたりまえの事として同じ声でルーフに自らを使うことの推奨をしてきたのだった。
という訳で、兄妹は互いに別個体の魔術道具に体を搭載し、目の毎に広がる迷宮じみた集合住宅に挑むことになった。
………なったのはいいのだが。
「なんつーか、よお………」
妹の微笑みから目を離し一度現実へ、自分一人のみの視界に眼球を満たした瞬間、ルーフの内にはどうしようもなさそうな感情がネトネトと生じてくる。
「いい感じにダセーな、今の俺達」
こんな所で虚構を繕う意味もなさそうに、ルーフはいかにも気だるそうに思ったそのままの事を述べてみた。
素敵に機械的なサービスの元、鉄の箱たちは現在その内部に兄妹達を搭載した格好で、ゆっくりとアスファルトの上を文字通り這っていた。
ゆっくりと、のんびりと、箱の底で鎖による金属質な摩擦音が雨音の中に空しく響き渡る。
緩慢な動きの元、二セットの箱たちは煩わしいほどに無感情で兄妹を集合住宅の敷地内へと誘っていく。
そのことは、まあ別に、良い事なのかもしれないが。
「遅っせー………」
自分の心内にも間違いなく芽生えていた言葉を実際に兄が口にしたのを聞いて、メイは気まずさの中で確信を得てしまう。
「……歩いたほうがはやいかもしれませんね」
彼らがこぼした感想の通り、鉄の箱はようやく地面の上を歩けるようになった幼子ほどの速度しか出そうとせず、つまり兄妹にとっては十分が過ぎるほどに移動速度が遅かった。
まだそんなに距離を経てはおらず、だからこそルーフは仮面の下で眉間にしわを寄せずにはいられなかった。
「これ大丈夫なんか? もっとスピードあげられへんのか」
苛立ちが脳味噌から取り繕うための冷静さを僅かながらに摩耗させたのか、ルーフはついうっかり自分の身に一番馴染む言葉遣いを使いかけて。
「速度設定をします」
その声に誰よりも早く、まるで自らの存在意義を主張するかのように、鉄の箱が反応を示してきた。
「任意の速度を音声にて入力してください」
「へ?」
それが自分の声によってもたらされた反応であること、質問文が自分に向けられたものであること。それらの事に気付くのにルーフはしばし、数十秒ほど時間を費やして。
それでもアクションを起こせそうにない彼に対し。
「お兄さま、えっと、移動の速さをかえられる? みたいですよ」
メイがすかさず彼に幾らかわかりやすくした補助の言葉を投げかけた。
「ああ、そういうことか」
ルーフは納得しかけて、
「変えられるって、どうすりゃいいんだ?」
すぐに次の疑問に喉の奥を圧迫される。
箱は利用者の要求を受け止めるための待機モードに突入してしまったらしい。ただでさえ欠伸が出そうだった速度すらも失い、今のところは完全に動作を停止してしまっている。
ルーフはこのままこの箱から飛び出し、逃亡を図りたくなる欲求を奥歯の辺りで噛み潰し、苦々しさを無視して飲み下し、どうにかこうにかして思考を続けようとする意思を引きずり上げる。
「ん、っと………。どう言えばええのか………」
遅いだとか早いだとか、体中小、最大最少。その他諸々。
様々な単語が彼の脳裏を駆け巡り、そのどれもがいまいちしっくりこずに流れ去って行って。
傘の端から零れた雨粒が少年の鼻先を濡らした頃合いに。
「とりあえず、急いでいるんだ」
彼はそれがはたして速さを意味する言葉なのかどうか、自分でも納得がいきそうにない物を結局のところ選んでしまい。
だからこそ、そんなものは無視されるであろうと、誰よりも彼自身が確信を抱いていた、そうであったはずのものを。
「了解しました」
意外や意外、魔力によって稼働する鉄の箱はそれだけの言葉で十分だったらしい。
「最速モードが利用者によって入力されました、確認します、承認しました」
「へ、え?」
当の利用者を置いてけぼりにして、魔法の鉄の箱はそれまで無機物らしく静謐だったその体を、およそ生き物らしくないスピードに満たし始めた。
「え、え。うわああー?」
口を開けていたにもかかわらず、自らの歯が舌を噛まなかったのは幸運であった。なんてことを考えたのかそうでもないのか、判別する余裕すらもなくルーフの体は後方に自然の作用として引っ張られる。
箱の縁に腰をぶつけ、体感を失いかけたその体を懸命に支えながら、ルーフは現実に発生している現状を何とかして整理整頓しようと試みる。
「目的の番号が入力されていません、目的の番号が入力されていません」
箱は彼の狼狽をあおるように、機械っぽい音声を繰り返すばかり。
そういえば、とルーフは考える。
この音はどこから鳴っているのか、まさか金属の塊から直接という訳でもあるまい。
だとすれば、たった今地面を猛烈に駆けている鎖の塊の辺りが怪しいかもしれない。
などという、とてもじゃないが今考えるべきではないようなことを、流れゆく景色を受け止めきれない眼球の奥底で、少年はぽつりと考えた。
大概はごみ箱に捨てられてしまいます。




