赤色レンズに見える世界は
使った後はきちんと手を洗いましょう、
それは、小さな。
「ハ (@Д@?)」
「そうです小型の」
ミッタの疑問にトゥーイが、おそらくは何の感情もない表情のままに返事をする。
それは、小さな小さな、どこにでもありそうな針であった。
と言っても裁縫針とは異なり、細やかに湾曲しているそれは簡単な作りの留め具によって固定されている。全体的な形としては長円形の、鋭い先端が露出することなくしっかりと収納されている。
いわゆる。
「いわゆるですね、これは安全ピンですね」
そうなのである、キンシの手の中、人差し指と親指の間に挟まれているのはどこにでもありそうな、それこそその辺の百円均一にまとめ売りされていそうな。何の変哲もない安全ピンであった。
はて? さてはて? 何故になにゆえに?
前方真っ直ぐの位置に佇んでいる若き魔法使いはわざわざこんな所で、あまり軽くは無さそうな鞄の中からちんまりと一つだけの安全ピンを取りだして。
「どうでしょう? なかなか素敵な安全ピンだと思いませんか? 思いませんかそうですか」
こうも自信満々に、いかにも意味あり気に意気揚々とそれを自分たちに見せてくるのか?
ミッタにはまるで見当がつかない。
相手の反応を特に窺うこともなく、キンシはにこやかな表情で左側の手袋を剥ぎ取り、上着のポケットに雑に突っ込む。
はたしてこれから何が行われようとしているのか、ミッタはいよいよ意味不明を深めていく。
のだが、しかし、一つだけ気付くことのできる違和感があった。
それは自分の体を背負ってくれているトゥーイの、彼の呼吸が僅かながらに乱れたこと。
ほんの僅かな揺らぎ、それこそ今のミッタのように直に体を密着させる格好でも作らない限り、その殆どが気付くことも出来なさそうなほどに。それほどに微妙な変化でしかない。
その揺れが一体何なのか、何を意味しているのだろうか。
ミッタには解らない。
解ろうとするよりも早く、やはりキンシの方が先に自分がしたい行動を開始する。
片手で軽々と容易く安全ピンを屈折させ、留め具から針を開放する。
たゆみと反発力によって露わになった先端。細々としていとも簡単そうに折れ曲がってしまいそうな、鋭利さだけが存在を確立しているそれ。
キンシはそれを。
「えい」
左の指、人差し指の腹に深々と突き刺した。
右の指に伝わる指示に従い、針は指紋の溝のさらに奥まで先端を侵入させられる。
そして何の躊躇も迷いもなく、口の中で歯ブラシを動かすような表情のまま、キンシは針を皮膚の中身へと進軍させていく。
針は覆い隠されている皮膚に触れ、角質を裂き、生皮を抉り、真皮をぶち抜いて、皮下組織に潜む血管を。
食い破った所で、ようやくキンシは自らの肉から自らの手によって突き刺していた針を抜き取る。
抜き取られたそれには以外にも血液は付着しておらず、その代わりに小さな穴だけが残された指先に、瞬く間に温度と粘り気のある艶やかな赤色が小規模に、だが抗いようもない確実さで噴出し始める。
薄墨色の空気とは異なり、生物的な肉の縮小力によって拡大されることのない傷口。
目に見えることのない穴ぼこは赤色の体液に染まり、本人の意思とは関係なしに生命の反応として勝手に治癒を開始しようとする。
それに急かされるかのように、指紋の上を落下して乾燥と凝固を開始しようとする血液を、キンシは慌てて他の指で掬い取るかのように捏ね繰り回す。
できたてほやほやの傷がある部分をそんな、ぐにぐにと雑に扱って痛くは何のか。
ミッタが少し不安そうにしている、その視線を浴びながらキンシは手早く滲み出た血液を皮膚の上に滑らせる。
「このくらいでいいかな」
何かしらを確かめるためにキンシは左手をじっと見て、納得がいったところで人差し指と親指で簡単な輪っかを作り、それをゴーグルの上から目にあてがった。
格好だけならば、「オーケイ!」を少しふざけている風にしか見えない。
だがその手元、穴を開けられ羽にされた指の辺りを凝視してみれば、それは勘違いであるとすぐに気付くことが出来る。
「んー、見える見える?」
きょろきょろと、鉄の樹の上で周辺の空気を探る。キンシの人差し指と親指による輪の間には、赤色につやめく薄い膜らしきものが張られていた。
それは血液によるものだと、理解が追い付くより先にミッタは直感してしまう。
魔法にしてみても、確かに生き物の体を生贄なりなんなりして使うというものは何となく容易に想像できるものであるが。
しかしこうして実際に使っているところを見るのは、どうにも気分が良いものではない。
トゥーイとミッタが互いに溜め息をこぼし、あまり肯定的ではない視線を向ける。
だがそれに全く構うこともなく、そもそも気づいているかどうかすらも怪しい所で、キンシは勝手に血液によって作成された魔法のレンズで目的のものを検索し始める。
「うん、上手くいったようです。僕にしてみれば良く透明に見えていますね。それで……?」
赤色の薄く柔らかいレンズ、そこには魔法を使っている本人にしか見ることも、理解することも出来ない独特で独自の掲示が映し出される。
その表示に従いキンシは器用に足場を移動して、数十歩辺りの大して離れてもいない場所へ。
しっかりと鉄の枝が張り巡らされていながらも、なぜか誰も作業をしていない場所で立ち止まり。
「おお……? なんともこれはこれは」
顔から赤色のレンズを外し、それはとても嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「ちょうどいい時にちょうどいいものが見つかりました。さすが、女王様の采配は予測がつきませんね」
眠いと色々と奇怪なことが起きます。




