音はここまで聞こえない
うるさいから
ややあって、ゆえあって、はたしてキンシたちは本日の仕事現場に到着し、ビルの階段を芋虫のように這い登り、壁のない屋上にたどり着こうとしていた。
風が、地面の上に吹く生活の匂いがたっぷり含まれた暖かさがまるでない、人間を寄せ付けない温度の強風が絶え間なく、小さい子どもの耳の中で反響音を奏でている。
ごうごう、ごーう。
「うひ、ひー (○Д○;)」
次々と生まれる冷や汗、水の粒が皮膚を濡らすより先にそれらは次々と突風の中に溶かされていく。ミッタは体が冷えていくのを感じ、トゥーイの背中で両手を丸く縮める。
幼子はトゥーイの背中に相変わらずおぶわれている、だが恰好は地面の近くにいた時とは少し異なっていた。
トゥーイはリュックサック、あるいはランドセルを扱う要領で、ミッタの体を拘束して固定しているおんぶ紐の位置を整える。
小さな体と連動している、その紐は事務所の不用品の山から発掘した品々を、急ごしらえに加工して作ったもの。本日限りミッタ限定のおんぶ紐である。
背中にいくらかの安定感を作ることに成功したものの、しかしそれで重さがすっかり消滅するわけでもない。
にもかかわらず、幼子を抱える青年は呼吸を全く乱すことなく、どこか機械じみた規則正しさの中で黙々と階段を上り続けていた。
「ふんふん、好きなことー好きなことがー、ふふふのぬえーん」
青年の、不気味ささえ感じる静けさ。それと相反するとまではいかなくとも、やはり相対的に感じてしまうほどに前方にいるキンシからは雑多な音が漏れていた。
「仲間になったらハッピーい、エンドかなーあ? あーよいしょ」
階段を上る以外やることのない、それゆえに暇を持て余したキンシはいつしか、音程も歌詞も酷く不明瞭で耳障りな、独り言じみた歌をそこそこの音量で歌いだしていた。
「曲が終わる前にい、みんな一緒に家族になるよー」
何の歌なのか、そのいまいち統一性のないフレーズは一体だれに何を伝えようとしているのか、目標の掴みどころがいまいちで中身が全くない。
なんて、歌の感想はどうでもよく。そんなことよりも、
「あ、そろそろ屋上ですね」
ここまで少なくとも、人間の頭がい骨を十分に粉砕できる高さにまで一気に、休憩を入れることなく階段を自力で登り続けてきた。
そのはずなのに、青年と同じく魔法使いもまたまるで呼吸の乱れを見せる素振りすら見せなかった。
最初の一段を上った時と同じ息遣いのまま、それどころか呑気にのびのびと歌っていた。
それはもう、退屈そうに。
はっきりと明確な意思とまではいかなくとも、彼らのどこか不気味で異常な体力に、ミッタは不安を覚えそうになって。
しかし。
その考えは次の瞬間、その大きな丸い灰色の瞳に映った光景の前に跡形もなく霧散することになる。
まず最初に聞こえてきたのは、それまでどこに隠れていたのかと訝りたくなるほどの、風の音ですら誤魔化しきれぬ金属の摩擦音であった。
地面、人が重力に従って自然につけられる場所ということにおいては、唯一許されたともいえる地面。
つまりは屋上の床ということになるのだろうか、そこにはすでに所狭しと鉄の骨組みが乱立しており、のびのびと腕を伸せられる空間はすっかり鉄の塊に埋め尽くされている。
マングローブの根っこ、といった形容がふさわしいのだろうか。その実屋上一面にはびこる鉄骨はそのまま天高くへと枝を伸ばし、はるか上空、ビルの上の空にまでその鈍色の頑丈な枝を伸ばしている。
もしも巨人が灰笛に侵略を図り、この現場にまでたどり着いたならば、ちょうど四角い積み木の上に小さな樹木がぽつりとした違和感の中で伸び伸びと成長しているかのように見えるのだろうか。
とにかくそんな、重力に逆らった形でビルの上にはびこる鉄の若木。その枝の隙間や先端、それが本日この日に展開された魔法鉱物の採掘場であった。
とってんかーん……! とってんかーん……!
枝、もとい鉄の作業現場の上ではすでに何人かの、おそらくは魔法使いなのだろう、人間たちが各々の作業に朝早くから勤勉に取り組んでいる。
上空とは思えない、階段を上っていた時にはあれだけ耳を弄していたはずの風の音は緩やかに。その代り空気を震わせているのは金属と、それらが何か固いものと擦れぶつかり合い、落下していく寂しげな音色ばかり。
子供か年若い女か、どこかしら人の悲鳴にも聞こえる音の中、ミッタは絶え間なく落下してくる雨粒を堪えつつ、まばたきも惜しいくらいに灰色を背景に広がる魔法使いたちの作業現場に目を凝らしてみる。
鉄の枝、やはりどうしても樹木の広がりのように見える、骨組みそのものに何かしら魔法的な補強がなされているのだろうか?
その隙間にリス、あるいはスズメのように足を引っ掛けている魔法使い達。
彼らはそれぞれの手に何か、金属製に見える道具を携え鉄の枝が伸びていない部分、つまりは何もないはずの空間にそれをあてがっている。
………何もない、無い?
いや、それは違う。
ミッタがそう、不安定ながらもそう確信した、その瞬間に鉄の梢に透き通る色が、雨雲の色とは異なる色彩の薄墨色にポツポツと、水で薄めた墨汁を垂らすかのように、ゆっくりと灯っていくのが見えた。
確かに、幼児の灰色の眼球はその奇妙な現象を現実として受け入れていた。
他人の友情がとてもとても五月蠅く感じました。




