はずかしがり屋と人見知り
いえーい
いきなり背中を強く押されて、自分の体は崖の下の海へと真っ逆さまに落下する。頭蓋骨が岩礁と衝突し、骨が粉々に砕かれて内部の血液と脳漿が海水にもまれて、良い感じに塩水に美味しく味付けされて。
………そんなことを期待して恐怖して、身構えたもののそんな現実は何時まで経っても訪れず、トゥーイはずっとルーフの横に佇んだまま声だけを発してくる。
「海の臭気調べてみる価値はないのでしょう辞書と同様にそれに関しては意味がありません」
彼が何かしらの事を、自分がなんとなく理由もなく吐いた台詞について何かしらのコメントを与えてきている、そういう事は理解できるのだが。
やはりどうしても、隣の青年から発せられる怪文法を自分が解読できるようになる日は、それこそ永遠に来ないのではないかとルーフは明朝一番の頭痛を覚えそうになる。
「えっとおー………」
だがこのまま黙っていたとしても昨日の経験を踏まえれば何の意味もなく、無言のうちにこちらから先に移動を開始するのもなんとなく気が引けて、ルーフはどうしたらよいものかと悩んでいると。
「昨日は」
トゥーイのから次の言葉が、短い質問文が投げかけられてきた」
「よく。十分。睡眠を?」
古ぼけたラジオのようにノイズが濃いその音声は、語尾の雰囲気からして自分が昨日どれだけ眠れたかどうか、そのようなことを聞いているのではないだろうか? そうルーフは予測してみることにした。
「あーっと、うん、まあまあ眠れたと思うぜ?」
予測は出来たものの、突然の嘘に慣れていない少年の下は虚偽の内容に戸惑ってしまい、つい質問に質問で返してしまうような語調になってしまう。
「それは良いとても」
だがトゥーイは何を言うでもなく、たとえ何かを言ったとしてもルーフにそれが伝わることはないにしても、それ以上の追及をすることなく納得の意だけを返した。
そして一旦黙り自然な足取りでルーフの真横に、崖の淵へと進んでギリギリのところで止まる。
二人の男性はしばらく静かに、朝焼けに染まる海原を意味もなく観察した。
そして太陽の光に雲が陰り始めた頃、ルーフがもう一度歌うような台詞を呟く。
「生まれると同時に死に続ける。昔爺さんがそんな感じのことを言っていたんだ」
言葉を舌に乗せて音にする、その行動が少年の奥に眠っていた記憶を次々と呼び覚ましかけて、彼は眩暈のままに自ら海へと身を投げ込みそうになる。
その様子をトゥーイは瞼の隙間から眺める。
「先生も」
そして青年もまた足元に広がる水面に意識を向ける。
「同様に近しいことを、言葉でした」
ぶつ切りの音、その中で妙にクリアな単語がルーフの片耳の中で反響する。
「なあ、ちょっと気になることがあるんだけど」
「何でしょう」
「お前が時々言っている先生って一体………」
特に大した理由もなくただ何となく気になったことを聞こうとして、少年は隣にいる青年の顔面を見やる。
見て、そして、
「ぎゃあああっ?」
まさしく海原を一刀両断せんが勢いの叫び声をあげた。
昼食の次に行う食事といえば、不健康な間食を行わなかった場合を前提とすれば、昼食になるのが現代文明の順当なるルーティンということになるのか。
ルーフは再び電車でできた部屋の中で食事の席についていた。
「いただきます」
まだほんのりと眠気を瞳に湛えながら、しかし出された食事への礼をしっかりと忘れることなく、メイは胸の前で軽く手を合わせる。
ホワホワと、寝癖が絡みついている髪の毛が太陽の、早くも雨雲の気配に飲み込まれつつある日光に照らされ、絹糸のように光を吸い込んで四方八方に跳ね回っている。
昨日の夜と同じく部屋の開けたスペースに設置されたちゃぶ台。その上に食事が、昨日たべたのとは異なるメニューの朝食が次々と並べられていく。
「美味しそう……」
霜柱のような睫毛を震わせて、メイはまず最初に味噌汁が満たされている器をそっと持ち上げ唇に押し当てる。
ごくり、細く白い首の表面がわずかに上下して温度の高い液体を胃の中へ取り込む。
ルーフも妹にならって器を持ち上げ中身を、濃い色をしている味噌汁を口に含んでみた。
強く、自己主張の激しい塩分が味覚の上を一瞬で覆い尽くす。味が濃いな、それがまず最初の感想であった。
ちょっとした嫌悪感を抱きそうになって、しかしすぐに別の感覚が脳へと届けられてくる。
これは……何だろう………、少年にとっては慣れない味だった。
「海の味がする」
思いもよらず、自分でも意味が理解できていない感想に本人がリアクションをするより先に、
「味覚に置いて正解に近く食材は海水由来なのです」
トゥーイがルーフに向けて何かを話しかけてきた。
少年はうっかり青年の顔を見ようとして、すんでのところで視線をとまらせる。
「味の感想を」
調理用に白い割烹着を着ているトゥーイが食事中のメイに質問する。
「むぐ、美味しいですよ」
米粒を飲み込みながらメイは青年の顔を直視して感想を、にこやかに整然とした様子で伝える。
「良いですね」
トゥーイがゆっくりと瞬きをしながら左の頬を指で撫でる。
喜んでいる、そのことだけはルーフにも判った。
だけど少年はどうしても青年の顔を見たくなくて、それと同時に怖いもの見たさなのか、視線を彼の左頬へと動かさずには───。
「……………」
「! ………っ」
視線に気づいたのか、トゥーイがメイから視線を外して少年の方を向く。
嗚呼、そうしてしまうと。ルーフは文句を言いたくなるが言えるはずもなく、自分の無意識の赴くままにトゥーイの、青年の素顔を直視してしまった。
時間はまだあると思います。




