おはよう海が綺麗だったよ
今では
夢を見ていたような気がする。本当は見ていなかったのかもしれない、起きた後で適当にこじつけるしかなかった物語が、脳内に降り積もっては溶けて消えていく。
若者たちは夢の中で懐かしい人に会っていた。会いたいとは思えず、だが意識の中に深々と根を張ってしまっている、自分の人生を形成するうえで重要な立ち位置にいる人間。
夢の中でその人たちはどんな表情を浮かべていたのだろう。笑っていたのか泣いていたのか、それとも。
いずれにせよ目が覚めて、部屋の中に差し込む朝の空気を眼球が受け入れた瞬間、夢の記憶は脆く儚く消えてしまって、彼らには何の意味ももたらさなかった。
灰笛の朝はとある例外を除けば大体日々同様の、テンプレートじみた現象によってゆっくりと、それでいてブレの一切ない正確さをもって展開されている。
限定されていない境界が曖昧な時間帯、その期間にのみ灰笛の空には雲の上にあって然るべき太陽の輝きが降り注ぐ。
夕暮れの厚みから夜の間にじっくりと薄められた雨雲が、朝方には他の都市にもよく見られるいかにも普通そうな空模様を作り上げてしまうのだ。
「眩しい」
結局、寝る寸前に仮面を外すことにして、今は顔面になんの装飾もしていないルーフは呟いた。
本来ならば座席として使用するが故に、寝所としての適切だと思わしき範囲が著しく欠落している。そのため意識的にも無意識的にも落下するのを恐れて寝返りを打つこともままならなかった、彼個人の意見としては非常に寝心地が悪かった。
そんなベッドの上で、ルーフは窓から容赦なく射し込む朝の雰囲気に目を細め鼻をムズムズとさせる。
「ああ朝だ、嗚呼朝が来てしまった」
実際にはほんの一日、十数時間ぶりでしかないのに、なぜか随分と久しぶりに感じる太陽の輝きを鼻先で嗅ぎながら、彼はらしくなく演劇じみた台詞を吐いてみる。
非現実なことを、どんなに些細なことでも構わないから実行してみて、そうすることで瞼の裏に漂う夢の残滓をかき集められるのではないか。
そう期待してみたもののやはり夢は夢でしかなく、眼球その他の全身で機能している感覚器官が現実を受け入れるごとに、無意識の戯れは実体をなくして消滅へと駆けていくだけだった。
ルーフはそれ以上何を言うでもなく、一旦朝日から目を逸らして部屋の中を、本の山を挟んで自分と向かい側の座席、もといベッドに眠っている妹の姿を確認しようとした。
「……すぅ、……すぅ」
彼の期待通りメイは狭いベットの中で存分が過ぎるほどに熟睡しきっていた。
穏やかな寝顔、彼個人の意見が含まれているにしても寝心地が良いとは言い難いはずのベッドの上で、メイはそれらの要素に全く構うことなく悠然と雄大に有意義な睡眠と摂っていた。
ルーフは妹の秘されていた豪胆さに意外さを感じ、それと同時に眠気の中で羨望を送る。
何にしても彼女が十分な睡眠を行うことが出来たならば、この場所で一泊する目的は十分に果たせたと言えよう。
ルーフは欠伸を噛み殺して寝所から体を離す。
毛布が乖離したことで途端に皮膚へ冷気が襲いかかった。
全身の毛穴が急激な変化に不満を上げるのをルーフは感じ取る。故郷に比べれば灰笛は空気が温かく、天気予報士が画面越しに告げる数字によれば、その点に限定するならば過ごしやすい場所となっている。
そのはずなのだが、とルーフは文句を言いたくなりながらもすぐに自己完結で済ます。結局、何処にいようとも、十分に睡眠をとることのできなかった朝というものは多大なる不快感が伴うものなのだと。
諦めて、彼は思い切って毛布で自分の体を包んだまま移動をすることにしてみた。
気温が温暖な土地ならではなのか別にそうでもないのか、体に掛けるシングは彼が慣れ親しんでいた物より軽く薄い素材で作られており、肩から体に巻き付けても十分動けるほどコンパクトに済んだ。
体を海苔巻き状態にして、ルーフは今度こそベッドから体を離し床に足を着ける。
足元で髪が衝突し合う音が響いてきたが聞かなかったことにして、あらゆるものから身を隠すように少年は息を潜めて部屋の中を移動し扉を開けて外に出てみる。
廊下、と呼ばれている排水管のなかは部屋と言う名の電車内よりもはるかに冷たさが空気を支配しており、ルーフは生理的に背筋をブルリと震わせた。
胸の前に毛布を手繰り寄せながらそれとなく周囲を見渡してみる。
魔法宝石によるともしびはまだその輝きを継続させていて、彼から見て左右両方に光の点を繋げている。
少し考えて、ルーフは排水管の中を歩きだす。
靴を脱いでいたので足の裏の皮膚に管の感触が直に伝わってくる。
ひたひたと、ひたひたと、昨日はあんなにも長く感じられた廊下は、今こうして歩いてみると実はそんなにも距離があるものではなかったらしく、すぐに出口へと辿り着いた。
鉄製と扉の前に立つ。扉はしっかりと施錠されていて、外側からの訪問者を遮断している。
しかし全ての普通の扉と共通して、内側からの開錠は肩透かしを食らうほどに簡単で、少年はマンホールのような扉を動かし、外への脱出を果たしてしまった。
外、魔法使いの家の玄関先は朝の空気に満ち満ちていて、少年の鼻腔の奥にツンとした痛みが走る。
風邪の強さに目を細め、毛布をとばされぬよう拳を握りしめ、荒ぶる前髪をやり過ごす。
その後に彼の目に移ったのは海だった。
朝日に照らされ煌めいている海だった。
計り知れない液体によって構成されている水の塊。
存在を確立しておらず、きっとこの先この場所に完成された光を届けることはない太陽の光。
朝にだけ限定された日の光に照らされて、今この瞬間に誕生したばかりとうそぶく様に躍動しているのを。
少年は言葉もなく見つめた。
人工だとしても良かったんです。




