お客様はおもてなし魔性
ずっと続くと
そうなのだ、まさしくそうなのであった。
すでに入り口付近でそれとない予感はしていたものの、まさか本当に壁の中に電車が丸々一車両ごと埋め込まれ、それが人間の居住空間として使われているなんて。
そんな突拍子もない現実を、この疲れきって今にも爆発しそうなほどにいた無能でどうやって想起しろというのか。
「いやだなあ、仮面君。違いますよ間違ってますよ」
キンシがひょいひょい、と慣れきった足取りで文庫本の山を飛び越えながら、引き続き鍵で空中を撫で付けていく。
すると当たり前のごとく電車の窓ガラスが作動し、開け放たれたその先にはなんとおよそ此処が地価の中であることを忘却してしまいそうなほどに、さわやかな空気が満ちている外の風景が広がっていた。
日はすっかり暮れて外には宵闇が果てのない空間を支配しており、濃密な潮の香りが鋭敏さをまだ捨て切れていないルーフの鼻腔を容赦なく刺激してくる。
くしゃみが出そうになり、それを必至に堪えて痛む鼻を押さえながらルーフは窓の近くに、足元に気をつけながら近付いてみる。
文字通り鼻先が触れそうなくらいに近寄る。風のにおい、その冷たさ、どうやら偽者の類はないにしても、しかしどうしても視界がその現実を受け入れようとせず、窓の外に広がる風景がどうにもリアリティのありすぎるゲーム画面のようだと、そう錯覚したい欲求が抑え切れなかった。
「海ですね、お兄さま」
メイが小さな体を兄に寄せて窓の外の風景の感想を述べる。
「ああ、そうだな」
彼女の言うとおり、そこに広がっているのは紛うことなくほぼ間違いなく本物の、何の変哲もなさそうな普通の海原であった。
ルーフは短く手早く深呼吸をする。そして少しだけ勇気を振り絞り、窓の外に身を乗り出してみた。
途端、頭部全体に外気が無遠慮に押し付けられ、冷や汗に若干蒸していた仮面と皮膚の間に鮮烈な冷たさが差し込まれた。
皮膚の感覚に震えながら暗闇の中、夜風で滲む目を凝らしてルーフは窓の外を観察する。
窓の外側、横続きには暗黒に染まりきっている壁が続いている。
耳を澄ます必要もなく、あちらこちらから聞き覚えのある排出音が鳴り響いて水面に吸い込まれている。
どうやらこの窓は配水管まみれの崖に直接繋がっているらしい。
ルーフは風の冷たさに急かされそそくさと窓から身を引く。
「それで?」
そしてそんな彼の挙動を興味深そうに眺めていたキンシのほうに、暖かさの少ない視線を向ける。
「何が間違っているって?」
キンシは一拍反応を遅らせて、
「ああいえ、たいしたこともなくて」とだけ前置きをして「この部屋に使われている電車は路面電車ではなく、地下鉄専用だったんです」
予想外にどうでも良い情報にルーフはがくりとする。
「あっそ………」
確かに言われてみれば、と思えなくもない。大して長くない人生において碌に電車移動をしたことのない彼にしても、この部屋の基盤になっている車両がさんさんと照りつく太陽の下を走行しているイメージが沸かない。
ただしこれはただの後出しじみた想像でしかなく、もしもキンシがふざけて「これは海中列車だったんですっ」なんてことを言ったとしても、今の彼なら僅かながらにも信じてしまったかもしれない。
だが魔法使いにしてみても、そんな余裕など赤子の毛ほどもあるわけがなかった。
「えっと、どうしましょう。ええっと、どうしましょう………」
この奇妙奇天烈なる部屋の持ち主であり住人でもあるキンシは、何故か招かれた客人以上に居心地を悪そうにして、鼻息荒く腹の前で指を揉み組み合わせていた。
「お客様が自分の家にいるときは、えっと、まずは何にしてもお持て成しを……。お持て成しってどうすれば? お茶をお出しする、他人に飲ませられる飲料なんてありましたっけ?」
とんとんと跳躍する思考が何故か冷蔵庫の中身へと入り込んでいった。
「冷蔵庫。嗚呼、冷蔵庫の中には牛乳と取って置きの水しか。そんなものを出して大丈夫なんでしょうか、こういうのって普通紅茶とか緑茶なんじゃ。あ、麦茶ならある」
そうしてこうして、魔法使いはそれとなく結論付ける。
「お二方」
キンシは兄弟たちに前歯を見せてキメる。
「うちのやっすいあまり信用できないけれど飲めなくはない水道水で薄めた麦の葉っぱはいかが──」
「?」そう表記されるべき言葉の音程を唇に発する、それより先にキンシの頭に指で作られた刀が振り落とされた。
それはトゥーイの指であった。彼はマスクと眼帯に隠されていない、左の眼窩部分に苦々しいしわを刻み、トンチキな文法をぶっ放しかけた魔法使いのことを見おろしていた。
思っているならそれは勘違いです。




