塩の粒一つの問いかけ
はじめました
違和感たっぷりの扉の向こうは、やはりというべきかお決まりの暗闇だけが広がっていた。
強引な手つきで押されている背中、バランスを崩さないよう必死に足を動かしているルーフ。
彼の鼻が何も見えない暗黒の中でヒクリとうごめく。
その部屋、真っ暗ながらも人間の生活感がそこかしこに充満しているその空間には、ほんの僅かに食材の香りが漂っていた。
これは、赤味噌の匂いか? そういえばこの辺りは、灰笛は完全に赤い味噌汁しか飲まないと聞いたことがある。
今日一日まともな食事を取っていない、成長期真っ只中の少年にとっては拷問に等しい状態に陥っていたルーフは、本能的な欲望に従ってその調味料の匂いを嗅ぎ取ろうとする。
しかし彼がいくら鼻の筋肉を伸縮しても、確実な正体のある匂いを感覚することは出来なかった。
「?」
色と味はもちろんのこと、その匂いも濃厚なことで有名な波声地方独特の豆味噌。
その匂いですらかき消してしまうほどに、少年の人一倍敏感な嗅覚をかく乱させてしまうほどに、その部屋にはとある主体のにおいが濃密過ぎるほどに充満していたのだ。
「なんだ、この薬みたいなにおいは………?」
扉の、部屋の外側、廊下にぶら下げられている宝石ランプの幽かな光を頼りにメイは兄の背中だけを捉えて部屋の中へと入り込む。
「お邪魔しまーす………」
彼女もまた暗闇から直接肌に浸透してくる新たなる領域への不安に、白くてやわらかい体毛をよりフワフワとさせていた。
妹が自分の腕をつかんできているのを感覚しながら、ルーフは嗅覚を研ぎ澄ます。
あまり丁寧な掃除がされていないのか、部屋は埃っぽさが強くあまり真剣に鼻呼吸ばかりしているとくしゃみがでそうだ。
しかしそれでもルーフは嗅ぐことをやめられなかった。
どうしても気になることがある、この部屋のにおいを自分はどこかで嗅いだことがあるような気がしているのだ。
どこだ? そんな昔のことでもない、ほんのつい最近───。
「ちょいと」
暗闇の部屋と言う異質な空間がそれを助長させてしまったのだろう。いよいよ少年の全ての意識が鼻の穴へと集中しようとしたところで、彼の肩を部屋の持ち主が強めに叩く。
「色々と気になることが多いのは大いに同意できますが、しかし他人の部屋をそんなに真剣に嗅ぎまくるのはよろしくないと」
あえて語尾を濁してくるキンシにルーフは慌てて思考を普段の状態へと引き戻す。
「ああ、ええその、すまっ」
いきなりの無作法な行動に自分自身が一番小恥ずかしくなったルーフは、気まずさと動転のあまり魔法使いから数歩離れようとして、
「ん? うわっ?」
何か、硬いものにふくらはぎをぶつけしまった。
それと同時に暗闇の中で何かが盛大に崩壊する音が響く。
それも一つだけではなく連鎖的に、まるでドミノが崩れるかのように崩壊音は鳴り響き続けた。
「うわわ、すまん!」
ドサリ、と最後の「何か」が地面に落ちると同時にルーフはキンシにとりあえず謝罪していた。
「あーいえいえ、大丈夫ですよ。ここにあるのは僕の私物ですし、彼女も何も言わないでしょう。後でもとに戻しておきます」
動揺によるものか、あるいは逆光で表情を窺うことが出来なかったのか、少年はそのとき魔法使いがまるで何者かに軽く恐縮するかのような息遣いになったことに気付かないでいた。
そこでトゥーイがキンシに向けてため息をはく。
メイはその呼吸音を聞いてほのかにこっそりと驚いた。彼がそのように人間らしい、生き物らしい感情表現を使うの見たのはそれが初めてのことだったのだ。
「先生」
短く空気を吐き終えると、青年は魔法使いに苦言を呈する。
「壊れますよある日のままに空間をつくらないことはあなたの眩い現状を」
彼の言葉にキンシは子供っぽく不満げな表情を浮かべる。
「わかってますよ、トゥーさんの要求していることは十分わかっていますとも。僕だってお客様が来ると知っていたら、ちゃんと部屋の整理整頓くらい………」
ちょっとした身内同士の口喧嘩が始まりそうな雰囲気。
「なあ」
そうなる前に、ルーフは散々主張されている客人としての特権を使用してみることにした。
「うだうだ言ってないで、早くランプなり電気なり点けてくんね?」
彼からの要求にキンシはでかけていた言葉を必死に飲み下す。
「おっとっと、そうですねそうですよね。ちょいと待ってください、今すぐに明かりを点けますので」
そう言いながらキンシは暗闇の中で体を動かそうとする。
そこでルーフはてっきりもう少し、数分ほど待機させられることを予測し待ち構えていた。
のだが、彼の予想は外れることになる。
キンシはその場から足を動かすことなく、代わりについさっき扉を開けるのに使ったスケルトンキーで空中にツイ、と線を描いた。
何を。
行動に疑問を抱くより先に結果だけが兄妹に降り注ぐ。
魔法使いが鍵を振る、そのすぐ後、一秒と満たぬうちに部屋の中は煌々と明々白々な明かりに満たされたからだ。
突然現実に出現した明るさに目を細めながら、ルーフは滲む視界の中で「ああ、やっぱりこのインチキヤロウは魔法使いなのだ」と思い知らされた。
色々と今更なことで、こんなどうでもいいことでそれを自覚してどうする。
そう自分でも思ったが、思ってしまうことはどうしようもなかった。
それに、次の瞬間彼の眼球に飛び込んだ情報によって、その自問自答はすぐさま小さい小さい、塩の粒ほどに縮小されてしまっていた。
海のそこから拾い上げました。




