パン屋の店長は屋根の上
残骸を、
当然のことながら、彼にその音の正体が解ったはずもない。
最初、ルーフは何か、何かしらの機械等々がその音を発したものだと、そう思い込んでいた。
「ん? 何だ今の音」
そして特に何を考えるでもなく、何を思考するでもなくただなんとなく、理由があるとすれば音の正体を探ろうとするつもりで、一歩だけ後ろに動こうとして、
「危ない!」
その行動とも呼べない動作の一つを、メイの鋭い叫び声によって制止させられる。
「え」
だが彼の足は、ごく普通に床を踏みしめようと、それだけの意志によって動かされた足の裏は止め様もなく落下を進め、
そして、
ぶにゅり、
なんとも形容しがたい、言葉に表しがたい感触を足の持ち主である少年の感覚器官に、激戦するカーレースのごとく駆け巡らせた。
なにか、なにか?
このようにすばらしい内装の建造物、そこにある床、木製の床にあるまじき柔らかさが、少年のかかとの下に。
慌てるよりも先に、反射神経の全てを活用してルーフは片足を元の位置に戻す。
踏んだ、間違いなく、紛うことなく何かを踏んだ。
いったい何を?
「6e6e」
ルーフの背後でまたしても、つい先ほど鳴ったばかりの音と同じものが聞こえてくる。
その音は床から聞こえてきていると、ルーフは認めたくなくとも認識してしまう。
見たくない、これ以上は見たくない。
そう思っていても、願っていても、彼の体は視線を後ろへ向けるための運動を開始する。
その筋肉の動きは最早呪いじみていた、彼は瞬間の無意識でうっすらと認める。
後ろを見る。
そこには誰もいなかった。
自分の目線、真っ直ぐなライン上には誰もいない。
玄関先にたっている妹と、トゥーイとミッタ以外は誰も。
「sbnwyk」
もう一度、床から声がする。
「bbq9、bb」
そのときでも彼には声が何を伝えてきたのか、理解できるはずもなかった。
だけど、たまたまだったのかもしれないが、声が望むことと彼の行動はごく自然な形でリンクする。
彼ははやる心臓とあらぶる肺呼吸を懸命に押さえ込みつつ、出来るだけ滑らかな動作を装って自分の足元を見下ろした。
足元。
すっかり赤茶けた汚れにまみれた彼のスニーカー。
そのすぐ傍に、
「9zr11」
それはいた。
なんともなんとも不思議な、およそ陸地に生息していなさそうな、この世界に生きていなさそうな形状の、呼吸する生き物が彼の足元にいたのだった。
生き物が音を、口と思わしき部分から音声を発する。
「eod7ejp」
少年は悲鳴を上げそうになって、
「ぎゃ、あ、あ。モンステラッ………?」
しかし澄んでのところで声を噛み潰す。
悲鳴なんかあげている場合ではなく、無論それが許されるような雰囲気ではないと、驚愕に身を震わせる彼にもそれだけは察知することが出来たからだ。
喉に集中しかけた意識を眼球にまわし、彼はとにかく自分が卒倒しないように出来るだけ多くの情報を集めることにする。
「6767、v/e63:uesf、55oeu」
「それ」が語りかけてくる。
確実に人間とは呼べない形状のそれが何か、自分に話しかけてきている。
なんだ、これは。
魚のような胴体、尻尾もちゃんとある。
ワニのような手足、指もちゃんとある。
カエルのような顔面、目玉もちゃんとある。
これは、これは………。
………、………そうだ!
「ウーパールーパー!」
ルーフはようやく自分の声を取り戻す。
「スケボぐらいの、馬鹿でかいウーパールーパーがっ?」
自分の足元、ベーカリーの床にのっぺりとしっとりと這いつくばっているそのほの白い生物、らしき柔らかい物体。
それはまさしく、そうとしか形容することの出来そうにない、そんな感じの生き物だった。
「うわ、うわー?」
自分の内側のみに限定しながらも、意味のない下らない行動だったとしても、現実に名前をつけることに成功したルーフは馬鹿正直に、異様なまでに感心しきった様子でそのサンショウウオに似た何かをツンツンとつつく。
「どうしたお前? どっかから逃げてきたペットか。あ、もしかして」
ルーフは救いを求める、それぐらいの力みでキンシのほうを向く。
「この店の主人だとか言うシグレってヤツのペットかなんかか?」
少年にしてみれば、きっと魔法使いに自分の意見を肯定してほしかったのだろうか。
しかし、
「いいえ、違いますよ」
魔法使いは嘘をつかない。
それに、
「--………。アー、ウんウん、チがうチがう」
魔法使いが認め難い答えを返すよりも先に、回答のほうから少年に事実を教えてきてしまった。
ルーフはもう一度音の、音声の、声のするほうへ。
自分の足元へと視線を向ける。
そこには相変わらず白くて柔らかいサンショウウオがいて、
「ワたしだよ、ワたしがシグレだ。コの店、[アイエム エイチ型 1898]の店長兼オーナーを勤めさせてもらっている、シがない男やもめだ」
ぷよぷよと餅のような体を持つサンショウウオが、
「ヨっこらせ」
と立ち上がり、少し億劫そうに二足歩行をして、ルーフに手を差し伸べ、
「ヨろしくぅ! ナやめる若人よ!」
米粒のような親指をピン、と上に向ける。
捨てられなかった。




