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 目が覚めた。気分はこの上なく最悪だった。頭の中は霞がかったように不明瞭で、瞼は酷く重たい。それでも確かに、私は私として覚醒した。

 試しに身体を捩ってみると、リネンと擦れる感触がした。恐る恐る腕を動かし、顔の前に翳してみる。私の目に映ったのは、生白く、痩せ細った人間の手だった。陶器ではない、暖かな血の流れる人の身体。まだ痺れは残っていて非常に億劫ではあったけれど、自分の意志で動かせる。ベロニカは、私。私は私の身体に戻ってきた。その実感を確かなものにしようと、私は横たわったままゆるゆると辺りを見回す。顔を右に向けると、枕の傍にはお行儀よく座る人形の女の子がいた。

「……おはよう」

 幼い頃にそうしたように、声を掛けてみる。彼女は応えない。喋らないし、喜怒哀楽も示さない。私という存在が彼女の中から抜け落ちて、今はもう本当にただのお人形だ。あの時、声が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。

 あの日。私の信じていた世界が何もかも崩壊した日。意識を失った私は、全てを忘れてあの人形の中にいた。神が救いの手を差し伸べたのか、さもなくば悪魔の仕業だったのか。理屈は分からない。けれど、気付けば私は自室のチェストの上で、自分は人形なのだと信じ込んでいた。ただ暗闇を見つめ、自我というものさえ認識出来ず、あのまま過ごしていたら本来の私は衰弱し朽ち果てていたに違いない。ミゲルが――兄が、私を見つけなければ。

 兄は気付いていたのだろうか。一瞬そう考えて、すぐに否定する。知っていたのなら、もっと違う行動をとっていたと思う。出会った時にあんな風に他人行儀にはしないだろう。なにせ彼は、妹に酷く執着していたようだから。

 ミゲルが人形の私をベロニカと呼んだのは、妹の代わりにしたかったのだろう。あの人形の容姿は私とよく似ている。きっと兄としては、人形の私が何であれ構わなかったのた。屋敷に一人取り残された寂しさを紛らわせるには、丁度良かったのだと思う。兄は存外お喋り好きなのだ。

 けれど、徐々に結局それでは誤魔化し切れなくなってきたのだろう。声になってくれればいい、とミゲルは言っていた。人形の私が声を当てて、人間の方の私が操り人形――なんて滑稽な腹話術。そうすれば私が元に戻るとでも思ったのだろうか。何にしたって勝手な話だ。私をこんな風にしたのは兄だというのに。結果的に彼の望むように目覚めてしまった事実が腹立たしい。

 不意にぼーん、と時計の鐘が鳴り響き、私は我に返った。鐘の音は三つ。あれからそれほど時間は経っていなかったらしい。鉛のような身体を無理矢理起こして、私は視界を広げた。暗い部屋の中、扉の脇のランプが点けっぱなしになっている。広さだけはあるが殺風景な寝室だった。私が寝かされている衣装棚と私が寝かされているベッド、その傍に置かれたサイドテーブル。微かに漂うほろ苦い香りは、兄が纏っていたのと同じものだ。元々華美を好む人ではなかったが、私の部屋と同じように余計な家財は売り払ったのだろう。けれどそんな中、サイドテーブルにぽつりと置かれていた物があった。透かし彫りの装飾が施された、華奢な陶器製の香炉。よくよく見ると、その香炉から薄く煙が立ち上っていた。鼻についたにおいも此処が源のようだ。

 それに気付いた瞬間、私は衝動的に手を振り払っていた。がちゃん、と派手な音を立てた香炉は、床で見事なまでに砕け散った。縺れる足取りでその残骸に近付き、傍でへたり込む。私は撒き散らされた灰の中から破片を拾い上げると、燃え滓を指で均した。灰の中に、白い粒が混じっている。押し潰すと簡単に形を崩して粉になった。これが何なのか、鈍い私でも流石に察しがつく。

 阿片。ここ最近で問題視されている薬だ。芥子の実から精製され鎮痛薬や睡眠薬として使用されるが、中毒性が非常に強い。使い方を一歩間違えば幻覚に悩まされ、気が狂い、廃人と化すこともある。

「……これが。こんなもの、が」

 呆然と私は呟いた。吸わない筈の兄から漂っていた煙草のにおい。その正体は阿片の煙だったのだ。私をこの部屋で眠らせ続けたのも、あの日紅茶に盛られていたのもこの薬だろう。考えがある、などという話をしていたのも阿片のことだったのかもしれない。中毒者に高く売りつければ金になる。

 いつから兄は手を染めていたのだろう。父母が死んだ時か。いや、既にあの時の兄はまともではなかった。もっと前からだ。我が家の莫大な負債が判明した時かもしれない。忙殺され心の弱った兄が薬に頼りすぎて、おかしくなってしまった――それは、あまりに希望的すぎるだろうか。いずれにしても、もっと早く気付くべきだった。知っていればこんな惨劇を避けられたかもしれないのに。

 知らず知らずのうちに私は拾った破片を握りしめ、掌からは血が滲んでいた。痛みはない。私の身体にも、とっくに毒は回りきっているのだろう。もうどうにもならない。私は喉から嗚咽を漏らすのを堪えられなかった。もっとも、堪える必要もない。部屋にいるのは私一人で、訪れる可能性がある人物も一人しかいない。そしてその人物は、時機を図っていたかのように扉を開けて駆け込んできた。

「……ベロニカ! 目が覚めたのか!」

 叫ぶように私の名を呼び、傍に膝をついたのはミゲルだった。当然だ。ここは彼の部屋だし、屋敷にはもう他に人はいない。今更すぎる事実を目の当たりにして動きを止めると、突然身体を抱きすくめられた。

「物音がしたから、まさかと思ったけど……良かった。もう君が二度と目覚めないんじゃないかと思って、不安で仕方なかったんだよ」

 私の髪に頬摺りし、深く息をついた。慈しみに満ちた声。私を撫でる手の温もり。その感触に、大好きな優しい兄が戻ってきたのだと錯覚しそうになった。けれど彼の身体には、あの煙のにおいが染み付いている。この手は、私を暴き純潔を奪った。意識を奪いこの部屋に閉じ込めた。平手を見舞って、非難して、思い切り罵倒してもまだ足りない。なのに、なぜかそれを実行に移すことは出来ない――なぜなら、この熱を求めていたことも事実だから。

 お兄さま。ミゲル。私の愛したひと。人形のベロニカの感情も、確かに私のものだったのだ。最初は妹としての親愛をそう勘違いしていただけだったのかもしれない。けれど記憶を封じた私の慕情は、いつしか本物になってしまった。負債を抱え、家族を亡くした可哀想なミゲル。人形のままなら、たとえそれが歪んでいても彼の想いに応えただろう。けれど彼が求めるのは人間の方のベロニカだ。そしてその当事者である私の中には、兄への怒りと憎しみと嘆きが渦巻いている。決して兄を許すことはないだろう。掛け違えた釦のように私たちの感情は噛み合わず、いびつなままだ。どうすればいいのだろう。どうすればよかったのだろう。彼が憎いのか愛しいのか。本当の私はどちらなのか。薬に侵された思考回路では、とても答えは出せそうになかった。

「ベロニカ、気分はどう? 何か欲しいものは?」

 ぼんやりと考えているうちに私はベッドに戻され、隣には兄が座っていた。私を気遣う視線も、心配する言葉もきっと本物だと思う。ただそれらは、本来あるべき形とは違うもの。彼は取り返しのつかないことをしてしまった。見てみぬ振りで愛すことは、私にはできない。

 ――けれどもし、今からでもその歪みを正してゆけるのなら。その可能性があるとしたなら、或いは。

「お兄、さま」

 掠れた声で呼び掛ける。なんだい、と耳を傾ける兄の仕草は無邪気そのものだ。彼は自身が悪行を働いたなど思いもしない。それすらも分からなくなっている。

「アルバ伯と、お話させて欲しいの。結婚はもう駄目かもしれないけど、私を使えば多少の工面をしてもらえるかもしれないわ。だから、お願い」

 今の私が考えられる、最善策だった。警察へ自主を、と言わないのは、ミゲルの罪が明らかになった時、どんな刑に処されるか想像がつくからだ。この際、下働きとして奉公するでも、娼婦のように使われるのでもいい。どんな道具に成り下がることも厭わない。そうして少しは環境がましになれば、兄も頭を冷やすことが出来るのではないだろうか。そう思ったのだ。

 けれど、私の考えは甘かったようだ。

「ベロニカ……まだそんなことを言うのかい。僕を置いて、誰の所に行くっていうの?」

 胸に抱いた微かな希望が、脆く割れる音がした。呆れと、その中に怒気を孕んだ兄の声。知っていた。もう兄にまともな思考回路などありはしない。けれど諦めきれなかった。愛しいミゲルを、たったひとり残った家族を、救いたかった。なのに、もう道は残されていないというならば――それならば。

 毒の回りきった酷薄な笑みで、兄は私に手を伸ばす。同じ毒を吸った私も、いずれは同じようになるのだろう。その、前に。

「……そうね。私が愚かだったわ。ごめんなさい、お兄さま」

 今にも肩を掴みそうだった兄の手を払い、私は自ら兄の首に腕を回した。兄の身体が微かに跳ねる。

「ベロニカ……」

 囁く声は歓喜に震えているように聞こえた。背中に腕が回される。兄の体温が懐かしかった。昔はよくこうやって抱き付いたものだった。あの頃の彼はもはや思い出の中にしかいないけれど。ひとしきり感傷に浸った後、私はもう一度だけごめんなさい、と呟いた。拳の中に残っていた陶器の破片を、兄の首筋に押し当てる。

 鮮血が迸った。力を込めて皮膚を引き裂けば、破片は呆気ないほど簡単にその下の脈に達した。どくん、どくんという拍動に合わせて血が噴き出し、兄も、私も真っ赤に染まっていく。兄の表情は分からなかった。背中に回された腕はそのままに、彼は事切れる。最後に空気が抜けるような声で、私の名を呼んだ気がした。

 まだ暖かな亡骸を抱えたまま、私は血塗れになった両手と凶器となった破片を見つめた。不思議なことに、なんの感情も湧いてこない。人を殺めた罪悪感も、してやったという痛快さも、流れる赤への恐怖も、何もない。どうにもならないなら全てを壊そう。そう思った。そして恐らく、毒が回るのを待たず私の心も壊れてしまった。兄を慕った私も、ミゲルを愛した私も、粉々に砕けてしまったのだ。

「どうしよう……」

 口にしながらも、私はおかしくて笑い出しそうだった。どうしようもないではないか。ここに居たっていずれは見つかって牢獄行き。逃げたって行き場はない。それにミゲルを置いては行けない。

 ふと、兄の肩越しにあのお人形と目が合った。彼女は昔から変わらぬ眼差しで私を見返す。その姿に、私は自らの望みを見出した。何も考えない。何も語らない。それが一番だ。

 三度、あの日と同じことを思う。不思議な体験もしたけれど、あれでは不充分だった。だからこうする。私は確信を持って微笑んだ。兄を殺した破片を握り直す。

「大丈夫よ、お兄さま。置いて行ったりしないわ。共に地獄へ参りましょう」

 兄に語りかけて、視線を人形に戻す。青いガラス玉の瞳が、どこか悲しげに見えた。

「今までありがとう。貴女が最期を見届けてくれたら、嬉しいわ」

 友人にそう言い残し、私は破片を首筋にあてがった。こうすることで、バラバラになった私はひとつに戻る。不思議な安堵と共に、私は破片を握る手に力を込めた。

 そう、もう何も感じない。悲しむこともない――私の名前はベロニカ。ただの、物言わぬお人形。




 ――コチ、コチ、コチ。

 振り子時計が時を刻む。鐘がいくつ鳴っても動き出す者はなく、話し声も聞こえない。血と煙のにおいが混じり合う部屋で、ただ夜は更けていく。やがて朝が来たとしても、何も変わらない。ひとり取り残された人形の瞳だけが、愛しい者達の死を悼むようにきらめいていた。

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