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 折り入って話がある、と父から告げられたのは今朝のことだ。兄ならともかく、私がこんな風に呼び出されるのは珍しい。いつでも構わない、とのことだったので、訝しみつつも仕事が一段落つくであろう午後を選んで父の書斎を訪ねることにした。

 ――そこで私を待ち受けていたのは、予想だにしなかった現実だった。

「結婚――ですか?」

 告げられた言葉が上手く理解出来ず、私は呆然とその単語を繰り返した。自分で口にしてみても、やはりよく分からない。

「そうだ。先日我が家にいらしていた、アルバ伯爵は分かるな?」

 父は私の動揺に気付かないのか、それとも見て見ぬ振りをしているのか、淡々と私の答えを促した。

「……はい、お帰りの際にご挨拶だけはしましたが」

 私は問われるままに頷き返した。少し前に屋敷に訪れた、痩せぎすで壮年の、抜け目ない光を瞳に宿らせた男のことだ。父の仕事で世話になっているというので挨拶はしたけれど、値踏みするような視線でじろじろと見られて良い印象ではなかった。私が知っているアルバ伯の情報といえば、それだけだ。父は一応私が首肯したのを見て、ようやく今の唐突な話に至った経緯を語り始めた。

 曰わく、父は隣国の取引先で騙され、莫大な借金を背負うことになってしまったらしい。私が頻繁に屋敷に客人が来ると思っていたのは実は取り立て人で、母がよく出掛けるようになったのは知り合いの商人達に金の都合を付けてもらえないか交渉していたのだという。しかしいくら努力しても、徐々に限界が見え始めていた。

 そこで借金の肩代わりを申し出てくれたのが、アルバ伯爵だった。元々彼は父の商売のお得意様で、何かと贔屓してくれていたらしい。このまま落ちぶれてしまうのは忍びないと手を差し伸べてくれた。けれど、そう簡単な話ではなかった。なにせ、国内屈指の商家を一瞬で破産させるような額だ。アルバ伯としても無条件にというわけにはいかない。そこで、対価として彼が提示したのが――。

「私、ということですか」

 眩暈がした。聞かされた内容が何度も頭の中で反芻されて渦を巻き、私の思考を濁らせる。何もかも初めて聴いた話だった。母も兄も使用人達も、そんな素振りはひとつも見せなかった。なのに、私が愛おしんだ日常は、知らないうちに崩壊寸前となっていたのだ。なぜ、どうして――そんな言葉ばかりが、私の胸中を埋め尽くしていた。

「急な話で、お前にはすまなく思っている。だが他にもう打つ手がないのだ」

 頼む、と父は情けなく哀願した。立ち尽くすばかりの娘に頭を下げる姿は威厳の欠片もなく、どこか滑稽でさえあった。必死な父を見てこんな風に感じる私は、非情な娘なのかもしれない。

「……なぜ、今まで教えてくださらなかったのです」

 問いただそうと口を開けば、声が掠れた。無能の身だったとしても、知っていれば何かが違っていたかもしれない。少なくとも新しいドレスが欲しいなんて我が儘は言わなかったし、お茶を飲んでのんびりしてなんていなかったのに。

 父はおもむろに顔を上げると、複雑そうに顔を歪め呻いた。

「……お前は知る必要が無いと思ったからだ。私の仕事に携わっていなかったからな。この話を聞いて気に病むくらいならと、使用人達にも口止めしていた」

 その父の言葉で、名付けようのない感情をせき止めていたものが決壊した。私は両親も兄も愛していた。彼らもそうなのだと思っていた。けれど少し違っていたのかもしれない。私だって家族の一員であるはずなのに、こんなにも重要なことをひた隠しにしていた。ただのお荷物としか思われていなかったのだ。それでも強いて言うなら、ドレスと甘いお菓子とで飾り付けられ、お人形のように扱われていたのが愛情だったのだろう。

 溢れ出した憤りや悲しみが、涙となって頬を伝う。私には選択肢すら与えられていなかった。こうなる前に努力することさえ許されなかった。そんな娘に都合よく全て押し付けて金に換えようだなんて、まるで私は父の扱う商品と同じではないか。手元に置いていて多少の情が移ったとしても、どうせ売り飛ばしてしまう。

「そうして、私に拒否する余地を与えないのですね……あんまりだわ、お父様」

 ついに堪えきれなくなって、私は書斎を飛び出した。呼び止める声が聞こえた気がしたけれど、もう構っていられなかった。

 髪を乱しながら廊下を駆け抜け、自分の部屋に飛び込む。崩れるようにベッドに倒れ込むと、私は何年かぶりに声を上げて泣いた。何度か扉の外かは名前を呼ばれたけれど、全部無視した。どれだけ優しい顔をしていても、結局みんな私を除け者にしていたではないか――そう考えると、誰も私の味方などいないように感じられた。

 シーツを握り締めながら、いつまでそうしていただろう。いい加減に泣き疲れて身体を起こすと、枕元に座らせた人形が目に入った。昔からいつも一緒だった、物言わぬ私の友達。彼女なら私の気持ちを理解してくれるだろうか。

「いっそ私が、貴女みたいなお人形なら良かったのにね」

 口にしてみると、強い酩酊感が私を襲った。常に変わらない人形の微笑みに、吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。なら、そうしましょう――そんな声が聞こえた気さえした。

 その時、私を現に引き戻すかのようにノックの音が響いた。億劫で返事もしなかったけれど、相手はそれに構わず扉を開いて顔を出した。兄だ。

「……良かった。やっぱり部屋に隠れてたね」

 不貞腐れた私の姿を見て、兄は安堵したような、それでいて今にも涙を零しそうな、泣き笑いの表情を作った。兄がそんな顔をするわけが私には分からなかった。泣きたいのは、私の方だというのに。そんな風に考えると、ようやく止まったはずの涙がまた溢れてしまいそうだった。

「ごめん。家の事情を伏せておくように言ったのは僕なんだ。君の曇った顔は見たくなかったからね……でも結婚なんて話、僕だって初めて聞いたよ。まさか父さんがそんなことを考えてたなんて……」

 兄は私の隣に座ると、宥めるように肩を抱いた。語る声は微かに震えていたように思う。それに応えることはしなかったけれど、兄は黙って私に寄り添い、時々背中をさすってくれた。兄のてのひらの温もりが、荒れ狂った私の心の波を少しずつ穏やかにしていく。

 そういえば幼い頃も、私が癇癪を起こした時はいつも兄がこうやって宥めてくれた。大丈夫だよ、兄さんはいつだって味方だからね、と笑って、私の頭を撫でる。何も変わってなどいない。ずっと信じていたものが無くなったわけではないのだと、私はやっと平静さを取り戻した。

 本当は、分かっているのだ。親が娘の結婚相手を決めのは普通のこと。それが顔も知らない男性であるというのも珍しくはない。金のため、家柄のため、それも普通だ。結婚について、女が自分の意見を通せることなど殆どない。世の常識だ。頭を下げてくれただけ、父は私の気持ちを慮ってくれたと考えるべきだろう。私は今まで充分すぎるほど甘やかされ、自由に育てられてきた。だから、この結婚は承諾しなくてはいけないと思う。

 ただ、理解するのと受け入れるのとはまた別の話で、私はまだ素直に頷くことは出来なかった。だからつい拗ねた口調になって、兄に問い掛ける。

「お兄さまも、私がアルバ伯に嫁げばいいと思ってる?」

 臍を曲げ、いつまでも成長しない妹に呆れてくれればいい。そして少し困ったように微笑みながら、私を諭すのだ。兄のそんな仕草を見れば多少胸がすくのではと、意地の悪いことを私は考えていた。

 けれど、兄の反応は予想に反して苛烈なものだった。

「そんなわけないだろう! 君を嫁がせるなんて考えたこともない!」

 背中を撫でていた手が離れたかと思うと、今度は両肩を強く掴まれた。息がかかるほど近くで、兄は私の顔を凝視する。いつも穏やかな瞳は驚くほどの気迫を宿し、見たこともないほどの激情を迸らせていた。怒気を孕んだ声に身体が竦む。怖い、と――そんな風に兄を思ったのは初めてだった。

「君は昔からあれだけ僕を慕ってくれていたのに、僕がそんなことを考えると思うのかい? それとも、あんな男の元に嫁ぎたいとでも言うのか!?」

「そ、それは勿論、進んで結婚したいわけじゃないわ……」

 兄の剣幕に驚きはしたが、その言葉を否定する要素は露ほどもなかった。私が困惑しながらも頷いたのを見て、兄はあからさまに表情を和らげた。はっとしたように私の身体を解放すると、申し訳なさそうに髪を撫でる。

「ごめんよ、驚かせて……大丈夫、何も心配しなくていい。ここから出て行く必要なんて無いようにするから」

 そう言った時の兄の顔は、見慣れた温和で優しい青年のものだった。低く、快い兄の声音に私の緊張は解け、深く息を吐いた。少々大袈裟ではあったけれど、いつもの過保護だったのだ。私があまりに塞ぎ込んだせいで、兄も心配したのだろう。

「ありがとう、お兄さま……もう泣いたりしないから。心配かけてごめんなさい」

 家が大変なのだから、私もしっかりしなければ。兄にばかり負担をかけてはいられない。密かにそう決意してぎこちなく微笑むと、兄の顔も緩んだ。それが妙に嬉しくて、私はなんでも乗り越えられそうな気がした。結婚のことも、もう一度落ち着いて話を聞こうと思えた。

 ――けれど、今にして思えば、これは悪夢の前兆だったのだ。

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