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 ミゲルの様子がおかしい、と気付いたのは、ここ数日でのことだ。相も変わらず私達の深夜の交流は続いていて、彼が私の元を訪れては他愛ないお喋りに興じていた。いつものようにミゲルは愛しい彼女の話ばかりしていて、私は複雑な気分でそれに耳を傾ける。いつも通りの光景で、なにも変わったことはない。

 なのに、気のせいだろうか。どこか私に――話を聴いてくれるお人形に依存しているような発言が多くなったように感じられた。

「聴いておくれ、僕のベロニカ。君しかいないんだ」

 ああ、まただ。

 僕の、なんて、そんな言い方今までしたことはなかったのに。

 決して、私自身の願望のせいで空耳が聞こえているわけではないと思う。今も彼は、小さな私の身体に縋るようにして名前を呼ぶ。

「いくらでも聴くわ。だから顔を上げて頂戴、ミゲル」

 出来る限りの優しい声を出して促すと、ミゲルは緩慢な動作でようやく身体を離した。私を頼り、見つめていてくれるのは嬉しいことの筈だ。それなのに何故だろう、素直に喜べない。彼は出会った時と比べて少し痩せたように見える。輝いていた金の髪はくすみ、瞳はどこか虚ろで濁り始めていた。以前のミゲルは、もっと自信に満ちて晴れ晴れとした表情の人だった。いったい何が彼をこんな風にしてしまったのだろうか。

「ねぇ、少し顔色が悪いんじゃなかしら。何か悪いことがあったの? 家のこと?」

 胸の内にわだかまっていた疑問を、私はついに口にした。以前から疲れた顔をしていることはあったし、借金の返済で苦労していることは聞いている。それでも、こんなに弱り切ったミゲルを見るのは初めてだ。彼の自尊心を傷付けるのではと躊躇していたけれど、もう黙ってはいられなかった。

「……それも、あるよ。使用人も皆いなくなってしまって全部僕がやらなくてはいけないし。でも一番気掛かりなのは彼女のことなんだ」

「……具合がよくないの?」

 あまり丈夫ではないと言っていたが、大きく体調を崩すようなことがあったのだろうか。彼女が心の支えだと常から繰り返していたミゲルだから、それならこの憔悴ぶりも頷ける。ただ、昨日も彼は彼女と過ごす時間がいかに甘美なものか熱弁を振るっていたような――。

「そうなんだ。もう随分と彼女の笑顔を見ていない。ベッドから離れられなくて、まともに話も出来ないんだ……どうしたらいいんだろう、ベロニカ、助けて」

 私の疑問などよそに、ミゲルは話を進めていく。少なくとも彼の声に宿る悲哀と焦燥は本物だ。違和感の正体が何であれ、彼女の状態が良くないのは確かなのだろう。そうやって、私は自分を納得させた。

「落ち着いて、ミゲル。私はただの人形なんだから、貴方の大事な人を助けてあげられないわ。お医者様には診てもらったの?」

 再び俯いてしまった彼の肩を抱いて慰めてやりたかったけれど、それが出来ない私は懸命に声を掛けてミゲルを宥めようとした。なのに、言葉の半ばでミゲルの肩は震えだし、彼は恐ろしいほど低い声で呟いた。

「医者に、など。そんなことをすれば、彼女がどこへ連れて行かれてしまうか。誰にも触れさせてたまるものか」

「……ミゲル?」

 微かに上げられた視線に冷え切ったものを感じて、私は声をなくした。怖い。かつて感じたことのない恐怖を、私はミゲルの表情に見出してしまった。何かが壊れてしまっている。直感的にそう思った。支えにしていた『彼女』という存在が無くなってしまったから? けれど彼の口振りでは、まだ失われてはいない筈だ。ならば、何故。ミゲルを壊したのは、いったい何だというのか。

「どうしたの、ミゲル。なんだか様子が変だわ」

「変? 僕は前からこうだよ。君が気付かなかっただけだよ。可哀想で愛しい、僕のベロニカ」

 酷薄さをも感じられる口調で、彼は微笑んだ。今度こそ私は言葉を返すことも出来なかった。何かがおかしい。私は何を見落としているのだろう。違和感ばかりが膨らんでいく。

 ほんの数秒、けれど眩暈がするほど長く感じられた、苦しい沈黙。それを破ったのは、あまりに唐突なミゲルの提案だった。

「――そうだベロニカ、彼女の所へ来てよ。君が声になってくれればいい。そうすれば話してるのと同じだもの。構わないよね、『お友達』だろう?」

 勢いよく顔を上げたかと思うと、彼は打って変わって嬉々とした様子で捲し立てた。言い終えるや否や、口を挟む隙さえなくミゲルは私の身体を抱き上げる。

「待ってミゲル、何の話をしているの……!」

 急激に高さの変わった視界に目を回しながら、私は必死に叫んだ。けれどミゲルにはまるで聞こえていないかのように歩き出し、思わぬ形で私は自分の小さな世界から放たれることとなってしまった。



 真夜中の屋敷は当然暗く、鼠一匹の気配さえない静寂に満ちていた。ミゲルの持つランプの明かりだけが頼りなく周囲を照らし、一人分の足音がやけに高く響く。

「ねぇ、ミゲル……」

 何度目になるか分からない呼び掛けを口にするけれど、やはり応えてはくれない。私はいい加減に彼から説明を引き出すのを諦めら辺りの様子を見渡すことにした。どうせ『彼女』の元に着けば分かることだ。

 国の中でも屈指の豪商であった、と聞いていたが、それだけに屋敷の内装は豪奢なものだった。廊下ひとつ取っても、床は数種類の色の違うタイルで美しいモザイクが描かれていたし、備え付けの燭台は花を模した装飾が優美だった。火が灯されていればさぞ幻想的な光景が浮かび上がったことだろう。

 けれど、逆に言えばそれだけしかなかった。壁には絵画が飾られていたと思しき擦れた跡が残り、空間に彩りを添えるための花器もない。以前の華やかだった屋敷の面影は薄れ、随分と殺風景になってしまっていた。

 そこでふと、私は自分の中の矛盾に気がついた。あの部屋から出たのは初めての筈なのに、なぜ私は以前の様子と比べて見ているのだろう。私の意識があるのは真夜中の二時間だけで、その間も自分で動くことさえ出来ないのに。それとも忘れているだけで、以前同じようなことがあっただろうか。こんな風に彼に身体を抱かれ、体温と吐息を近くに――。

 私は身震いした。陶器の身体は実際に震えはしないけれど、もし人の身であったなら、みっともなく歯を鳴らして縮こまっていただろう。その部分に触れてはいけない、思い出してはいけない、閉ざした扉を開けてはいけない――何かが頭の中でそう囁いていた。逃げなければ、離れなければ、心を封じて、どこかへ。

 私は混乱した。そんなもの、私の中には無いはずだ。私にあるのは、あの部屋での甘く穏やかな記憶だけ。何を、恐れているというのだろう。

「ああ、ほら、着いたよ」

 自分でも訳の分からない不安に取り憑かれいると、ミゲルはとある部屋の前で足を止めた。恐怖が感覚を鈍らせ随分と歩いたような気がしたけれど、元の部屋からそれほど離れた場所ではないようだ。階段を上り下りした感触もなかったから、同じフロアなのだろう。

「……ここに『彼女』がいるの?」

「もちろん。どこへもやったりしないよ」

 恐る恐るミゲルに訊ねると、今度はきちんと答えが返ってきた。てっきり彼女の屋敷まで馬車でも飛ばすのかと思っていたから、拍子抜けだ。たまたま此方に来ていたのだろうか。体調が思わしくないのに、わざわざミゲルに会いに来て倒れてしまった――そんな筋書きが頭に浮かぶ。ありそうな話だ。それでミゲルは動揺しているに違いない。彼女の顔を見て、落ち着いて話が出来れば元の彼に戻ってくれる筈だ。

 私の葛藤など素知らぬふりで、ミゲルはノックもなしに部屋の扉を開いた。一歩、二歩と足を踏み入れると、ランプの明かりでぼんやりと中の様子が見え始める。この部屋も、私がいたところと同じくどこか寂れた印象だった。小振りの文机と椅子、ベッドだけは立派なレースの天蓋付きで、傍にサイドテーブルが置かれている。寝具は丁寧に整えられていたが、その半分だけが妙に膨らんでいた。

「待って、ミゲル……」

 気付いた時には、既にミゲルはベッドへと足を向けていた。弱々しい制止の声は彼に届かない。嫌だ。怖い。そこにあるのがなんなのか、見たくない。抑えきれない嫌悪感がじわじわと私に向かって這いより、ミゲルがベッドの天蓋に手をかけた時、それは頂点に達した。

「いや! やめて! 見たくないの……!」

 必死の懇願は聞き届けられなかった。ミゲルは私の身体を強く掴み、眠る人影の前に突き出した。思わず、痛い、と声が漏れる。血の通わない人形の身体。それでも痛かった。痛いということを、知っていた。

「さぁ、お友達を連れてきたよ」

 否応なく目に入ったのは、十五、六歳と見える少女だった。緩く巻かれた金髪、生気のない肌は青白く、形の良い唇も今はすっかり血の気が失せている。愛らしい少女。閉じられた瞼の奥にあるのは、きっと青い瞳だ。よく知っている。顔も身体つきも何もかも、だってこれは――。

 私は叫んだ。言葉にならない声が身体中に谺し、何かが割れた音がした。溢れ出したどす黒い煙は、まるで獰猛な蛇のように私の理性を、美しい記憶を食い荒らし、代わりに醜悪なもので満たしていく。目を背けてしまいたい――ああ、でも、これが真実。

 それを認めた瞬間、二時の鐘を待たずに私の意識は闇へと沈んだ。

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