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 ――すっかりいや気がさしたアリスは、立ち上がって、さっさと歩き去りました。ネムリネズミはそれと同時に眠り込んでしまい、ほかのふたりもアリスが立ち去るのをぜんぜん気にもとめませんでした。アリスは、うしろから呼び止めてくれないかしらと、じつは半分期待しながら、一、二度ふりかえってみたのですが、そんなようすはありませんでした。



 僕の通う高校は卒業式を毎年、三月一日に執り行っている。今年は冬が寒く、今日も雪がちらついていた。

 僕はマフラーに顔の下半分を埋めるように潜らせて、手袋をした手で先輩への贈り物を入れた鞄を持って歩く。最寄りの駅から高校へは徒歩十分もあれば着く。今頃は、きっと卒業生がクラスごとにひとりひとり名を呼ばれ、代表が卒業証書と記念品なんかをもらっているんだろう。


 僕は正面玄関から入って、まっすぐに図書室へ向かう。流石に今日みたいな日に図書室は開いていなかったけれど、きっと先輩は此処にくるんじゃないかと僕は思っていた。

 しんと静まり返った校舎に、僕の呼吸音が木霊するような気がする。ひんやりとした冷気が誰もいない廊下を這ってきて、僕の足元にまとわりついてくる。僕はガラスがはめ込まれた鍵のかかったドアから図書室の中を覗いた。

 ガラスに僕の顔が反射して、うっすらと僕が映っている。その奥で側面しか見えない本棚と、僅かにテーブルセットがいくつか見える。その奥にある本棚は見えなかった。カウンターには昨日の日付のままになっているプラスチックのプレートがこちらを向いて置かれていた。


 先輩と初めて会った日を僕は思い出す。ほんの数か月前のことなのに、先輩と過ごした時間が充実していて僕はきっとまた、先輩が卒業しても図書室にくるだろうと思った。

 先輩の穏やかな微笑、白い肌、柔らかそうな色素の薄い長い髪(一度で良いからあの髪の毛に触ってみたかった)。先輩との思い出を確かめるように思い出しながら、僕は先輩を思い出していた。先輩の少し高い、けれど落ち着いた響きを持つ声が僕を呼ぶのを思い出して、僕は目頭が熱くなるのに気付いた。恥ずかしい。みっともない顔を先輩には見せられない。


 そう思って僕が目を擦ろうと、ブレザーの下に着ているセーターを目元に持っていった瞬間、図書室のテーブルセットの向こうにある窓に、何かが映った。それは、落ちていく。


 涙でぼやけた僕の目は、はっきりと見えたわけではない。けれど、あの日と同じ長い髪が、あの人と同じ長い髪が、僕を残していくのを、僕は確かに見ていた。


 ゆっくりと、彼女は落ちていく。顔は最後にこの部屋を見納めようとでもしていたかのようにこちらを向いていて、僕は彼女と目が合った気がした。彼女が驚愕して見開いた目が――驚いた彼女がよくやる、ぱちくりとした目が――僕のぼやけている目と、合ったような気がした。


 その後は時の流れが正常に戻って、はっとした時にはもうその姿は窓のどこにもなかった。僕は恐る恐る、一歩、後退する。またあの窓に何か映るんじゃないか、卒業記念のびっくり企画の何かでないかと、思いたかったから。

 一歩動けば、体は動いた。僕は慌てて階段に向かって走って、階段を踏み外しそうな勢いで駆け降りる。正面玄関の前まできて上履きのまま飛び出していく僕を、ドアを開けているのだろう体育館の方から、仰げば尊しが追いかけてきた。


 彼女は体育館でそれを歌っているわけではないのだろうか。それにあれは、彼女だったか?


 僕は頭の中でぐるぐると回るその問いの答えを確かめるためだけに、校舎の外へ飛び出して外観をぐるりと迂回して図書室の下を目指す。うっすらと積もった雪の下にある落ち葉は湿って僕が走る度に足を取ろうとしてくるが、まろびそうになりながらも僕は駆け抜けた。


「はぁ、はぁ、……っ」


 冬のキンと冷えた空気が気管に侵入してきて、僕は呼吸困難になりかけながら、遂に目指す場所に到着した。スピードのあった脚が回転を緩めて、僕はそれへと進む。


 それは、紺色の塊だった。学校指定の、ブレザーだ。そこから伸びる袖は有り得ない方向に捻じ曲がっていて、袖先から見える白い手は二つとも掌を上にしていた。僕の視線は動いて、スカート。その下から覗く白い脚はだらりと脱力しており、紺のハイソックスを身に着けた右足の、脱げた上履きが離れたところで転がっていた。


 僕は視線を反対方向へ動かす。ブレザーの襟元から、細くて白い首が覗いている。柔らかそうな色素の薄い長い髪はそれの頬を撫でるように流れており、長いまつげに縁どられた眼窩にはめ込まれているガラス玉は、目の前の石ころを反射して映していた。その辺りからは、真紅の液体が光沢を放って薄化粧をした石畳を染めている。どろどろと、ペンキのようなそれは、傾斜に沿って流れていく。


 言葉は、出なかった。僕はそれを見下ろして瞬きを忘れたまま、放心して立ち続けていた。手に持っていたはずの鞄は落ちて、中のクッキーが割れてしまっていることに、その時の僕が気づくことはなかった。



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