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それから後のことを、僕はよく覚えていない。職員室で電話番をしていた先生がトイレから戻ってきて、鍵を保管している箱が開いていること、屋上の鍵がなくなっていることに気づいて慌てて職員室を出た直後に、階段を勢い良く降りていく僕を見かけたらしい。あまりに血相を変えて駆ける僕を何事かと思って追いかけた先生が、僕が立ち尽くしている現場に到着して何が起きたかを一瞬で把握したようだと、後で聞いた。
卒業式は滞りなく終わったが、その直後に緊急会議が行われて救急車や警察が到着する騒ぎになり、先輩が屋上から飛び降りたことが全校生徒に知れ渡った。すぐに卒業生の保護者への説明会、登校していた卒業生、在校生への説明(そのどれも、現在調査中で、飛び降りたのは三年生の誰それの可能性が高い、という情報の少ない説明だったようだ)、第一発見者の僕は先生と警察とに状況やら色々聞かれて、解放されたのはいつだったか、僕の記憶の中ではあやふやになっている。
大人も子どもも入り混じった混乱の中で、僕はある噂を聞いた。
先輩が、僕のクラス担任の化学教師と、特別な関係にあったらしい、という噂。
化学教師は、先輩のクラスの教科担当だったらしい。先輩と懇意にしていた僕は、本人からその噂について相談されたかとたくさんの大人に詰問された。僕は答えられなかった。
あの日、先輩がつらそうな顔をしたあの日、僕は聞いておくべきだったのだろうか。先輩のつらそうな顔を見たくないという僕のエゴで話を聞かなかったことは、間違っていたのだろうか。それももう、確かめることはできない。答えを与えてくれる人は、もう、どこにもいないのだ。
化学教師は妻の国語教師を筆頭とする学校関係者にこってりと絞られているだろう。生徒と本当に関係があったのか、あったとするならどちらから言い寄ったのか、生徒が飛び降りることは知らされていたか、二人の関係を苦にして飛び降りたのではないか、だとしたら責任はどこにあるのか。
噂では、先輩が化学教師を誘惑した、らしい。先輩はもう二度とそれについて話せないから何とでも言えるだろう。後は誰がそれを信じるか、ということだ。
ワイドショーは連日、この話題で持ちきりだった。マスコミは、学校の危機管理の甘さと教師の不貞について面白おかしく取り上げることに忙しいようだ。マスコミにとっては生徒が教師を誘惑したにしろ、教師が生徒を誘惑したにしろ、大人である教師が子どもである生徒に正しい道を示せなかったことをセンセーショナルに報道することが大切なのだろう。教師のモラル教育についてもマスコミは学校を取り巻いてインタビューと称して校長にマイクとカメラとフラッシュを向ける。今の学校は、てんやわんやだ。
不幸中の幸いか、年度末で授業がほとんどないことを活用し、学校は生徒に自宅待機を命じ、ワイドショーに曖昧で不確かな情報を迂闊に提供しないように、というお達しを出した。それに不満を漏らす生徒もいないわけではなかったが、提供できる情報も噂くらいしかない。実際に目立つ先輩ではなかったようだし、僕自身も目立つ生徒ではなかったから、ワイドショーが他の生徒を嗅ぎ回っても出てくるのは僅かな情報だった。図書委員の仕事をすべて交代する先輩の話、行事に参加しない僕の協調性のなさくらいしか、学校での僕らについてマスコミが知っている情報はないだろう。
自殺した生徒が他の生徒から見てどういう生徒だったかということより、マスコミが嬉々として取り上げたのは、先輩の家庭事情だった。
「――先日、卒業式を行っている学校の屋上から飛び降り自殺をしたと見られている藤木有紗さんの家庭では、父親から有紗さんへの暴力が日常的に、行われていました」
テレビのワイドショーでは、誰の影もない学校付近をモザイク入りで映した画面に収まるレポーターが、深い声色で、深刻な事件であるとばかりに原稿を読んでいた。
先輩の家では、確かに父親からの虐待があったそうだ。事情聴取の際に、僕はそこまで先輩に聞いていたか、と聞かれた。聞いたことはない、と答えながら僕は、先輩について何も知らないということを痛感させられた。僕が知っていることなど何もないということを警察も先生方も理解したのか、真相には遠い第一発見者だったと、やや失望の色を浮かべながら解放したのだ。
僕は当然、先輩の死の真相など知らなかった。知っていたら、その前日にクッキーなんて幸せなお菓子を呑気に作っているわけがない。止めたかどうかは、判らない。けれど少なくとも僕は、クッキーなんて作っていなかったはずだ。翌日に死ぬ人のために、食べてもらうために。
世間や先輩のことをよく知らない人は、先輩をたくさんの色眼鏡で見る。父親の暴力から逃れるために図書委員の仕事を代わっていたのではないか、男に媚びることを覚えた先輩は化学教師を取り込んで妻である国語教師を操作して学校で生きやすくしようとしていたのではないか、高校卒業後に化学教師に色々と援助してもらいながら生活しようとしていたのではないか、たくさんの憶測が飛び交った。僕はそのどれをも否定したいが、否定する材料を先輩にはもらっていないことを知っていた。僕は先輩のことを、何も知らない。
先輩は何も残さず、ただ多くの混乱と僕を置いて、いなくなってしまった。
三月の桜が、春一番に吹かれてひらひらと舞っている外を、僕は自分の部屋の窓からじっと見ていた。
――「ここからどの方角へ行ったらいいか、教えていただけるかしら?」
「そりゃ、あんたがどこへ行きたいかでかなりちがってくるだろうな」
「どこでもかまわないんですけど――」アリスがいいかけると、ネコがいいました。
「それじゃ、どの方角へ行こうとかまわんだろう」
「――どこかへ行きつくことさえできればね」アリスはことばのつづきをつけ加えました。
「そりゃ、どこかへ行きつくにきまってらあね、ずっと歩きつづけさえすればね」




